琥珀色の戯言

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【読書感想】魔女狩りのヨーロッパ史 ☆☆☆☆


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一五~一八世紀、ヨーロッパ文明がまばゆい光を放ち始めたまさにそのとき、「魔女狩り」という底知れぬ闇が口を開いたのはなぜか。その起源・広がり・終焉、迫害の実態、魔女イメージを創り上げた人たち、女性への差別――進展著しい研究をふまえ、ヨーロッパの歴史を映し出す「鏡」としての魔女と魔女狩りを総合的に描く。


 僕が生きてきた、1970年代から現在(2024年)までの日本では、「魔女」という存在に、そんなにネガティブなイメージはないのです。「男を狂わせる魔性の女」とかアニメの「魔法少女」とか、テレビゲームやライトノベルの世界でも「魔女(魔法使い)もの」は定番ですし。
 もちろん、中世のヨーロッパでは、現代からみれば理不尽極まりない「魔女狩り」が行われて、(おそらく)無実の人たちが、魔女だと認定されて火炙りにされていた、という知識はあるのですが。

 今でも、強者が弱者の、あるいは多数派が少数派のありもしないことをでっち上げたり、些細なことを過剰に問題視したりして、標的にされた人を集中攻撃する行為は「魔女狩り」と呼ばれています。

 僕は「魔女狩り」って、中世のヨーロッパのキリスト教信者たちが、自分たちの宗教観に合わない、「魔女」とみなした人を片っ端から火炙りにしていった蛮行だとみなしていたのですが、この新書を読むと、「魔女狩り」は、ヨーロッパ全体で同じように行われていたわけではなく、キリスト教圏のなかでも国や地域によって、かなり濃淡があったことがわかります。
 また、片っ端から怪しい人を民衆が追いかけ回して火炙りにした、というわけでもなかったのです。

 後段で述べるように、「魔女」には一部男性もいたし子供もいた点に注視すべきだが、それでも──地域差は大きいとはいえ、全体として8割程度が女性だったようである。もっと女性に偏っている場合もたびたびで、たとえばエセックス州の魔女裁判の綿密な研究は、魔女と告発された者の92%が女性だったと証明した。この割合はイングランド全般にもほぼ当てはまり、またスウェーデンや、ケルン(ドイツ)、バーゼル司教区(スイス)、ナミュール伯領(ベルギー)、シュレージエン(ポーランド)のナイセでも同様である。フランス東部のジュラ地方の一部では、女性が95%を占めた。
 また年齢については、ジュネーヴエセックス州の側では告発された魔女の平均年齢は60歳、ドイツのマインツ選帝侯領からは平均年齢55歳が導かれる。1676年のイトシュタイン(ドイツ南西部)の魔女狩りでは31人が処刑されたが、半数以上が60〜75歳の間だった。他のヨーロッパ地域でも、ほとんどの魔女が50歳を超えていた。すなわち魔女というのは、当時の寿命から考えれば最高齢の年齢制限に属する人たちであった。だから魔女狩りとは、フェミニズムの立場からは、まさに「男性の女性に対する、とりわけ老女に対する犯罪」であろう。なぜこうした性的犯罪が起きたのか?

 著者は、長いキリスト教的伝統として、「女性嫌悪」があったことなどをその理由として挙げています。
 逆に、若い女性や子供は、「魔女の疑い」をかけられても、死刑にはならず、追放や再教育などでとどめられる割合が高かったそうです。
 平均寿命が短く、ペストなどの感染症で人口が多数減ることが少なくなかった中世のヨーロッパでは、「子どもを産める、生産力がある年齢の人」は、潜在的に優遇されやすかったのではないか、とも推測されています。

