琥珀色の戯言

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【読書感想】マツコの何が“デラックス"か? ☆☆☆☆

マツコの何が“デラックス

マツコの何が“デラックス"か?


Kindle版もあります。

マツコの何が“デラックス”か?

マツコの何が“デラックス”か?

内容紹介
「共感・伝える力」の見事さにおいて、
いまマツコ・デラックスを超えるタレントがいるだろうか?
「食べる」「装う」「懐かしむ」……
中居正広という生き方』が話題になった気鋭の社会学者が、
マツコを象徴する「動詞」に着目し、その唯一無二の魅力に迫る。


 著者は、この本の「はじめに」で、こう述べています。

 本書は、いまや唯一無二のテレビタレントと言っていいマツコ・デラックスのルーツ、衝動、仕事からその人物像を多角的に浮き彫りにしたうえで、なぜいま「マツコ・デラックス」という存在がこれほど求められているのか、その理由に社会学的に迫ろうというものである。


 僕もマツコさんが出演している番組には好きなものが多くて、『マツコの知らない世界』や『マツコ&有吉 かりそめ天国』は、ずっと観ているのです(後者に関しては、『怒り新党』の頃のほうが好きだったのですけど)。
 この「デラックス」というペンネーム、および「芸名」に関しては、以前、『5時に夢中!』(TOKYO MX)のなかで、マツコさん本人が、「デラックス」のほかに「インターナショナル」「ロワイヤル」「ユニバーサル」が候補としてあって、その中で「インターナショナル」と「デラックス」の二択になり、最終的に「デラックス」となった、という話をされていたそうです。
 ちなみに、マツコさんは『デラックスじゃない』という著書を出しておられます(もともとは、雑誌の編集やライターとしての仕事がマツコさんの本職だったのです)。


 僕も、「なぜ、マツコ・デラックスはこんなに人気があって、しかも、その人気を保っていられるのだろう?」とは思っていたんですよね。
 見た目の奇抜さであるとか、「男性が恋愛対象の同性愛者+女装癖(ただし、性同一障害ではなく、女性になりたい、というわけでもない)」というマイノリティへの興味だけでは、一時的に人気を得ることができても、こんなに長続きはしないはずです。
 なぜ、マツコ・デラックスは、いまのテレビのなかで、唯一無二の存在でいられるのだろうか?


 そのことに関して、著者は、さまざなま角度から分析しているのですが、僕にとって印象的だったのは、この話でした。

 マツコ・デラックスと言えば、歯切れの良いコメントや胸のすくような啖呵に魅力を感じている人は多いに違いない。そこだけとれば、マツコは気っ風のいい、さばさばした性格であるように見える。
 だが、本人の弁によれば、マツコ自身はよく迷ってしまう人であるらしい。
 そのことを象徴する、こんなエピソードをマツコは披露している。
 自分の住むマンションの1階のコンビニに、どうしても食べたいアイスがなかったらどうするか? そういうとき、マツコは我慢できずに「コンビニ放浪の旅」に出てしまうことがある。お目当てのアイスを売っているコンビニを求めて半径1kmぐらいの範囲のコンビニを探しまわるのであある。あるときなどは、そのアイスがなかなか見つからず、ようやく十何軒目で買うことができた。ところが、後先考えず街をさ迷っていたため、自分がどこにいるかわからない状態になってしまった。マツコはそのコンビニの店員に「すみません、ここ、どこですか?」と尋ね、地図を描いてもらってなんとか家に帰ることができた(マツコ・デラックス『デラックスじゃない』)。
「どうしてもいまこれが食べたい」という気持ちが抑えられなくなった経験は、誰にもあるに違いない。とは言え、マツコのようにまでして目的を果たそうとする人はまれだろう。
 このエピソードからひとつわかるのは、マツコ・デラックスが、自分の欲望に対して人並み以上に正直な人であるということだ。


 僕も同じようなことをしてしまいがちなので、この話を読んで、マツコさんに親しみを感じたのです。僕の場合は、「欲望に正直」というよりは、いちど「これ」と決めたものに対して、頭では「他のアイスでも食べ始めてしまえば、そんなに変わりない」と頭ではわかっているはずなのに、それを手にいれなくてはならない、という強迫観念みたいなものにとらわれて、意地になって探してしまんですよね。
 「非効率的な欲望」だと自分自身で呆れながらも、その欲望を果たさなくては気が済まない。
 マツコさんも、同じように「それはバカバカしい欲望なのだ」と理性ではわかっていながら、それに抗えない自分自身の弱さに半ば呆れ、半ば受け入れているのではないだろうか。


