Kindle版もあります。
世界はこんなにもラテン語であふれている!!
世界史、政治、宗教、科学、現代、日本……。
あらゆる方面に思いがけずひそんでいるラテン語の数々。
ラテン語は死語ではなく、知への扉だ!!ヤマザキマリさん推薦&巻末特別対談!!
「ラテン語は、まさに時空を駆け抜け続ける言葉。そこにいるあなたも、無意識にラテン語を使っているのをご存知ですか? 時空を超えて生き続けるラテン語の魅力と発見が炸裂する一冊」よく耳にするあの企業の名前から、
有名な歴史上のあの人物の名言まで。
語学、ラテン語の知識ゼロから読めるラテン語雑学本。
学生時代、英語の文法の面倒さや覚えなくてはならない単語の多さに辟易していたので、「語学」はあまり好きではありませんでした。
仕事に就いてからも、英語の論文を読まなくてはならない機会が多く、自分で英語の論文を書くことにもなってしまったのですが、僕が懸命に書いたはじめての英語の論文を教授にチェックしていただいた際に、添削されて戻ってきた文章で、赤が入っていないのは、固有名詞と”The"とか”and”くらいのもので、すごく情けなかったのがいまでも忘れられません。
イギリス人やアメリカ人は、「世界標準」の論文を、僕が読む『週刊少年ジャンプ』と同じ言語で読めるなんて、世界はなんて不公平なんだろう、日本が世界の覇権を握っていればよかったのに……と不穏なことも、よく考えていたのです。
でも、こうして歳を重ね、無理に読んだり書いたり話したりする機会が少なくなり、『ピダハン』などの言語学者の本を読んだり、高野秀行さんの著書で「言葉を学ぶこと」「言葉が通じることによるコミュニケーションの面白さ」を知ったりして、もっと学生時代に、興味を持って英語だけでも勉強しておけばよかったなあ、と後悔してもいます。
なんといっても、人間を人間たらしめているのは「言葉」を持つがゆえ、なのだから。
fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenadiary.com
しかし、英語やフランス語、中国語くらいなら、実用性を考えても、学ぶ意義はあると思うのですが、この本の著者の「ラテン語さん」が興味を持ち、学び続けているのは「ラテン語」なんですよね。
なぜラテン語?と疑問になったのですが、著者は、そのきっかけをこう述べています。
私は、高校2年の時にラテン語学習をはじめました。当時私は英語の点数を上げるために語彙を増やそうと、英単語の語源をよく調べていました。語源を調べるのは面白く、たとえばvessel「船、容器」という英単語の語源はvascellum「小さな容器」というラテン語で、昔の人は中空の船を「容器」に見立てていたのだと分かり、そのような古い時代の考えを知ることができました。
また、高校時代の英語の先生が、自身が担任を務めるクラスの標語をラテン語で書いていたことの影響も大きいです。
その標語はSEMPER PARATUS「常に準備ができている」というもので、受験の準備ができているという意味合いで書いたと聞きました。これは英語圏でも知られているラテン語で、たとえばアメリカ沿岸警備隊のモットーとしても使われています。
その先生の机には研究社の『羅和辞典』があり、もしかしたら英語圏の人々はラテン語をある程度知っていて、英語圏で書かれたものを読むためにはラテン語の知識が要るのではないかと思いました。その時よく使っていた、同じく研究社の『新英和大辞典』の巻末に載っている、英語圏で知られている英語以外のフレーズ集に収録されていたものがほとんどラテン語だったこともよく覚えています。
その他にも、子供の頃から好きだったという東京ディズニーリゾートのホテル・ミラコスタのロビーに書いてあったラテン語の説明を読み解きたい、という理由もあったそうです。
村上春樹さんが、小説を原書で読みたい、という理由で英語を学んでいた、という話を聞いたことがあります。
村上さんのデビュー作『風の歌を聴け』は、最初日本語で書こうとしたけれど難航し、自分でまず英語で書いたものを日本語にセルフ翻訳した、といわれています。
「好き」とか「興味がある」ものに対する勉強は、案外、苦痛にならないものです。
僕も世界史の勉強をしているときだけは、けっこう楽しかった記憶があります。
ラテン語さんのこのエピソードを読んでいて、「でも、受験前だし、ラテン語よりも英語とか数学とかを優先しなければ、とは思わなかったのだろうか?」とも感じたのですが、若者の「好き」とか「知りたい」という力は、効率や優先順位を超えるのでしょう。
考えてみれば、僕だって受験期にマイコンの本とか、SF小説ばかり読み、テレビゲームで遊びまくっていたわけですし。
この本は、「ラテン語を学ぶ人のための教科書」ではなく、「まず、ラテン語に対して興味を持ってもらう、現代とのつながりを知ってもらうための本」になっています。