 魔女狩りは、ずっとおなじような激しさで行われたのではなく、迫害のリズム、高揚沈下のうねりがあった。15世紀以前は、まだ「個人」としての呪術師に対する裁判が中心で大規模な迫害はなかった。ヨーロッパ全体として見ると──地域ごとに拡大開始時期は、10年とか20年とか、多少ずれるが──、1420年代から各地で裁判が多くなり、大規模迫害の最盛期は、全体的にはおおよそ1560年代〜1620年代で、とりわけ1580〜90年前後と1610〜30年前後が最大のピークと言える。神聖ローマ帝国にはもうひとつ1660年代にも迫害の大波があり、フランスの一部や北欧では1650〜70年代がピークだった。そしてどこでも17世紀後葉には弱まって18世紀初頭にはほぼ消滅していく。
 もう少し具体的な地域名を挙げて、それぞれの規模や進路を見ていこう。まず最初の──集団としての──魔女狩りは15世紀前半スイスから始まり、まもなくほぼヨーロッパ全域に広まるが、猖獗したのは、主にヨーロッパ中央部であった。すなわちドイツ南部と西部、またフランスと神聖ローマ帝国の境界域(南ネーデルラントルクセンブルクロートリンゲン(ロレーヌ)、エルザス(アルザス)、フランシュ=コンテ、ドーフィネ、スイス)、さらにはフランス王国の別方面の辺境である南仏やノルマンディーでひどい魔女迫害があったのである。

 ヨーロッパでもとりわけ猖獗を極めたのは、ドイツ(神聖ローマ帝国)だった。ヨーロッパ全体の魔女の処刑のうち、約半分(2万5000人)はここで起きた。人口的にはヨーロッパ全体の2割のみを構成するので、その集中ぶりが分かる。ドイツの南に接するスイスでは約1万人の魔女が裁かれ、処刑されたのが5000人以上と試算されていて、これも際立って多い。安定した権力基盤で君主が大きな権力を振るうドイツ諸領邦、すなわちバイエルンヴュルテンベルクザクセンブランデンブルクなどでは魔女狩りは比較的微弱で、逆に政治的統合がもたついた中小の領邦たるトリーア選帝侯領、マインツ選帝侯領、ケルン選帝侯領、バンベルク司教領、ヴェルツブルク司教領、ロートリンゲン公領などでは、それは激烈で規模が拡大する傾向にあった。


 「魔女狩り」というのは、狂信的な権力者の暴走によって起こりやすくなるのだろう、と僕は思い込んでいたのですが、これまでの史料の研究で得られた知見からは、政治的・宗教的に不安定な地域ほど、「魔女狩り」の犠牲者が多い傾向があるのです。
 中央集権化されていた、王政期のフランスのパリなどの都市部では、「公共善」が標榜されており、地方の暴走を抑えるために下級審にはパリ高等法院への上訴を義務づけられていて、多くの被告が釈放・減刑され、死刑を免れていたのです。
 イングランドではコモン・ロー(英国法において発生した法概念で、中世以来イングランドで国王の裁判所が伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきた中で発達した法分野)が重視されており、異端審問がなく、拷問禁止が徹底されていたことから魔女狩りは少なかったそうです。

 この本で紹介されている、家族内で告発しあって大勢の処刑者が出た事例を読んでいくと、隣人どうしの不仲や地権、公共の場所の管理の問題、世代間の不和、などがきっかけで、恨みや妄想がつのり、「あいつは魔女だ!」との告発に至ることが多かったようです。
 人は、恨みつらみが重なると、「魔女」とか「魔法」が本当に見えるようになるのか、それとも、「見えたことにしてしまう」のか?

 「魔女認定」には、「魔女はこんな集会・夜宴(サバト)をやっていて、告発された者はそれに参加していた」という証言が残されているのですが、その証言内容にはフォーマットみたいなものがあって、みんな似たような内容で、しかも、被告は拷問され、追い詰められた末に、審問者のあらかじめ決められたシナリオに同意するだけだったのです。
 中には子どもの告発者や、使用人が自分をこき使った雇い主に不利な証言をする、というような、現代の感覚では、信憑性に疑念が残るようなものも多いのです。


