琥珀色の戯言

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【読書感想】作家の贅沢すぎる時間-そこで出逢った店々と人々- ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
美味い、不味いじゃない。行き着くところは「味より人」である。執筆のあとに、旅した街で…作家の心と腹を満たした“馴染味の店”75軒を初公開。初の食エッセイ集!


 伊集院静さんの作品は、僕にとっては「大人の男ポルノ」だと思っています。
 もうすぐ半世紀も生きてきたことになるのに、自分が「大人」としてふるまえているのか自信が持てない僕にとっては、伊集院さんは憧れの人で、伊集院さんの生き様や作品、ギャンブルに対する姿勢を読むたびに、「僕もこんなふうに生きてみたいなあ」と思い続けている。
 考え方は体育会系だし、ギャンブルでの負けっぷりもすさまじいのに、やたらと男にも女にもモテるし。

 この本、齢70を迎えた伊集院さんが、はじめて、自分の行きつけの店について、店名を挙げて書いたエッセイだそうです。
 それでも、ゴルフで1日でコースを3ラウンド(54ホール)回れるくらいの体力があるっていうのはすごいよなあ。ジム通いやランニングを日頃からして体力を維持している、というよりも、文章を書いて銀座で飲んでいる姿しか思い浮かばないのに。
 ご本人も書いておられるように、「若いころにスポーツ(野球)や仕事のなかで、必要に迫られてできた身体は、プロテインやジム通いでつくられた身体よりも強い」のもうなづけるような気がします。
 これまでのエッセイにも、いろんな飲食店での出来事が書かれていたような気はするのですが、伊集院さんの場合は、「本人がそう仰るのなら、それでいいです」とこちらも納得してしまうところがあるんですよ。

 鮨屋をあちこち覗いていつも思うことだが、若い衆の風情、雰囲気を見ていて何人かの人に想った。
 ──この若い衆はやがて一人前の鮨職人になり、勤勉にやり続け、運が良ければ店を持つようになるのだろう。
 しかしそうなる職人はごくわずかだった。
 ──何が、彼等の分岐点を作るんだろうか?
 と考えたことがある。
 これだという答えはないが、見ていて実直と丁寧、それに少しばかりの運があれば、そうなる気がする。
 ずいぶん前に、或る老舗鮨職人に訊いたことがあった。
 この人は名人と呼ばれた人である。
「伊集院さん、鮨屋ってものは丁寧にやってさえすれば傾くことはないんです。そうですね。粗く見積もっても利は八割を超える仕事です」
「そんなにですか?」
「ええ、まあ店や、街にもよりますが、しっかり修行して仕事さえ身に付ければ、それから先は、少しの運があればいいんです」
 皆が同様のことを話してくれた。
 ──少しばかりの運? とはどれくらいのものなんだろうか。


 この「実直と丁寧、それに少しばかりの運」というのは、鮨屋以外にもあてはまるのではないか、と思うのです。
 でも、これをやり続けるっていうのは、本当に難しい。
 疲れていたり、プライベートに問題が生じたりすると、仕事が粗くなったり、面倒くささに負けてしまったりすることもあるし、うまくいって調子に乗って、「初心」を忘れてしまうというのもよくある話です。

 伊集院さんにとっての店は、とにかく「人」が大事だそうなのですが、伊集院さんは多くの店で「上客」として扱われていることがよくわかります。
 それも、まだそんなに有名ではなかった若いころから。
 競輪の「旅打ち」にやってきたのだけれど、肝心の決勝戦の前日にすっからかんになってしまって、通っていた店で飲んだあと眠らせてもらった翌朝、枕元に多額の軍資金が置かれていた、なんて話を読むと、世の中にはこんな世界があるのか、と驚かずにはいられません。

