琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「愛国心」って何なのだろう?

http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/717

先日のワールドカップの日本対オーストラリア戦を観ていて、僕の心に強く残ったシーンがありました。
それは、国歌斉唱で日本代表のサポーターたちが、大声で「君が代」を歌っていたシーンなのです。
ドイツという異国で、あんなふうに「君が代」を熱唱しているたくさんの日本人を観る機会が来るなんて、なんだかとても不思議な気がして。
僕はいわゆる「戦後教育セカンドインパクト世代」というか、「戦後教育を受けてきた人たちが教師として僕たちを教えてきた世代」(いまの30〜40歳くらい)にあたりますから、いろんな場所で演奏され、斉唱を強要される「君が代」をまともに歌うなんてことは、まずありませんでした。というか、あれは歌ってはいけないものだと思ってた。「日本帝国主義の象徴」とかなんとか。
まあ、中高生なんて、自分の学校の校歌ですら、こっ恥ずかしくて歌えない時代ではあるのかもしれませんが、いろんな公式行事で演奏される「君が代」って、ほとんど一緒に歌っている人っていなかった記憶があるのです。

その「君が代」をあんなふうに若者たちが声を合わせて歌っているのを観ると、やっぱり「隔世の感」があるのは事実です。あのサポーターたちは、自分の中学や高校の学校集会でも、あんなふうに大声で「君が代」歌っていたのかなあ、なんて思ってみたり。もしかしたら、「君が代」は、「日本の国歌」というよりは、「サッカー日本代表のテーマソング」として認知されているのかもしれません。

でも、正直僕は、あの大合唱って、ちょっと怖い気がするんですよね。ああやって、みんなが「日本」を語ることによって、僕たちは、どこかに流されてしまうのではないか、と。考えてみれば、日本代表がワールドカップを制覇しようが、僕のもとには1円たちとも入ってくるわけではなく、儲かるのは選手たちとスポンサーだけなんですよね。もっと言えば、サポーターというのは、ある種「搾取されている存在」なわけです。それでも、やはり「日本代表」に何かを投影しなければならないような行き詰まりがどこかにあるのでしょうか。
ただ、日本という国はある意味冷静というか醒めやすいところがあって、あんなに酷い逆転劇を食らわされたオーストラリアに対する反感がつのることもなく(いや、日本にとってオーストラリアは重要な友好国なので、それは本当に良いことだと思うのですけど)、むしろ、自国のジーコ監督が集中砲火を浴びているのです。いやほんと、「ヒトラーの息子たちよ、帰れ!」とかやって世界中に大顰蹙をかってしまった某国に比べたら、まだはるかに理性的で、韮崎で暴れたガキがいたくらいだったのは、まさに不幸中の幸いでした。

いや、僕の印象では、日本代表のサポーターの多くは、「日本代表」そのものを応援しているというよりは、「日本代表を応援している自分」を応援しているのですよね。「日本代表のために、仕事をなげうってドイツまで行ってしまう自分」「日本サッカーのために、ジーコに抗議のメールを送り続ける自分」。あまりに無力で矮小な自分でも「日本代表サポーター」になることによって、大きな力を得ているような錯覚。

僕はリアルタイムで戦争を体験したわけではないのですが、もしかしたら、「戦争への道」って、こんな感じなのではないかなあ、という気がするのです。最初は「日本軍サポーター」みたいな感じで応援していた人たちが、どんどん自分の「日常」を犠牲にしていって、いつのまにかみんなが抜き差しならない状況に追い詰められていく。
愛国心」ってたやすく言うけれども、この言葉がもっとも頻繁に叫ばれるのって、「戦争」のときなんですよね。そして、今の日本は、ほとんどの人が「本物の戦争」なんてやったこともないくせに、「戦争は必要悪だ」というようなムードに流されつつあるような気がしてなりません。

本来は、「戦うこと」が愛国心なのではなくて、「武力行使を避けて、外交などの手練手管で国を守る」ほうが、「愛国的」なのではないかと僕は思っていますし、他者に対する優越感を得るために「愛国心」を叫ぶ人たちというのは、韮崎で「日本代表が負けたから」と暴れているガキどもと同じレベルのメンタリティしかないのだと思います。

もちろん「祭り」を楽しむのは悪いことじゃありません。
ただし、「祭り」の主役は、やっぱり僕たちじゃない。

でも、本当に戦争になったら、真っ先に死ぬのは誰だと思う?

たかがサッカー、たかがスポーツ

「たかがサッカーで、そんなの心配しすぎ」
 僕もそう思うのだけれども、たとえば僕たちの身近な歴史では、あの「オウム真理教」が最初に話題になったときって、「恐怖の殺人教団」としてではなくて、「空中浮遊とかをやってみせる教祖がいる、今流行りの親しみやすい新興宗教」だったのです。当時のメディアには、オウムに好意的な(あるいは茶化したり、面白がっていた)記事が本当にたくさんありました。いわゆる超能力とか精神世界とかにちょっと興味があって入信してしまい、そのまま出られなくなってしまった人は、けっして少なくないはずです。
 僕は、人の「理性」とか「判断力」って、そんなに信用できるものじゃないと、つねづね自戒しています。

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