琥珀色の戯言

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【読書感想】ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
全体主義の起原』『人間の条件』などで知られる政治哲学者ハンナ・アーレント(1906‐75)。未曽有の破局の世紀を生き抜いた彼女は、全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。ユダヤ人としての出自、ハイデガーとの出会いとヤスパースによる薫陶、ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争―。幾多のドラマに彩られた生涯と、強靱でラディカルな思考の軌跡を、繊細な筆致によって克明に描き出す。


ハンナ・アーレントとは、何者なのか?
昨年、映画『ハンナ・アーレント』が日本で公開され、あらためて注目されたそうなのですが、僕はこの新書を読んで、その映画のことをはじめて知りました。
こんなにネットで日々「情報収集」をしているつもりなのに、自分の興味と少し離れたところには手が届いていないものなのだな、と。


ハンナ・アーレントさんは、ドイツで生まれたユダヤ人の哲学者で、第2次世界大戦中にナチスから逃れてアメリカに亡命しています。戦後もアメリカで生活をしながら、自分の信念に従い、著述によって「全体主義」に対する抵抗を貫いていくのです。


率直なところ、僕はこの新書を読んでも、ハンナ・アーレントさんの「哲学」を理解することはできませんでした。
いや、これを読んだくらいで「わかった」なんて言えるような生易しいものではない、ということは理解できました。
その一方で、この新書を読むと、ハンナ・アーデントというひとりの人間の生きざまの概略を知ることはできるのです。


ユダヤ人の富裕層・知識層の一員として生まれ、ドイツの社会のなかで、ときには差別を受けながらも「普通に」生きていたはずの彼女の人生は、ナチスの台頭とホロコーストによって、大きく歪められていくのです。
かろうじてナチスから逃れ、アメリカに亡命した彼女は、第二次世界大戦の終戦後も、ヨーロッパの友人たちと交流しながら、アメリカで生きることを選択します。
「ユダヤ人であること」と「ナチスによる迫害を経験したこと」の影響、そして、「にもかかわらず、収容所に送られることもなく、海外で『あの時代』を過ごしたこと」による、同胞たちとの微妙な距離感。
ハイデガーヤスパースとの親密な交流も描かれています。


アーレントの「政治哲学」というのはかなり難解なものに僕には思われるのですが、この新書で、彼女の行動を追ってみると、その思想が少し理解できたような気がするのです。
彼女は、「自分の思想を裏切らずに現実の人生を送ろうとした」数少ない哲学者なのではないかと。


ハンナ・アーレントという哲学者の名前を『全体主義の起源』『人間の条件』などの著作とともに、あるいはそれ以上に多くの一般の人に知らしめたのは、「アイヒマン論争」でした。
ナチスの高官であり、ホロコーストの実行に強く関与していたアドルフ・アイヒマンは、潜伏先のアルゼンチンで1960年にイスラエル諜報機関によって逮捕されます(裁判で死刑判決を受け、1962年6月に絞首刑執行)。
その「アイヒマン裁判」を傍聴したアーレントが書いた「イェルサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さについての報告」は、1963年『ニューヨーカー』誌に掲載され、論議を呼びました。

 第一回目の雑誌掲載直後から、アーレントはそれまでに経験したこともない激しい非難と攻撃を浴びた。彼女は自分にはその法廷がどのように見えたのかを語ったのだが、それは許されざる見解だった。彼女は、裁判長のランダウ判事が「被告が告発され弁護され判決を受ける」という法廷にあるべき「正義」に仕えていたのにたいして、「裁判全体の見えざる舞台監督」であるイスラエル首相ベン=グリオンが検事長ハウスナーをとおして展開しようと意図していたのは、「反ユダヤ主義の歴史」であり、「ユダヤ人の苦難の巨大なパノラマ」という「見世物」であったと指摘した。さらにはイスラエルでユダヤ人と反ユダヤ人の結婚を禁止する法律があることを批判した。また、ナチ官僚とユダヤ人組織の協力関係に言及した。アーレントの言葉は、ユダヤ人にナチの犯罪の共同責任を負わせ、イスラエル国家を批判するものと受けとめられたのである。
イェルサレムのアイヒマン』は刊行前から非難の嵐に巻き込まれ、刊行後数年たつまで攻撃の文書が絶えなかった。批判はおもに次のような点に向けられていた。一つには、アーレントがユダヤ評議会のナチ協力にふれた点である。「ユダヤ評議会はアイヒマンもしくは彼の部下から、各列車を満たすのに必要な人数を知らされ、それに従って移送ユダヤ人のリストを作成した」と彼女は書いた。もう一つには、アーレントがドイツ人の対ナチ抵抗運動、とりわけヒトラー暗殺を企てた7月20日事件に言及し、その勇気はユダヤ人への関心や道徳的な怒りから出たものではないと述べた点である。アーレントによれば、「彼らの反対運動を燃え上がらせたのはユダヤ人問題ではなく、ヒトラーが戦争の準備をしているという事実だった」。さらには、アイヒマンを怪物的な悪の権化としてではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した点である。紋切り型の文句の官僚用語をくりかえすアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力ーーつまり誰か他の人の立場に立って考える能力ーーの不足と密接に結びついていることは明らかだった」と彼女は述べた。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った。こうしたアーレントの見方すべてが、アーレントは犯罪者アイヒマンの責任を軽くし、抵抗運動の価値を貶め、ユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしていると断言された。アーレントにたいする攻撃は、組織的なキャンペーンとなり、アーレントは実際にテクストをまったく読んでいない大量の人びとから追い詰められることになった。


