あらすじ
新聞記者の阿久津英士(小栗旬)は、昭和最大の未解決事件の真相を追う中で、犯行グループがなぜ脅迫テープに男児の声を吹き込んだのか気になっていた。一方、京都でテーラーを営む曽根俊也(星野源)が父の遺品の中から見つけたカセットテープには、小さいころの自分の声が録音されていた。その声は、かつて人々を恐怖のどん底に陥れた未解決事件で使用された脅迫テープと同じものだった。
2020年、映画館での12作目。
平日の夕方からの回で、観客は僕を含めて8人でした。
この『罪の声』、原作小説の単行本が出たのは2016年だったんですね。僕もその年に読みました。
小説に対しては、「すごくよくできた話だな」という感心と、「でも、実際の事件をモチーフにしていて、誰もが『グリコ・森永事件』だとわかるのをわざわざ仮名にし、おそらく事実とは異なるであろう、「真相っぽい話」や「子どもたちの苦悩」を「これはフィクションです」と世に出すことへの、もどかしいというか、納得できない感情が入り混じっていたんですよね。
かなり綿密に取材もされていて、「本物っぽい」からこそ、「ノンフィクションかと思ってしまったじゃないか!」という憤りもあったのです。
あの事件と「かい人21面相」のことは、今でもけっこうよく覚えています。
劇中でも「日本で最初の劇場型犯罪」と言われていましたが、マスコミを通じて公開される「脅迫状」の内容を、当時中学生だった僕たちはけっこう面白がって話題にしていたのです。
当時は、まだ「左翼」がそれなりに強い時代でもあり、「警察」という巨大権力が揶揄されることに、快哉を叫んでいる人も少なからずいたのです。
この映画版を観に行ったのは、率直に言うと、何か映画を見たいのだけれど、現在公開されているラインナップのなかで、『鬼滅の刃』は別格として、未見で「観てもいいかな」と思ったのがこれしかなかったから、だったんですよ。
実際に観てみると、なんというか、星野源さんの説得力、みたいなものにすっかりやられてしまいました。
演技がものすごく上手いとか、役によってまったく違う人にみえる、というわけじゃないんですが、星野源さんが演じていると、なんでも許せる、そんな感じなんだよなあ。
先日、NHKで『おげんさんがいっしょ』という番組が放送されていて、それを前の番組からの流れで眺めていたのですが、大変ゆるい、内輪ネタ満載のラジオの深夜放送のような内容だったのですが、そこに星野源さんがいると、なんとなく「観てしまう」のです。
これはまさか、恋、なのか……?
個人的には僕はもう鯉の応援でお腹いっぱいなのですが……
小説では「所詮作り話だろ」と言いたくなるのに、それを役者さんが演じると、説得力が生まれることがあるのです。
『セカチュー』こと、『世界の中心で、愛をさけぶ』なんて、小説を読んでも「何このお涙頂戴の前時代的な難病純愛小説……」としか思えなかったのだけれど、長澤まさみさんが難病の女の子を演じているのを観ると、涙腺大決壊。そんなにあっさり乗せられてしまう僕もいかがなものかと思いますし、年とともに涙もろくなるのって本当なんだな、と痛感するのです。
かなり長い原作を、どんなふうに2時間20分にまとめるのだろう?と思ったのですが、本当にうまくまとめられているんですよね。
意味がわかりにくいところもあるのだけれど(株の「空売り」の説明とか、けっこう難しいです)、説明しすぎてダレるよりは、テンポを大事にして、話をどんどん進めていっていますし。
こんなに次々に事実がわかるのであれば、当時、警察もなんとかできたのではないか、と、フィクションに対して愚痴のひとつも言いたくなります。
基本、この映画の登場人物たちは、口が軽いなあ、とも思います。
ただ、この映画版をみていると、マスメディアというものの身勝手さと同時に、「人や情報を探ったり、世の中に呼びかけたりする威力」も感じるんですよね。だから勘違いさせてしまうところもあるのだろうけど。
そして、「子どもを犯罪に巻き込むなんてあってはならない、許せない!」と憤るのと同時に、僕は「権力や暴力に踏みつけられて、抵抗するにはテロリズム的な手法に訴えるしかない人々」の気持ちや行動についても、考え込まずにはいられなかったのです。
「子どもの幸せを犠牲にする『革命』や『問題提起』に意味があるのか?そんなやり方が許されるのか?」
僕だって、自分の子どもを苦しめるような犯罪や社会運動に参加しようとは思わない。
ただ、そう言い切れるのは「とりあえず現状を肯定して生きられる人間の特権」みたいなもので、黙って踏みにじられるか、自爆テロをやるかの二者択一になれば、後者を選ぶのもまた人間ではないか、と考えてしまうのです。
「絶望」や「怒り」に駆られた人間が、「もうこれ以上失うものはないし、どうなってもいい」あるいは「ここまで自分をないがしろにした『社会』に一矢報いてやりたい」と切実に願ったときに、「それでも、他者や無関係な人を犠牲にするようなやり方は間違っている」という声は届くのか?
「劇場型犯罪」を成立させたのは、マスメディアの力だけではなく、そういう「よりスキャンダラスな報道を喜ぶ読者や視聴者の力」だったのではないか?
周りの大人の都合で、わけもわからないまま「声の罪」を犯してしまった子どもたちが生きづらいのは、彼らを利用した連中に憤りながらも、その子どもたちを「許す」こともできない「幸運な普通の人たち」のせいではないのか?
『銀河英雄伝説』で、ヤン・ウェンリーが言っていました。
「人類は、いつも、『命より大切なものがある』と言って戦争を始め、『命より大事なものはない』という理由で戦争を止める」
僕は「犯人A」の言い分を、全否定しきれなかったのです。
こんなやり方は、間違っている。
でも、正しい(とされる平和的な方法)で、本当に世の中を変えられるのだろうか?
あれから35年が経ち、ネットの力もあって、権力者による隠蔽もやりにくくはなったと思う。
それでも、権力の横暴や「世間の圧力」に苦しめられている人は、大勢いるのです。
そうそう、最後にひとつ。この映画の宇野祥平さん、本当に凄かった。生身の人間が演じることの説得力に圧倒されました。