- 作者: 石黒浩
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/12/18
- メディア: 単行本
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Kindle版もあります。
- 作者: 石黒 浩
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2016/01/15
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
マツコロイド、美人すぎるアンドロイド、人間国宝を永久保存…世間の度胆を抜く発想で注目を集める世界的ロボット工学者・石黒浩。アンドロイドが教えてくれる「人の気持ち」や「人間らしさ」の正体とは?常識を次々と覆していく鬼才が人間の本質に迫る。
いやあ、この石黒さん、本当に「鬼才」だな……
アンドロイドを通して考える「人間らしさとは何か?」
この新書、すごく興味深く、面白かった。
あの「マツコロイド」を作った石黒さんは、子供のころ、「空気が読めず、『人の気持ちを考えなさい』とよく言われていた」そうです。
でも、ずっと、「気持ち」とか「考える」という行為の正体がわからなかった。
そして、その疑問に、周囲の大人たちは、誰も答えてくれなかった。
そこで、人工知能の研究をして、コンピュータに、石黒さん自身の解釈による「考える」「思う」という行為をやらせることによって、「人の気持ちを考える」ということを解き明かそうとしているのです。
研究していると、ひとつわかってきた。
「人の気持ちを考える」を理解するための人工知能を作るためには、脳の神経回路を研究し真似しているだけではダメだ、ということである。体なしの人工知能は、ありえない。脳しかない人間は、賢くなりえないのだ。体がなければ何も「経験」ができず、経験がなければ過去の出来事を次の行為にフィードバックすることができない。
たとえば手を刃物で切ってしまった子どもは血を流し、痛みを感じ、泣きながら「今度から気をつけよう」と思うだろう。経験が人を賢くする。そのためには「感覚」が必要であり、感覚で見聞きした情報を使ってみる体がなければいけない。コンピューターの「脳」にあたるCPU(中央演算処理装置)自体を一生懸命見たところで「こいつ、賢いな」と思う人間はいないだろう。手足に相当するマウスやキーボードの操作を通じて、パソコンやスマートフォンが人間には即座にできないこと(検索でもメールでもゲームでもいい、誰もが日常的にしていることだ)を実行し、それがディスプレイに表示されるから「賢い」と感じられる。そもそも目や手足といった感覚器や運動器がなければ、いったい誰が脳に多様な情報を入れることができるのか? 人工知能には、かならず体が必要なのだ。体と心は、密につながっている。
人工知能には動く体が必要だとわかり、僕は身体のある人工知能――ロボット研究に没頭することになった。
僕は、いつか人間を作れると思っている。「人間を工学的に実現する」ことはおそらく可能なのだ。だれもが「このロボットは心を持っている」と思うロボットが実現できれば、それは人間と一緒である。そのロボットはすなわち「人の気持ちを考える」とはどういうことか、そして「人間とは何か」という根源的な問いに対する答えとなる。
つまり、ロボットが「人間の条件」を教えてくれるのだ。
この新書で、著者の「人間らしいロボットへの試行錯誤」を読んでいて、僕はものすごく「腑に落ちた」のです。
世の中って、「やっぱり人と人とのふれあいが大事」とか「機械には人間の心がわからない」なんて言うじゃないですか。
でも、僕のなかには「対人関係のめんどくささ」みたいなものが、ずっと溜まっていて。
著者は「テレノイド」という、「クリオネ」みたいな、顔と短い手と丸まった下半身を持ったロボットでの実験結果を、このように紹介しています。
僕が作ったロボットで、もっとも「気持ち悪い」と言われるのは、「テレノイド」である。こんな気持ち悪いものを作り、高齢者に抱かせて実験しようなどと考えた人間は、僕のほかにはいないだろう。
テレノイドは、人間としての必要最小限の「見かけ」と「動き」の要素のみを備えた通話用のロボットである。やわらかな形状をした端末を抱えながら、声を通して相手と話す。対話相手の姿を見ることはできない。一方で、テレノイドを操作している人間は、ロボットに附属するカメラで撮影され、向うからは姿が見えた状態で話をする。
(中略)
複数の施設の協力を得て実験したところ、高齢者はこのテレノイドでの通信を好み、「生身の人間以上(実の家族以上)に親しみやすい」と評価する傾向が、如実にあらわれた。もちろんそれでも「気持ち悪い」と言う人もいるが、大抵の人はテレノイドを使って通話し始めると、夢中になって話をするようになる。これは日本だけでなく、オーストリアやデンマークなど、さまざまな施設で行なったアンケート調査から明らかになっている。
70代〜80代の老人たちは、なぜ自分の息子たちとの対面のコミュニケーションより「テレノイド相手に息子と話すほうがいい」と言うのか。なぜ「かわいい孫やひ孫はまだいいが、50代〜60代になる自分の子どもには会いたくない、テレノイドのほうがいい」と言うのか。
テレノイドを通じての対話なら、家族が内心抱いている「親の世話をするのは面倒くさい」という雰囲気や、不安が表情に出ることもなく、それが親に直接的に伝わることもない。だから高齢者は「テレノイドと話すほうが快適だ」と言うのである。