 長い引用になってしまいました。
 これを読んで、どう思われたでしょうか?
 「アイヒマン裁判」から半世紀以上が経過した、2014年の僕が読むと、アーレントの指摘は的確なものだと思われるのです。
 アイヒマンが「凡庸な男」だった、という指摘も、後世の人間からすれば、頷ける面があるはず。
 1963年には「アイヒマン実験」も報告されました。
 普通の人間でも、いや、普通の人間だからこそ「命令に対して服従しなければならない」という状況下では、残酷なことを疑いなしにやってしまうことがある。


 しかしながら、ホロコーストが実際に起こってから、わずか15年あまりの時点、犠牲者や関係者の記憶が生々しかった時代に、あの「人類史における大罪」について、「被害者側から加害者への断罪ではなく、一歩引いて分析したこと」は大きな反感を生みだしてしまったのです。
 あんなに酷い目にあったユダヤ人の側の誰かの罪を問うたり、加害者を「巨悪」ではないと矮小化したりすることが、許される「空気」ではなかった。
 ましてや、アーレントは「同胞」の、ユダヤ人だったのです。


 アーレントは、この「アイヒマン論争」で、大勢の友人を失い、その後も大きな非難にさらされ続けたそうです。
 「ユダヤ人社会」にとっては、アーレントは、存在してはならない「異分子」だと判断されてしまったのです。


 アーレントは、この「アイヒマン論争」の前に、こんなことを述べています。

 また、アーレントにとって「人間的であること」は、たとえそれが摩擦や敵対を生み出すものであっても、複数の人びとが「あいだ」の領域である世界に生きることにほかならなかった。ユダヤ人であることにおいてもそれは要請される。複数の視点が存在する世界に生きるとは、「人間」として抽象的に同じであろうとすることでもなければ、特殊性を強調することでもなかった。
 アーレントは、複数の人びとが距離をもって共有する世界を媒介とせずに人びとが直接に結びつく同胞愛や親交の温かさのなかでは、人びとは論争を避け、可能なかぎり対立を避けると語る。彼女はこうした同胞愛や温かさが不必要だと言っているのではない。それが政治的領域を支配してしまうとき、複数の視点から見るという世界の特徴が失われ、奇妙な非現実性が生まれると言うのである。複数の視点が存在する領域の外部にある真理は、善いものであろうと悪いものであろうと、非人間的なものだ、と彼女は言い切る。なぜなら、それは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ、単数の人間、一つの種族だけが地上に住むかのような事態を生じさせる恐れがあるからである。世界喪失への危惧はこうしたところにも存在していた。


 「同胞の絆」とか「空気を読め」という強制力によって、人間の多様性が失われ、世界が「単一化」してしまう。
 それは美徳であるようにみえるけれども、「全体主義」へつながっていく道筋なのかもしれない。
(すみません、このへんの解釈は、僕にはあまり自信がないのですが)


 僕はこれを読んでいて、『タモリ学』という本のなかで採り上げられていた、タモリさんのこんなエピソードを思いだしたのです。

 『27時間テレビ』ラストの挨拶、その冒頭でタモリは、「団結、団結と言って団結したんですけど、そのぶん国民から離れたかもしれません」と切り出した。
 同様の主旨のことはすでに番組のオープニング、FNS各局の中継リレーで口にしている。
 地方局が大変な盛り上がりを見せているのを尻目に、「我々は団結しているかもしれないけど、国民からは離れていってるんじゃないの? やりすぎじゃないの?」と「団結」をテーマにした番組そのものに冷水をぶっかけた。
 タモリはそこに「偽善」を見ていたのだろう。


 ひとつの集団の「団結」があまりにも強まっていくと、内部での「単一化」「全体主義化」が起こり、どんどん「排他的」になっていく。
 「空気を読まない意見」や「批判的なツッコミ」がみられることこそ「人間らしさ」ではないのか?
 タモリさんのこのエピソードって、すごく「アーレント的」だなあ、と思います。
 

 アーレントは、1963年の7月末に友人ゲルショーム・ショーレムへの手紙への返事を書いた。ショーレムの手紙とアーレントの返信は半年後にドイツ語、ヘブライ語、英語の新聞で公開されている。ショーレムは、彼女の本に見られる「冷笑的で悪意に満ちた語り口」に異議を唱え、それがユダヤ人の受難や悲劇にとってあまりにも不適切なスタイルであり、「心の礼節」を欠くものだと批判し、「民族の娘」である彼女に「ユダヤ人への愛」が見られないことが残念だと述べた。アーレントは、自分は「民族の娘」ではなく自分自身以外の何者でもないと答え、さらには、自分が愛するのは友人だけなのであり、「なんらかの民族あるいは集団を愛したことはない」と書いた。また、政治における「心の役割」は真実を隠し、不愉快な事実を報告する者を責める状況にもつながると述べ、彼女自身の「大きな悲しみ」は見せるためのものではないとも伝えている。


 現在は、ネット上で少しでも「公共の正義」から外れた言動がみられると「炎上」してしまうことがあります。
 「被害者の気持ちを考えてみろ」と批判されることもある。
 特定の民族に属しているというだけで、ヘイトスピーチを遠慮なく浴びせてくる人もいる。


 そういう「圧力」で、異論を唱えられない世界に、なりつつあるのではないか?
 ネットは「多様化」「フラット化」をもたらすのではないかと予想していたけれど、そこに見られるのは「単一化に向かう同調圧力」なのではないか?


 ハンナ・アーレントの哲学が、こうしていま、再評価されてきていることには、それなりの「理由」や「背景」があるのではないかと、僕には思われるのです。
 彼女の「哲学」を理解できていないであろう僕が言うのもおこがましいのですが、僕も、もっと勉強してみるつもりです。


人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

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