琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

モテたい理由 ☆☆☆☆


モテたい理由 (講談社現代新書)

モテたい理由 (講談社現代新書)

[日販MARCより]
次々に現れては消える理想のライフスタイル、エビちゃんブームの深層、蔓延する自分語りの文法から恋愛至上主義とオタクの関係まで、混迷する男女の今を、グルーブ感あふれる文章で明快に読み解く。

[BOOKデータベースより] もう疲れたよ…でも、止まれない。女たちを包囲する“モテ”の真実。

第1章 女の目から見た世界;
第2章 獰猛な恋愛資本主義
第3章 蔓延するライフスタイル語り;
第4章 女子が生きるファンタジー;
第5章 ライフスタイルの先祖たち;
第6章 男たちの受難;
第7章 女という水物相場;
終章 戦争とアメリカと私

 僕は基本的にこの手の話題にはあまり興味が無いのですけど、この本はけっこう話題になっていたので遅ればせながら読んでみました。

 夏こそ! カレ友クラクラ服

 とか、

 「ティアップしてスイングする瞬間は一番注目されるとき。グリーンがレッドカーペットに変わるとき」

 なんていう「女性向け雑誌」にツッコミを入れるところなどは非常に面白かったですし、これほど「お金がかかる『自分探し』の方向へ誘導されまくっている女性たち」を自虐的なまでに描いた本は無かったように思います。
 ただ、女性側からみたら、この本は、単に「身も蓋もない内容」だとしかとらえられないかもしれません。
 男からすれば、「カレ友」じゃなくて、「カレ」をクラクラさせろよ……としか言いようがないのですけど。
 しかし、女性誌っていうのは、こうして見出しやコメントの字面だけを引用してみると噴飯ものなのに、雑誌そのものを観ると、なんだかもう「別世界」という感じで、妙な説得力があるのも事実です。
 僕がものすごく不思議なのは、女性ってああいう雑誌に出てくるエビちゃんみたいなモデルや「英語ペラペラで世界をまたにかけて恋に仕事に活躍する同世代OL」に対して、純粋に「憧れる」だけで、嫉妬心や嫌悪感を抱かないのだろうか?ということなんですけどね。

 この本を読んでいると、結局のところ、「モテたい」というか、「モテなければならないという強迫観念」に、男も女もとらわれてしまっているのが現代なのだな、ということがよくわかります。でも、実際問題として、今の世の中で、「モテようとしないで生きる」ということは、「モテようとして生きる」こと以上に「敷居が高い」のは事実です。
 ある年齢以上になると、「結婚していない理由」を実家に帰省するたびに説明しなければならない、という人も多いはず。
 本来は、「結婚すること」のほうが、よっぽど理由とか決心が必要なはずなのにね。

 そして、「モテ」っていうのは、人間の「本能」であるのと同時に、「多くの人のメシの種」として利用されてしまっているのです。

 男に、好きな女のタイプを聞いて回ったとき、あまりにしばしば出くわす名前があることから、私は考え込んでしまった。誰だと思います? 漫画『タッチ』の浅倉南と、『めぞん一刻』の音無響子(管理人さん)。

 日本の女性誌は、「どう気を引くか」「自分が他人にどう見えるか」というかたちの関係性には過敏なほど敏感で、そのためのノウハウも独自の言語規格もつくり上げた(実効性があるかどうかは疑問なのは、先に述べたとおりだ)が、「恋人やパートナーとどう対話するか」ということは何も語ってこなかった。だから「ノウハウ」はみんな脳内妄想じみるのである。
 あれだけ、「モテたい」と言いながら男性への思いやりや共感のかけらもない。利用できるものはカレ友でも利用する。男を金で値踏みする。さらには男性の好みさえろくに研究せず、同性の視線を意識したつばぜり合いを繰り広げる。細かいところで差異を競ううち、男性からはただ異様に見えるものが流行ったりする。
 断言できますが、ネイルアートが好きな男子なんていません!

 たしかに、「ネイルアートが好きだ」という男には会ったことない!
(まあ、「浅倉南が好きだ」という女子にも会ったことないですけど)
 「エビちゃん」も、男同士の会話では、「好きなタイプの女性」として名前が挙がることはほとんどありません。
 「なんかお人形さんみたいでソソラレナイよな」という見解の男子が多いのですよ。

 正直、終章に関しては、今までの話の流れからすると、「どうしてこういう結論になっていくんだ?」と唐突な印象もありますし、「男子」の見解として引用されているのが本田透さんに偏っているような気もします。赤坂さんの主張は、あまりに「男子の肩を持ちすぎている」ようにも思われるので、この本を読んだあとは、斎藤美奈子さんの著書を読んでみることもおすすめしたいところではあります。
 でも、全体としては非常に読みやすく、わかりやすい「現代の男女論」としてお薦めできる本です。

 本当は、「女性にこそ読んでみてもらいたい本」なのですけどね。

『はてな』を窒息させる「理論派ブックマーカー」


はてブの人たちが偉そうにしている理由
↑のエントリへの反応を受けて。

肯定的なコメントが多いエントリの場合、自分はあえて批判的な意見を言おうと心がけてますね。
別にシニカルを気取るわけじゃなく、新しい視点を持つ事の訓練としてブクマを使ってる面もあるので。
本当はそうする事で議論が広がっていくと嬉しいんだけど、コメントから話題が広がる事って少ないんだよなぁ。

