琥珀色の戯言

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【読書感想】続・悩む力 ☆☆☆


続・悩む力 (集英社新書)

続・悩む力 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
安定した収入、伴侶と家族、健康、老後のたくわえ―。この既存の幸福像は、いまや瓦礫と化した。神仏はおろか、現代社会の宗教とも言える科学への不信も極まり、寄る辺ない私たちの孤立はさらに深まっている。この憂鬱な時代のただ中で、私たちが真の意味で生まれ変わり、新たな「幸せの感情」に浸ることなど、果たして可能なのだろうか?その問いを解く鍵は、夏目漱石の一〇〇年前の予言にこそある。大ベストセラー『悩む力』刊行から四年の時を経て、待望の続編がついに登場。


前作『悩む力』は、100万部も売れたんですね。
そして、あれから4年も経っているということに、ちょっと驚きました。
なんとなく「東日本大震災前」のことって、実際よりもずっと昔のことのような気がしてしまうのです。
まあ、4年も前なら、前作のことを「ああ、なんか夏目漱石のことがたくさん書いてあったなあ」という以上に記憶していないのも、致し方ないかな。


東日本大震災をはさんで、この『続・悩む力』を読んでいると、結局のところ、100年前も現在も、人間が悩むポイントというのは、そんなに変わっていないんだなあ、と思えてきます。

 また、もう一つ、漱石の作品には大きな特徴があります。それは、主な登場人物が中流以上ばかりだということです。
 そういう人たちが、豊かさゆえに、あるいは教育の高さゆえにどつぼにはまる姿――ほとんどそればかりを書いたといってもいいくらいです。底辺に生きる人間のたくましさだとか、プロレアリアートのがんばりだとかいったことには、漱石は少なくとも作品中ではほとんど関心を示していません。
 そのように、漱石の小説に展開されているのは、当時としてはかなり上のほうの特殊な人たちの世界だったのですが、しかし100年後の現在、そのような状況は一般化、大衆化してまんべんなく社会を覆うようになりました。つまり、漱石的な世界は、いまでは、ほぼ私たち全員の物語になっているのです。平成のお延、代助は私たちの身の回りにいくらでも見いだせるはずです。

そう考えてみると、少なくとも100年前よりも多くの人が「物質的な豊かさ」を享受できる世の中にはなってきている、ということでもありますよね。
ところが、その「豊かさ」は。なかなか実感できないのです。

 苦難の弁神論は、いまでも神学やそれ以外の宗教的あるいは世俗的な弁神論のなかに、かすかに引き継がれているかもしれませんが、私たちの日常世界を圧倒的に支配しているのは、幸福の弁神論です。つまり、自由競争のルールに従って優勝劣敗が生じることは当然であり、強者・適者が栄え、弱者・不適応者が滅びることには一定の正当性があるという考え方です。
 そのためでしょうか、「自殺者」が亡くなるときに、「すみません」という言葉を遺して生命を絶つ場合が多いというのは――。
 この話を「自殺問題」と取り組むNPO法人ライフリンク清水康之代表から聞いたとき、私は思わず憤りと悲しみで身が震えました。もし、宗教的であれ、世俗的であれ、苦難の弁神論が、この社会に息づき、人びとの心をとらえていれば、そのような絶望的な独白を吐かざるをえないところまで追いつめられることはなかったかもしれません。

自殺するときまで、「すみません」と言わなければならない世の中って……
でも、彼らはいったい、誰に対して、謝っているのでしょうか?
家族や友人、それとも、自分自身に対して?
ひとつだけ言えるのは、「生きづらさについて悩むのは良いことではない」という認識がなされている、ということでしょう。


著者は、漱石をはじめとして、マックス・ウェーバーウィリアム・ジェイムズやV・E・フランクルも採り上げながら、「悩みを抱えて生きること」について考えていきます。


この新書のなかでとくに印象的だったのは、夏目漱石の『門』からの引用でした。

 漱石の場合でいえば、『門』の宗助が、仏教にすがろうとしたにもかかわらず、仏に身をゆだねることができずに途方に暮れる場面の心理描写などから、彼の苦しみを推測することができます。

 彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼はまえを眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった・

この「何かを信じたいのに信じきれず、宙ぶらりんのまま、ただ時間だけが過ぎ去っていく」という状況に、僕は共感せずにはいられません。
ああ、いまの自分も、こんな感じだよなあ、って。
「信じきってしまう」か、「何かを信じることをあきらめる」か、どちらかに決めてしまえれば、ラクになれるかもしれないのだけれど。

 「二度生まれ」(twice born)は、ウィリアム・ジェイムズが『宗教的経験の諸相』のなかで重要な言葉として使っています。
 平たく言うと、人は生死の境をさまようほど心を病み抜いたときに、はじめてそれを突き抜けた境涯に達し、世界の新しい価値とか、それまでとは異なる人生の意味といったものをつかむことができるというのです。
 彼は「健全な心」で普通に一生を終える「一度生まれ」よりも、「病める魂」で二度目の生を生き直す「二度生まれ」の人生のほうが尊いと言いました。
 こうも言っています。一度生まれの人の宗教は「一種の直線的なもの」であり、「一階建てのもの」である。これに対して、二度生まれの人の宗教は「二階建ての神秘」であると。この考え方は、いままでの幸福と苦難という単純な二分法を見直させてくれるものとして注目すべきです。

著者は、「悩まずに、明るく生きようよ」というのではなく、「とことんまで悩みぬくことによって、そこから新しい人生をはじめることができるかもしれない」と語りかけています。
こんな時代、無理に「悩まないようにする」のは、かえって自分を苦しめるだけではないか、とも。
ただ、「悩むこと」の先に必ず天国への門が存在するわけではなく、「悩みにとりつかれたまま、抜け出せなくなってしまう人」あるいは「人生そのものを経ちきってしまう人」もいるわけで、僕自身は、「悩まずに済むのなら、それに越したことは無いんじゃないかな……」とも思うんですよね。

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