高齢者には肉親のみならず、デイケアセンターのスタッフや医者、看護師との会話にも気後れする人が多い。「先生に迷惑をかけてしまうのではないか」といった後ろめたさが付きまとい、医者とあまりしゃべらない人も多いのだという。
ああ、こういう「相手の顔色をみて、迷惑をかけているのではないかと想像してしまって、会話が苦痛になること」って、ありますよね。
人間にとって、人間と面と向かって「うまくやる」のは案外難しい。
身内だから、ということで、かえって相手も包み隠さずに面倒そうな顔をすることもあるでしょうし。
そんなに仲が悪くない身内であっても、こういうのって、あるんですよね、きっと。
むしろ、「顔が見えない」ほうが気楽なのです。
もっと言えば「声も聞こえないほうが気楽」だからこそ、あっという間に電子メールというコミュニケーションの手段が広まっていったのではないかと思います。
この新書を読んでいると、「人間好き」が思っているよりも、「対人コミュニケーション」のめんどくささに辟易している人は多いようなのです。
また、大阪タカシマヤで活躍している、接客アンドロイド「ミナミ」についても紹介されています。
ミナミは服を売っているのですが、販売員としての成績は優秀で、高齢者や男性に対しては、人間よりもいい成績を出しているそうです。
お客さんは、ミナミとタブレット端末のディスプレイに表示される選択肢を選んで会話するのですが、基本的な選択肢の数は4つで、そのうち1つは「そんなこと言うて、また買わそうとして」というようなネガティブなものになっているそうです。
なぜなら、そういうふうに相手にネガティブなことを言うと、大部分の人は負い目を感じて、「フォロー」しようとして、罪滅ぼしに服を買うことを検討するようになるから。
人間対人間ならわかるのだけれど、対アンドロイドでも、人間にはそういう傾向があるのです。
対人だと、そう簡単にはネガティブ、攻撃的な言葉は投げつけられないけれど、相手が機械だったら大丈夫だろう、と選択してしまったあとに、やっぱり後悔してしまうんですね。
しかしこれだけでは、ミナミの方が人間の販売員よりも好成績な「売上」までを達成できる理由を説明できない。なぜなのだろうか。
ふつう、僕らが服屋に行った場合、人間の店員に話しかけるのは、あるていど服を買うという意志をもって行動しているときである。言いかえれば、店員に話しかけることは「その服を買わなければならない」というプレッシャーにつながっている。しかしたとえば試着して気に入らなかったときや、よく見たら似合わなかった場合には、断らなければいけない。むこうは売るのが仕事だから、似合っていなくても「お似合いですよ」と言って買わせようとするかもしれないし、あれこれいらないものまで薦めてくるかもしれない。それを断る必要を想像してしまうと――非常にめんどうくさい感覚をおぼえる。
ところがアンドロイドに対しては「ロボットだし、イヤなら無視すればいい」と人間は思う。だからほとんどのひとは、ミナミに話しかけることに抵抗がない。いつでも断れると思っている。逆説的だが、断れると安心しているからこそ、積極的に買い物にのぞめるのだ。人間相手に服を選ぶさいには抱く抵抗感が、ミナミを前にすると薄くなる。こうした心理状態にあることは、アンケート調査に裏づけられている。
もうひとつ面白いのは「アンドロイドは嘘をつかない」という信頼感である。
「買わなくても、気軽に断れる」そう思うと、ミナミに声をかけやすい、というのは、すごくよくわかります。
僕は、服屋で店員さんがすぐに寄ってきて、「お似合いですよ」とか、明らかに似合っていないものを薦められるのが、苦手で苦手で。
そもそも、似合わないのは服のせいではなくて、僕自身に問題があることも理解しているので、さらに心苦しい。
こうしてみると、ロボットには、人間でないことによる安心感、みたいなものが少なからずあるのです。
(著者は「距離感がない」「遠慮しなくていい関係」だと述べています)
著者たちは、自閉症の子どもの治療にアンドロイドやロボットを使う研究をすでに3年ほど行なっているそうです。
そもそも僕がめざしているのは、人間らしい振る舞い、そして表情をアンドロイドから学べるようにすることなのだ。
この言葉だけを抜き出すと、「不謹慎な!」と怒る方もいらっしゃるのではないでしょうか。
でも、この新書を読んでいただければ、このアプローチは、自閉症の子どもたちが、周囲から「人間らしい」と見てもらうためには、かなり有望であることが理解してもらえると思います。
そもそも、人間は、自分にとって都合のいいときだけ、「人間らしさ」を賞賛するけれど、「人間らしさ」の8割くらいは、他者にとっては「めんどくさいもの」だと僕は感じますし、他者に与える印象の大部分は、後天的なトレーニングによって身についたものなんですよね。
将棋の世界で、コンピュータの思考ルーチンが、人間の対局から指し手を学ぶシステムによって急速に進化したように、ロボットも、どんどん「人間らしく」なっていく。
人間というのは、「まだロボットに追いつかれていないだけ」なのかもしれません。
そして、「人間らしさ」には、「見た目」も重要なのです。
『機動戦士ガンダム』のジオングについて、技術者が「あんなの(手や足)は飾り物です。偉い人には、それがわからんのですよ」と言っていましたが、ロボットが「人間らしく」なるためには、「飾り物」が必要なのです。
かなり知的好奇心をそそられる新書ですので、興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。