琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ゴーストライダー ☆☆

内容紹介
究極のヒーロー×バイクアクション登場!
ヘルバイクがビートを上げる時、悪を倒しに奴が来る!

【ストーリー】
スタント・ライダーのジョニーは、悪魔メフィストに自らの魂と引き換えに父の命を救う契約を結んでしまう。ところが父はスタント中の事故で死亡。ジョニーの魂は悪魔の手に渡ってしまう。一方、メフィストの息子のブラックハートが地上に姿を現し、地獄を我が物にしようと動き出していた。メフィストは、それを阻止するため“ゴーストライダー”を差し向ける。そのゴーストライダーこそ、ジョニーだった。そして彼は炎を吹きあげるヘルバイクに乗って、悪魔たちとの壮絶な戦いに挑む!

 この映画、僕の新婚旅行先のイタリアで、なぜか大々的に宣伝されていて、街中でポスターを見かけたのを覚えています。いかにもB級アクションっぽい印象で、内心、「誰がこんな映画観るんだ?」と大いに疑問だったのですが、ニコラス・ケイジはイタリアでそんなに人気があるのでしょうか?

 それで、なんとなく記憶に残っていたため、今回DVDになったのを機に観てみたのですが、観終えた直後の率直な感想は、「ニコラス・ケイジ、仕事選べよ……」でした。いや、『シティ・オブ・エンジェル』での、やたらとメロウで鬱陶しい感じの天使役のときもそう思ったんだけど、ニコラス・ケイジさんって、あんまり「この役は自分のキャラクターに向いているか?」なんてことは考えない人なんでしょうか。ついでに、キャスティングを聞いたときには「ピーター・フォンダも仕事選べよ……」とちょっと思ったのですが、けっこうこちらはハマっていたような気がします。

 でも、いろいろ調べてみると、この映画、ニコラス・ケイジさんにとっては、「待望の仕事」だったみたいなんですよね。Wikipediaによると、

芸名の「ケイジ」の由来はマーベル・コミック社のコミック「パワーマン」の主人公ルーク・ケイジから。

らしいですし(ちなみに、ニコラス・ケイジさんは、フランシス・フォード・コッポラ監督の甥にあたるそうです。でも、それを言われるのをものすごく嫌がっていたのだとか)、AmazonのDVD紹介には、

コミックス好きとして知られ、一時はスーパーマン役のオファーまでされていたニコラス・ケイジが、マーベル・コミックスの人気キャラクターを演じたのが本作だ。悪魔との契約で燃えるドクロ頭を持つ“ゴースト・ライダー”となった男を大熱演している。

なんて書かれています。御本人はノリノリだったわけです。「一番やりたかったキャラクター」なんて仰っていたらしいし。

 この映画、正直言って、同じアメコミ原作の映画でも、『スパイダーマン』のお金のかけかた、練りまくられた演出に比べると、いかにもチープ。ストーリーは破天荒というか、いや、ロクサーヌ度胸良すぎだろ、もっと驚くところだろそこ!とか、この敵の手下、ショッカーの戦闘員レベルに弱い……(ちなみにボスも腰砕けなくらい弱いです)とか、ゴーストライダー無意味に周囲を破壊しすぎ!とか突っ込みどころ満載。でもまあ、こういう映画は、そんなふうに突っ込みながら観るべきもの、なのかもしれませんけどね。
 ほんと、観ても賢くなるわけでもなければ、人生を学ぶこともできない映画です。

 しかし、それでも僕はこの映画を「観てしまった」わけなのですよ結局。同じ2時間をかけるのであれば、『それでもボクはやってない』を観たほうが、はるかに有意義なような気がするのに。
 結局、「良い映画」であることと、「観たくなる映画」であることというのは、必ずしも同じではないのかもしれませんね。多くの人が、多くの場合に必要としているのは、すばらしいし有意義だけれども内容が「重い」、『それでもボクはやってない」ではなくて、「何の役にもたたないけど、バカバカしい部分を含めて気分転換にはなる『ゴーストライダー』のほうなのですよね。
 「燃えるドクロ頭を持つ“ゴースト・ライダー”」がヒーローっていう設定は、ある意味すごいセンスだとしか言いようがないのですけど、日本にも「黄金バット」がいるからなあ……

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質 ☆☆☆☆

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

参考リンク:津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫』(by 夏目房之介の「で」?(07/4/29))

「アニメが作りたいからマンガを書いている」とまで言った手塚治虫
彼が日本のアニメーションに与えた影響を豊富なインタビューを交え、総合的な視点からとらえなおす。

第1章 アニメへの開眼―手塚治虫の出発点
第2章 虫プロ設立まで
第3章 『鉄腕アトム』の背景
第4章 実験アニメーションの成果
第5章 手塚アニメの語られ方
第6章 大衆か実験か
第7章 手塚アニメとは何だったのか
手塚が日本のアニメーションに与えた影響とは? その功罪を改めて評価する。

