- 作者: 長谷部浩
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2017/04/22
- メディア: 単行本
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内容紹介
日本のみならず、世界の演劇界を牽引した演出家・蜷川幸雄。固定概念を破る演出手法をとりながら、常に時代の中心にあり、演劇界の頂点に君臨し続けた。一方で安住することを嫌い、古いものを壊し、新しい血を入れることに迷いがなかった。権力と孤独、王道と異端、中央と辺境――相反するものの間で格闘し続けた、その生涯を綴る。
僕が物心ついたというか、演劇に興味をもちはじめた頃には、蜷川幸雄さんはすでに「ビッグネーム」であり、「灰皿を投げる演出家」として知られていました。
僕自身は、蜷川さんの舞台は一度しか見たことがなくて、この本を読みながら、「きっとこれ、蜷川作品をずっと観続けてきた人は、僕よりもずっと面白いのだろうな」と考えていたのです。
著者は、1956年生まれの演劇評論家で、蜷川さんと直接の親交もあった方ですが、蜷川さんは、ごく近しい人でも、自宅に呼んだり、プライベートで食事を共にすることはほとんどなかったそうです。
この本の「あとがき」に、こうあります。
修羅の人だったと思う。
私が知るのは稽古場の蜷川さんに限られるけれども、みずから修羅場を引き寄せ、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、人生のすべてをその場にいる人びとと共にした。まぎれもない成功者ではあったが、その意味で蜷川幸雄の舞台人としての人生は、決して安楽なものではなかった。絶望のなかで、かすかに希望を見いだす舞台に全力を投じて一生を終えた。
この本そのものは、蜷川さんになりきって描かれたものではなく、著者が評論家という立場で、蜷川さんを観察してきて感じたことが書かれており、著者自身の物語、としての色彩のほうが強いように思われるのです。
気に入らない演技をした役者に、灰皿を投げて罵倒する、というパワハラっぽいイメージが強い蜷川さんなのですが、この本で、演出家を志してからの蜷川さんの軌跡をたどっていくと、蜷川さんは確かに妥協を許さない厳しい人ではあったけれど、パワハラっぽい行動には、それなりの理由もあったのです。
蜷川さんはもともと俳優で、はじめて本格的に演出を手がけたのは33歳のときでした。
これは、当時(1969年)としては「遅い出発ではない」とのことです。
蜷川はのちに灰皿を投げる演出家としてのレッテルをマスコミに貼られ、また、それをトレードマークとして利用した。けれど、アングラ演劇時代の演出家、鈴木忠志、唐十郎もまた厳しい稽古で知られていた。「僕は怒鳴るような演出家とはそんなに仕事をしていませんが、それでも蜷川さんが稽古場で怒鳴ったりすることを、すごいとか、厳しい、ひどいとは思わなかったな」(「」内は、『文藝別冊 蜷川幸雄』に掲載されている俳優・木場勝己さんの回想)
当時は、そういう演出家は珍しくなかったし、若い演出家が百戦錬磨の役者たちに「自分が思うような演技をやってもらう」ために、舐められてはいけない、というのもあったようです。
蜷川さんは、禁煙後も「灰皿を投げる演出家」と言われづつけていた、と著者は述べておられます。
蜷川さんの場合には、「アンダーグラウンドの演出家」から、「商業演劇の演出家に転身した」ということで、アングラ演劇の世界からは「裏切り者」とみなされており、ここで失敗したら、もう戻る場所がない、というプレッシャーもありました。
とはいえ、この本に書かれている関係者の話を読み、蜷川さんの葬儀での藤原竜也さんの弔辞を思い出すと、「厳しく育てられた側としては、恩義は感じている一方で、時間が経ったからといって『良い思い出』になるようなものではなかった」のでしょうね。
それだけ厳しかったにもかかわらず、多くの人が集まり、育っていった(そしてたぶん、多くの人が潰れていった)のです。
蜷川さんは、権力や権力者を嫌っていた、しかしながら、舞台での演出家としての蜷川幸雄は、まぎれもなく「絶対的な権力者」でもありました。