ラテン語の影響力というのは、僕自身も歴史の教科書的には知っているつもりだったのですが、実際に現代で使われている言葉の多くがラテン語由来であることに驚かされますし、ローマ帝国やキリスト教が世界史に及ぼした影響の凄さもあらためて感じます。
先ほどはsecondという多義語を、語源とからめて解説しました。passionという英語も複数の意味があります。日本語話者が「パッション」という単語を聞けば、まず情熱を思い浮かべるのはごくごく自然なことです。では、パッションフルーツはどうでしょう? この意味は「情熱の果物」ではありません。
そもそもpassionという英語の元はラテン語のpassioという名詞で、passioはpatior「こうむる、受ける」という動詞の派生語です。
他にもpatiorの派生語には、英語patience「忍耐」の語源となっているpatientia「忍耐」などがあります。英語のpatient「患者」も、この仲間です。さらに言えば「受動の」という意味の英語passiveや「同情心」を指すcompassionの”passion”の部分も語源はこのpatiorです。
パッションフルーツの「パッション」は本の動詞「こうむる、受ける」の意味に近く、「(キリストの)受難」を指しています。ちなみに、キリストの受難を描く、メル・ギブソン監督の映画『パッション』の題名もこの意味です。
さて、パッションフルーツの由来ですが、これはパッションフルーツの花の各部がキリストの磔刑(はりつけの刑)を連想させることから来ています。
キリスト教になじみの薄い人には感覚的に理解しづらい発想ですが、めしべの柱頭は釘、5本のおしべは傷、副花冠は茨の冠、花被はキリストの使徒たちということだそうです。そこから、まずはトケイソウがpassion flowerと呼ばれました。写真を見ると分かるように、トケイソウという和名のほうが見た目にもぴったりだと思うのですが。
ともあれ、パッションフルーツはpassion flowerと仲間の植物で、和名をクダモノトケイソウと言います。
僕も以前、メル・ギブソン監督の『パッション』という映画のテレビCMを見て、「キリストが磔にされる映画のタイトルが『情熱』なのか……磔にされても揺るがない、宗教的な情熱、あるいは、キリストを責める人たちの情念を描いているのかな……」と思い込んでいました。なんかシニカルなタイトルだなあ、と。
でも、こうして『パッション』の語源や他の意味を知ると、ものすごくストレートなタイトルだったんですね。
パッションフルーツも「情熱的な味、なのか?」と思っていました。
いまの世界で使われている言葉には、ラテン語にルーツを持つものが本当にたくさんあるのです。
日常的なコミュニケーションにラテン語を使っている人はいないけれど(バチカン市国の公用語はラテン語とされているそうですが、バチカンでも普段からラテン語で会話している人はいないということです)、ラテン語に興味を持ち、学んでいる人たちは、世界中にたくさんいるのです。
日本でも、「今の時代に、古文漢文とか、勉強する意味があるのか?」という議論が定期的に出てきますし、僕もいずれは授業からは消えてしまうのではないか、と思うのですが、「言葉」というのは、使われなくなることによって、さらに風化して、それが使われていた時代の記憶や伝統も失われてしまうものではあります。
この本では、たくさんのラテン語の文章が紹介されているのですが、いずれも日本語で読みかたのルビがふってあるのです。
僕は学生時代、「そんなふうに日本語で書かれているところを形だけ読んでも、意味がわからなかったらどうしようもないし、正確じゃない発音を覚えてしまうだけなのでは」と斜に構えていました。
でも、この本で、ラテン語の文章をふりがなの通りに声に出して読んでみると、なんだかちょっといい気分というか、自分がローマ帝国の時代の人になったような気がしてくるのです。
原文なんて、みんな「読めない」し、「読まない」のだから、省略してもいいのでは?と思っていたのですが、「なりきって読んでみる」ことが、語学への、ラテン語への興味のきっかけになることもあるのでしょう。
古文や漢文も、「ただ触れてみる」ことで得られるものは、けっこう大きいのではないか、と僕は感じました(ただし、僕は学生時代、国語古文漢文はけっこう得意だったので、ポイントゲッター補正がかかっているのも事実です)。
返信のメールの件名にある”Re:"は、これは多くの方が勘違いされていますが、英語のreply「返信」の意味ではなく、ラテン語のin re「〜に関して」の略です。実は電子メールを返信するたびに、現代人はラテン語に触れているのです。
インターネット時代のラテン語の勉強法などについても書かれており、僕もすっかり固くなってしまった脳を再起動して、まずは英語から勉強しなおしてみようかな、と思っています。
ラテン語に限らず、何か新しいことを「知る」あるいは、知識どうしを「繋げる」というのは、楽しいものなんだな、と、あらためて気づかせてくれる本でした。