この本にも引用されているのですが、手塚さんが亡くなられた1989年に、宮崎駿監督が、

「アニメーションに対して彼(手塚治虫)がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います」
「昭和38年に彼は、1本50万円という安価で日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に安いという弊害が生まれました。それ自体は不幸のはじまりではあったけれど、日本が経済成長を遂げていく過程でテレビアニメーションはいつか始まる運命にあったと思います。引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけです。ただ、あの時期彼がやらなければあと2、3年は遅れたかもしれない。そしたら、ぼくはもう少し腰を据えて昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです」

と、「手塚アニメ批判」をされてから、手塚治虫という人は、「日本のアニメーション関係者を貧乏にした元凶」のように言われ続けてきましたし、僕もそういうイメージを持っていたのです。
 手塚治虫は、自分の理想のために、たくさんの人を犠牲にしてきたのだ、と。

 しかしながら、この本を読んでみると、確かに、手塚治虫がアニメの『鉄腕アトム』を安売りしていたのは事実なのですが、その一方で、手塚さんは「アトム」によるキャラクタービジネスなどで、それなりに収支は合わせているんですよね、全体としては。それに、著者や参考リンクでの夏目さんもおっしゃっているのですが、「待遇」の問題を手塚さんひとりの責任にしてしまうのは、あまりに理不尽なことなのです。そもそも、手塚治虫以後にも、待遇改善の機会はあったのでしょうし、この問題に関しては、宮崎駿監督自身だって、むしろ「批判されるべき立場」でしょう。
 ただ、手塚治虫という人は、「最高のマンガ家」であった一方で、「経営者としては問題があった」のも事実で、「自分の苦手なことは人に任せる」ことができないタイプの人だったというのは、「不幸のはじまり」ではあったのでしょうけど。

 僕はこれを読んで、『鉄腕アトム』が、「国産初の帯番組のテレビアニメーション」として賞賛されている一方で、毎週放送するために、「アニメーションとしてのクオリティ」をかなり犠牲にしていた面があった、というのをはじめて知りました。コストや時間削減のために動画の枚数を減らしたり、キャラクターの「動き」そのものを少なくしたり、「使いまわし」と積極的に行っていったり……
 こういう作品をみせられることは、宮崎駿監督のような「キャラクターの動きにこだわってこそのアニメ」という人たちにとって、ものすごく歯がゆかったに違いありません。そんな「手抜き作品」が「初の国産アニメーション」として認知されてしまったがために、質という点では、日本のアニメのスタート地点は、かなり低いところからになってしまったのでしょう。ちなみに、『鉄腕アトム』以前にも、海外のアニメーション作品は日本のテレビでいくつも放送されていたそうです。それもこの本を読んではじめて知りました。

 ただ、手塚治虫が日本のアニメーションに残した功績は非常に大きなものである、ということだけは、まぎれもない事実ではあるんですよね。いろいろ問題点はあったものの、「誰かがやらなければ、はじまらなかったこと」であるのは間違いないのだし。

 この本については、正直、著者が自分の「斬新な結論」にこだわるあまり、せっかくの資料を捻って解釈しすぎているのではないか?と思うところもあるのです。

東映動画の『西遊記』において、手塚がストーリーボードを多用するディズニー的なスタイルをとろうとしたのは、それが「東洋のディズニー」を標榜する東映動画の傘の下での仕事だからであって、手塚のアニメーションにおける本質的な志向によるものではなかったのではないだろうか。

 なんていうのは、「本質的な志向」云々ではなくて、手塚さんはディズニーの仕事ぶりをどこかで知って、単に自分でも同じようにやってみたかっただけじゃないかと思うのですよ。手塚治虫という人は、やっぱりディズニーが好きで、でも、今の自分が置かれている状況ではディズニーに勝てないことを悟っていて、それで「自分がいちばんになれるところ」を目指して、「実験アニメーション」をやったりしていたのではないかと。普通の商業アニメーションでディズニーに勝てそうだったら、手塚治虫という人は、そちらを志向していたような気がするのです。

 ちょっと値が張る本なのですが、「権威」であるがゆえに一方的な批判の対象にされてきた「手塚アニメ」についての非常に興味深い研究書として、手塚治虫ファン、アニメファンには、ぜひご一読をおすすめします。宮崎駿サイドから「手塚治虫の罪」を語りがちな、「ジブリファン」にもぜひ。
 僕はこれを読みながら、宮崎駿監督も、将来、「アニメーションをやたらと大掛かりなもの、教育的なものにしてしまい、その表現の幅を狭めてしまった罪」を問われる日が来るのではないかな、と考えてしまいました。

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