『千のナイフ、千の目』に、「演出家の孤独」と題したエッセイがある。
蜷川は初日が終わったのちの孤独について書いている。「俳優たちは肉体を酷使したあとだから、熱い興奮に身体をほてらせて、お疲れさまのビールを飲みほすと、街へ祝杯をあげにくりだすんだ。俺? 俺はひとりホテルへ帰るんだよ」と言っている。キャストばかりではない。スタッフもすべてがうまくいくことなどないから、蜷川は、酒を飲みながら演出家にダメ出しされたくないだろうと忖度して、一緒には行かないのだという。
清水邦夫の「それで蜷川はホテルでなにしてんだい」との問いに答えて、ホテルのベッドにひっくりかえって真白い天井を眺めていると言っている。
「俺はつくづく独りぼっちだと思うよ。たった一本の電話だってかかってこないぜ。まあ、これはいつものことで演出家というものの宿命かもしれないな。
このごろの若いヤツは、年寄りをいたわってくれないからな、と清水邦夫はいった。もっとも誘われても俺は行かないけどな、とぼくはいった。演出家の前では俳優もスタッフも本当の自分をさらけださないもんな。そういう場にいるとかえって気の毒になっちゃうんだよ。『マクベス』にこんなセリフがあるんだよ、覚えてるか。
「おれの人間は黄ばんだ枯れ葉になって風に散るのを待っている。それなのにどうだ、老年にはつきものの栄誉、敬愛、服従、良き友人たちなどなに一つおれには期待できそうもない。そのかわりにあるのは、高くはないが深い呪詛の声、口先だけの敬意、追従だ。それをしりぞけたくともこの弱い心にそれはできぬ」
お前、今日は暗いな、わかるけどな、と清水邦夫はいった。ぼくのマブタには、ホテルの白い天井が浮かんできた。それはシミのようにぼくの心にもひろがってきた(『千のナイフ、千の目』)
こうした感慨は演出家という職業を選んだときにはじまった。そしてその仕事が成功すればするほど深まって確信となった。おそらく最晩年、病室にいても、この白い天井のシミは消えなかっただろうと思う。
蜷川が繰り返し『マクベス』を演出したのは、この終幕にあるマクベスの台詞に魅せられていたからのように思えてきた。
蜷川さんは、亡くなる前まで、車椅子で、酸素吸入をしながらも演出を続けていました。
取り巻きに囲まれ、みんなとプライベートでも仲良くすれば、見かけ上の「孤独」からは解放されたかもしれません。でも、それは馴れ合いや腐敗を生みやすいことを蜷川さんは知っていた。
最期まで「孤独であること、演出家として生きること」を選んだ蜷川さんというのは、たしかに「修羅の人」だと僕も思います。
蜷川幸雄は、喜怒哀楽の激しい人だった。感情表現としてもっとも強い怒りを怖れなかった。稽古場でも、俳優がよい演技を見せないと怒鳴り、感情を爆発させるのは日常茶飯事だった。
演出助手を十年務めた藤田俊太郎は、私の「怒っちゃう人だったよね」との言葉にこう答えている。
「そうですね。怒っていますね。怒ってましたね。僕も本当に怒られました。
それは蜷川さんの不器用の現れというか、本音で接するための方法だと思うんです。本音でぶつかるための。ひとつひとつが論理的な方でしたから、論理的に感情を爆発させるというか。ポーズなのか、虚実がわからないですね」
「本当は怒っていなかったのかな」
「いや、本当に怒っていたと思います。本当に怒っていましたね。ただ、俳優は突き放すことがありましたけど、飴と鞭で、僕ら演出部に対しては絶対にフォローしていました。「カツ丼食いに行くぞ」とかいって、稽古場やBunkamuraの近所にはよく連れて行ってもらいました。
一方で日常的に本音を語るかというと、僕にはありませんでした。小川(富子)さん(舞プロモーション代表)、(井上)尊晶さんには、話していたんじゃないかと思います。でも、どうなんでしょう。蜷川さんという方は本当に計り知れない方で、社交的ではありましたけど、ものすごい闇をかかえていました。必ず独りで車を運転して帰りますものね。周りに「体調と年齢のことがあるので、運転しないでください」と言われて、ようやく運転しなくなったのが70代後半です。
権力者であり続けるためには、「能力」とは違う、「孤独に耐える力」みたいなものが求められるのだな、と思いながら読みました。
そして、蜷川さんの作品を、あらためて観てみたくなったのです。