 テレビコメンテーターって、世の中のことを、他人事として俯瞰的に語る人が多いけれど、マツコさんは、いつも、「自分もまた、世間の一員である」と考えているようにみえます。


 著者は、「マツコは揺れ動く場面も多い、マツコは基本的に迷う人なのだ」と述べています。

 たとえば、会社のスポーツ大会に強制参加させられることに納得いかないという当初に最初は全面的に賛同するが、いろいろ話しているうちに「これも仕事か〜」と悩み始める(『マツコ&有吉の怒り新党』2016年3月23日放送)。あるいはエイプリルフールに親友から結婚するという噓をつかれ、本気で信じてしまったことに腹が立つという投書には、聞いてすぐに噓とわかるようなものでないといけないと言いながら、もう一方でエイプリルフールという風習自体の存在価値に疑問符を投げかける(2015年4月1日放送)。
 見方を変えれば、マツコ・デラックスは、物事の「境界」に敏感な人であると言えるだろう。世の風潮や慣習について、どこまでなら許容できて、どこからがそうでないかをつい考えてしまうのだ。

 コメンテーターと呼ばれる人々は、どんなことを聞かれても間髪入れずに答える。当然事前の打ち合わせもあり、仕事だからと言ってしまえばそれまでだが、やはり私たちが日常行っているコミュニケーションと比べれば、不自然だ。そこには「考える」という間がない。
 それに対し、マツコ・デラックスのコメントにはしばしば間がある。必ずというわけではないが、マツコはコメントを求められて一瞬沈黙することがある。まるでその場で考えをめぐらしているかのようだ。そしてゆっくり一語一語を噛みしめるように、時にはまだ迷っているかのように語り出す。
 たとえば、『5時に夢中!』(TOKYO MX)でのこと(2017年2月6日放送)。音楽著作権管理団体が、子どもたちの通う音楽教室で演奏される楽曲についても著作権料を徴収する方針を表明したことが話題になった。そのときマツコは少し空を見つめるように数秒沈黙した後で、「うーん」と静かに切り出した。子どもの教育に絡んだケースなのでどうしても管理団体への批判的論調が強いなか、CDが売れないなど音楽市場の変化によってそうせざるを得ない団体の立場、さらにはそのように世知辛くなるしかない社会全体の閉塞感、経済主導でやってきた日本社会のビジョンの根本的見直しの必要性まで、マツコは一息で語りつくした。この問題について、ここまで簡潔かつ濃密なコメントを展開したコメンテーターを、私は他に知らない。
 テレビは沈黙を嫌うメディアだ。ラジオとちがって映像があるにもかかわらず、沈黙が続くことを嫌う。確かにテンポの良い丁々発止の会話は聞いていて心地いいし、それだけでひとつの芸である。マツコはその面でも手練れのひとりだ。「テメエ!」と豪快に啖呵を切るかと思えば、「どうしよう……」と突然弱気にもなる。その語りの緩急は見事だ。しかしだからこそ、時折見せる沈黙は余計に目を引く。
 それはきっと、マツコが自分の言葉で話そうとしているからだ。常にコメントの根底には、何度かふれたように「ウソをつかない」という強い決意がある。


 マツコさんは、たしかに、「人を引き込む語りの上手さ」を持っている人なのです。
 でも、僕がマツコさんに惹かれるのは、その「上手さ」よりも、「自分だったらどうするか、と考えてみて、わからないこと、難しいことに対しては、それを正直に口にしてくれるところ」なんですよ。
 コメンテーターには、「瞬発力」みたいなものが望まれているのでしょうし、本人たちも意識してそれをやっているのだろうけど、そんな中にいるからこそ、「ちゃんと考えて、迷っている姿をみせてくれる」マツコ・デラックスは貴重な存在なんですよね。
 もちろん、こうして「テレビで迷うことが許される立場」になるまでは、簡単なことではなかったと思うのですが。
 僕は、ネットはもちろん、一部のマスメディアでも「極論」あるいは「白か黒かはっきりすること」がもてはやされていることに、不安や疲れを感じることが多いのです。
 迷うことは悪だ、味方じゃないやつは敵だ!とにかく、強い言葉で決めつけたほうが有利なのだ!

 今の社会で、マツコさんが多くの人に支持されているのは、なんとなく居心地の悪さを感じている「迷っている人たち」を、「ああ、こんなふうに悩んだり、どちらの立場もわかる、って言ってもいいんだ」と安心させてくれる存在だから、だと僕は思うのです。
 

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