 洋服流行のブランドのバーゲンセールで買い物をするためのお金をみんなから預かったとき、人の流れに沿って歩いていたら、ちょうど有馬記念の日だったそうです。
 この金を増やして、もっとたくさん買い物をしてやろう、と、スピードシンボリアカネテンリュウの馬券を枠連1点で的中し、750円(3番人気)の配当を得た話を読んで、立川談春さんの『赤めだか』にも、たしか、お金がどうしても必要になって、競艇で大勝負をして勝ったエピソードがあったな、と思い出したのです。
 僕は絶対にこういう勝負はできない(と思う)のですが、大部分の人は、「一発逆転」を狙って勝負をしても、外れてジ・エンド、になるはずなんですよ。
 こういう「無謀な一点勝負」で当てられるのは、特別な人に与えられた「才能」なのか、それとも「強運」なのか。
 

 ジャニー喜多川さん、森光子さんと一緒に麻雀をしたときの話。

 私はジャニーさんとはあまりつき合いがない。挨拶するくらいだ。
 一度、何かの折に麻雀をした。
 相手はジャニーさんと森光子さんとどこかのテレビ局の人であったが、打って驚いたのは、すべての和了が局面の後半になることだった。
 ──なぜ、そうなるのか?
 とジャニーさんと森光子さんの打ち筋を見ていたら、
 ──そろそろリーチか、和了してもいいはずなのだが……。
 テンパッているのを感じても、なかなか牌を倒さない。
 三十分くらいして、その理由がわかった。
 どんな手牌でも、二人は満貫以上を目指して打っていた。
「ダメだわ。これじゃ満貫しかならないわ」
 ──オイオイ。
 ドラがたくさんある麻雀で、そのドラが来たら手放さない。
 森さんが途中で、
「伊集院さんはこれまで和了した手役で一番高かったのはどんな手?」
 と訊いた。
「そりゃ、役満ですね」
「ダブル役満?」
「いや、それは和了したことはありません」
「あっ、そうなの……」
 その言い方が、そんなものなの? というニュアンスがあったので、
「森さんはどんな高い手役を」
「私はリーチ一発ツモドラ二十というのを和了したことがあるわ」
 ──オイオイ、十四枚しか牌はないんだよ。
 聞けばダブル、トリプルドラがあったということであった。
 これはダブル数え役満というらしい。親から9万6000点ですと。
 そんな調子だから、とにかく一局一局が時間がかかる。テレビ局の人もよく耐えてるナと思った。
 麻雀が終ってから、その局の男性に訊いた。
「いつもあんな麻雀ですか?」
「いや、あの人たちと打つと自分の麻雀がしばらくオカシクなるんですよ。たいした人たちです」
 今頃、あっちで麻雀を打っているのだろうか。


 ジャニー喜多川さんや森光子さんにとっての麻雀というのは、その勝負に勝って何かを得るためのもの、というより、自らの「運だめし」みたいなものだったのかもしれませんね。
 同じ卓を囲んでいても、みんなが同じものをみているとも、同じ目的をもっているとも限らない。


 この本を読んでいて、僕は自分の父親のことを思い出さずにはいられなかったのです。
 毎晩のように飲み歩いて、行きつけの店では「顔」であり、そこの常連さんたちと仲良くしていて、酔っ払って帰ってくるのが中学生くらいの僕にはすごくみっともなく思えていました。
 でも、この本に書かれている伊集院静さんの日常というのは、スケールの違いはあるにせよ、僕の父親が当時やっていたことと、あまり変わらないような気がします。そりゃ、「飲み仲間」は松井秀喜さんとか武豊さんじゃないけれど。
 伊集院静さんの「大人の飲み方、遊び方」には憧れるにもかかわらず、自分の身近な人の同じような行動には嫌悪感しかない。
 人間の価値判断とか他者の行動に対する好悪というのは、けっこういいかげんなものだよなあ、と思うのです。
 いまは、僕もこの年齢になりましたから、あの頃の父親の行動も、「わかるような気もする」のですが。
 

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