↑のエントリに対して、id:YOSIZOさんからこんなコメントをいただきました。
実際に↑のエントリに対するブックマークコメントにも、こういう感じの内容がけっこうあったんですよね。
(ですから、以下の内容は、この方だけを批難しているわけではありません。というか槍玉にあげてしまってすみません。個人的な怨恨はまったくないです。それこそ「新しい視点を持つことの訓練」として利用させていただいております)

id:YOSIZOさんが考えておられることはよくわかりますし、「新しい視点を持つための訓練としてブクマを使う」ことが悪いわけではありません。基本的には、こういうサービスって、「使い方は、使う人しだい」なのでしょうし。
ただ、僕はこれだけは言っておきたいのです。

ネット上にあるブログのエントリというのは、誰かの訓練に使われるために存在しているわけではない。

僕は基本的に、「批判できるものを集めて批判して優越感に浸っているだけ」のネガティブブックマーカーは大嫌いですが、「好きなものは褒めるし、嫌いなものはけなす」というスタンスの「是々非々なブックマーカー」の「ネガティブなコメント」を批判するつもりはありません。「感情」に対して、「それを嫌いだとか、嫌だと思うのは間違っている」と他人に強制することはできませんしね。もちろん、「嫌いであることを、わざわざブックマークで表明する必要があるのか?」とは思いますけど。
でも、こういうふうに「議論を広げるため」とか「そのほうが面白くなるから」という理由で、「自分が実際にそう思っていないこと」をブックマークコメントに書くのは、「お門違い」というか、基本的に「失礼」なのではないかという気がします。他人を弄んでいるだけにしか思えませんし。感じたことを衝動的に書いちゃうのは人間らしい行為として納得できるんだけどさ。
僕自身、そういう「ディベートのテクニック」を大学で練習したことはあるのです。そういうのは、それなりに「学んだ人間にとっては有益」だとは思うんですよ。ただし、それはあくまでも「ディベートのやり方を勉強するという前提の場」で行われたことで、僕が知っている優れた研究者たちには、みんなでお昼ご飯を食べたり、忘年会をやっている最中に「ディベートのテクニックを発揮する」人はいません。

「ネガティブブックマーカー」は論外なのですが、実は、はてなを息苦しくしているのは、こういう「ネットの中では、常にみんなが『議論』を望んでいるのだと疑わない人たち」の存在も大きいのではないでしょうか。彼らが言っていることは、「正しい」ように思えるけれども、大事な視点が抜け落ちています。

それは、「あなたが議論を吹っかけているエントリを書いているのも一人の『人間』であり、傷ついたり腹を立てたりする」ということ、そして、「すべての人間が、議論をしたくてブログをやっているわけではない」ということ。「人気エントリ」になれば、書き手の大部分は、アクセス解析などを経由して、自分のエントリにつけられた「ブックマークコメント」を目の当たりにするのです。
言ってみれば、「自分は『理論派』だと思い込んで、あちこちに議論を吹っかけているブックマーカー」っていうのは、公共の公園で、「ここでいつも自分たちが遊んでいるから、という理由で、ピクニックに来て寝転んでいる親子連れを狙撃するサバイバルゲーム愛好家」みたいなものです。「訓練」したいなら、そういうのをやりたい連中だけでやってくれないかね、迷惑だから。
はてな」って、アクティブユーザー数のわりには、そういう人が多い印象があるんですよね。
で、彼らはいつも、「学会では……」「研究者の世界では……」って偉そうな言い訳ばかり。
学会には学会の作法があるし、公園には公園のマナーってものがあるのですよ。
「学会ルール」で勝負したいのなら、学会内でやればいいんじゃない?
ネット上にだって、そういう人たちのコミュニティがたくさんあると思いますよ。


はてブコメントが偉そうだ(Geekなぺーじ(3/6))
↑のエントリは「はてな(の一部)に満ち溢れている『エンジニア的空気』について言及されていて、非常に参考になりました。
ただ、ここでもやはり「すべてのブロガーやエントリが、議論されることを望んでいるのではない」という視点は欠けているのです。
「疲れた」「恋人と別れた」「ようやく子供ができた」というようなエントリで、誰が「議論の広がり」を望んでいるのか?
彼は、自分の気持ちをどこかで吐き出したい、だけなんですよね。そりゃあ、「おつかれさま」って言ってもらえれば、そのほうが良いのかもしれないけれども。
「議論を前提としたエントリ」に批判的なブックマークコメントがつくのは、当然のことだと思いますし、書いている側としては、参考にもしています。
ところが、「議論の対象にしてほしいエントリ」にまともな批判が寄せられることって、本当に少ないんですよね。お得意の「揚げ足取り」だとか「バカと言った人がバカ→バカと言った人がバカと言った人のほうがバカ」的な千日手コメントばかり。「ネタ」だと言っている人のコメントって、「ネタならせめて面白くしろよ……」と言いたくなるものがほとんどですし。

ただし、そもそも反対意見しか出ないような議論というものもあります。反対と賛成が入り混じって、最後まで結果が出ない事もあります。そして、反対意見が多いものは事実ではないというわけでもありません。「地球は丸い」と言っても信じてもらえなかった人も昔はいました。

この例に沿うと、「本当の議論」を求めているはずの「地球は丸い」というエントリに対して、「なぜ地球は丸くないのか」を誰も証明しようとせず、「地球が丸いなんて言ってるお前はゆとり」とか、「地球は丸い教信者乙!」とか「人格攻撃」ばかりが行われているのが問題だということに、なんで気付かないのだろう?

僕は「研究」をやってきた人間として、「お前らの憂さ晴らしや煽りやいいがかりなんか、本当は『議論』でもなんでもねえよ!」って言いたいんですけどいい大人だから言いません。書いちゃったけど。

アクセスカウンター