琥珀色の戯言

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【読書感想】すごい言い訳! ☆☆☆


Kindle版もあります。

人生最大のピンチを、文豪たちは筆一本で乗り切った!
そもそも言い訳とは何かというと、言い逃れであり、弁解、釈明です。よろしくない事態や非難されるべき原因を作った張本人の立場から逃れるための説明が言い訳です。自分をよく見せようとする本能を起点にしているので、いじましい行為と思われ、大方軽蔑の対象になります。
しかし、言い訳は言い方次第で、味わい深いものに変化するのも事実です。フィアンセに二股疑惑を掛けられた芥川龍之介。手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治。納税を誤魔化そうとした夏目漱石。恋人との間で奇妙な謝罪プレーを繰り広げる谷崎潤一郎。浮気をなかったことにしようとする林芙美子。息子の粗相を近所の子供のせいにした親バカ阿川弘之......。
「こちらは悪くありません」「こちらも大変だから許して」を流麗美文で綴り、思わず「いいよ」と折れてしまう、文豪に学ぶ言い訳の奥義。


 インターネット時代になり、それぞれの人がSNSfacebookTwitterなどのソーシャルネットワークサービス)で、自分の言葉で直接発信できるようになりました。
 とはいえ、無名の人の呟きなどは、炎上しそうな犯罪報告や差別発言でもなければ、なかなか注目されることはないのですが。

 この本、夏目漱石太宰治芥川龍之介などの近代の「文豪」たちが、主に手紙に残した「言い訳」を集めたものです。

 芥川龍之介は、婚約者(文ちゃん)がいながら、師匠の夏目漱石さんの没後、その娘と結婚するのではないか、という噂が立ちました。
 不安になっている婚約者への手紙に、芥川は、こう書いています。

文ちゃんを得る為に戦わなければならないとしたら、僕は誰とでも戦うでしょう そうして勝つまではやめないでしょう それ程に僕は文ちゃんを思っています
僕はこの事だけなら神様の前へ出ても恥しくはありません 僕は文ちゃんを愛しています 文ちゃんも僕を愛して下さい 愛するものは何事をも征服します 死さえも愛の前にはかないません


 令和の時代に読むと、熱烈すぎて火傷しそうな感じなのですが、夏目漱石さんが亡くなられたのは大正5年(1916年)で、いまから100年くらい前ですから、この手紙にはけっこうインパクトがあったのではないかと思われます。そして、この手紙の5カ月後、芥川と文さんは結婚しています。

 著者は、この項の最後に、こう書いています。

 天地神明に誓い、命がけで説明しようとする姿勢を持つことこそが、相手の疑念を晴らし、両者の明日を円満に拓く最良の方法となります。ちなみに龍之介は『侏儒の言葉』の中で、「言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ」と述べています。
 彼が自己弁護、すなわち言い訳に腐心したのは、この件ばかりではなかったようです。


 芥川は、「自己弁護(=言い訳)であることを自認しつつ、上手い自己弁護ができる人」だったのかもしれません。
 でも、それが「うまい言い訳」であることが自分でもわかっていたがために、罪の意識も積もっていったような気がします。
 今のネット社会でのSNSへの人々の反応をみていると、今の時流に乗っている人、みんなに支持されている人の発言は肯定的に解釈されやすいし、嫌われている人がどんなに良いことを言っても、揚げ足をとられたり、「でもあなたは前にこんなことをした」と責められたりすることが多いのです。

 漱石は、よく知る相手なのに、あるときいつものように絵を描いて送ったはがきの宛て先を、「田中俊一様」と書いてしまったことがありました。すると田口(俊一)から、<田中ではありませんよ、田口。お忘れですか>といったふうな軽い抗議が届いたようです。
 そこで漱石は、またはがきに絵を描いて、添え書きで次のように言い訳しながら謝りました。

 君の名を忘れたのではない。かき違えたのだ失敬

<まさか、忘れるはずがないでしょう。ちょっと書き間違えただけですよ。口と中、一本棒があるかないかだから、勢いで、つい……。いやいや失敬>──そんなニュアンスの言い訳を伝えたのでした。いわば、大きな失礼を小さな失礼で、おおい隠そうとする手法です。
 それに類似したやり口を、ある高名な政治家が利用していたのを思い出します。彼は、面会した人の苗字が思い出せないとき、こんな方法で巧みに聞き出しました。
 政治家「お名前はなんでしたっけ」
 相手「いや、鈴木さんは知っています。聞いたのは、苗字じゃなくてお名前ですよ」
 相手の誤解を誘発させることによって、苗字を忘れた失礼を帳消しにしてしまう、魔法のズルです。


 この「苗字じゃなくてお名前ですよ」も、かなり広く知られるようになってしまいましたが。
 多くの人と接する仕事をしていて、相手は自分のことを知っているけれど、自分はその人が誰だか思い出せない、という状況は、けっこう気まずいものではありますよね。

 この本を読んでいて感じるのは、「文豪」たちの言葉の巧みさ、自己弁護の上手さとともに、こういう言い訳がエピソードとして語り継がれるのも、「夏目漱石」「有名大物政治家」がやっていたことだから、ということなのです。
 「文豪だから、言い訳の技術や言葉遣いもすごい!」というよりは、「文豪の言葉だからということで、過大評価というか、深読みされているだけ」にも感じます。

 100年前も今も「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」なんだよなあ、などと僕は思わずにはいられなかったのです。

 ちなみに、いちばん印象に残ったのは、若山牧水さんが書いたこの一節。

 何も書きたくも無い……そんな時に強いてかいた手紙などは到底ろくな手紙じゃあるまいよ


 最近更新していないからなあ、と強いてブログを書いて、やっぱりつまらないよね……と落ち込むことが多い僕は、これを読んで、「そうだよね……」とつぶやかずにはいられませんでした。


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