 著者は「サバト」の様子について、こんなふうに紹介しています。

 魔女たちは、自分の順番が来ると悪魔の前に進み出て彼に忠誠を誓う。悪魔は通常牡山羊姿、ときに犬や黒猫の姿で、巨大な黒い玉座に座っている。その周りでは、僕(しもべ)たる悪霊(デーモン)が忙しげに立ち働いている。御前に座った魔女らは膝を折って礼拝し、「地獄にましますわれらがサタン様……」と挨拶する。
 ここから逆転した反儀式が始まる。サバトでの悪魔礼拝は、不快な悪臭を放つ火が灯される中、神から身を背けて、その最悪の被造物を崇めるのであり、まさに偶像崇拝の罪に陥るわけである。魔女は跪いて(ひざまずいて)祈るだけでなく、仰向けになったり、背中を向けたり、もっとアクロバチックな姿勢を取ることもあった。
 悪魔の前で、聖三位一体、聖母マリア、天の王国、洗礼他の秘跡を否認した魔女は、心底キリスト教と教会を放棄したという証明に、十字架を踏みにじり唾をかけて冒瀆する。ついで新たな悪の王国のメンバーになるべく、聖油と聖液を混ぜたもので「洗礼」が行われる。かくてめでたく悪魔教に入信した魔女は、青い炎を上げる黒い蝋燭(ピッチや幼児の臍の緒で作られる)を捧げる。そして封建制の臣従礼の接吻から示唆を受けた悪魔への接吻、すなわちその「後ろの顔」ないし肛門・性器にキスするのである。

 サバトでの食としてよく知られているのが「人肉食」であろう。絞首刑になった遺体、掘り出した遺体、洗礼を受けない嬰児、または魔女の死児が食卓に上る。嬰児の遺体は、大釜で煮たり焼いたりして、骨から肉をすっかり剥がして食べるのだ。こうした人肉食は当初のサバトでは必須ではなかったが、後期のサバトになると明白な構成要素となる。


 こうした「サバト」の内容などは、「魔女」が処刑されるときに、罪状認定として、処刑場に集まった人たちの前で読まれていたとのことです。
 そこで「魔女の物語」に影響を受けた子どもたちや観衆が、想像力をはたらかせて、のちに身内を「告発」した例もかなりありそうです。
 読んでいると、実際に見たわけでもないのに、よくここまで「それらしいこと」を想像できるものだな、と感心してしまいます。
 もちろん、想像している側の多くは「本気」だったのでしょうけど。

 人間というのは、「信じる、信じたいという気持ちや状況」になれば、後世の人間には荒唐無稽にしか思えないことでも、受け入れられるものなのだな、と考えずにはいられません。

 啓蒙思想や科学的な知識の普及、宗教的な権威の弱体化によって、魔女狩りは世界からなくなっていったのですが、著者は、人間の「理性」について、こう述べています。

 合理的・機械論的宇宙観や理性尊重の懐疑主義が、そのまま人間の不条理な行動を抑制するわけではない。むしろ理性という認識の機械装置の根源的動力因は、人間の内部に潜む非合理な衝動なのであり、合理と非合理がたやすく入れ替わることは、20世紀の次なる蛮行──ナチス・ドイツ──を見れば明らかだろう。


 ナチス・ドイツは「優生学」や「生産性」で人間の生きる価値を定量化し、彼らなりの「科学的根拠」をもとに「いないほうがいい人たち」を排除していったのです。

 「魔女狩り」に流れやすい、人間という生き物の性質はそう簡単には変わらない。
 「魔女」が「ユダヤ人」に置き換えられただけなのに、歴史はそれをナチス・ドイツの敗北まで抑止することができなかった。

 この本を読んでいて驚いたのは、「魔女狩り」を熱心にやっていた人たちが大勢いたのと同時に、後世でも、「魔女狩り」について、史料を徹底的に検証し、研究され続けている、ということなのです。
 人は「魔女狩り」をバカバカしい、ひどい、と思う一方で、その人類の黒歴史に、ものすごく惹きつけられ、興味を持たずにはいられないのです。


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