琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

切羽へ ☆☆☆


切羽へ

切羽へ

出版社 / 著者からの内容紹介
夫以外の男に惹かれることはないと思っていた。彼が島にやってくるまでは……。

静かな島で、夫と穏やかで幸福な日々を送るセイの前に、ある日、一人の男が現れる。夫を深く愛していながら、どうしようもなく惹かれてゆくセイ。やがて二人は、これ以上は進めない場所へと向かってゆく。「切羽」とはそれ以上先へは進めない場所のこと。宿命の出会いに揺れる女と男を、緻密な筆に描ききった美しい切なさに満ちた恋愛小説。

第139回直木賞受賞作。
なんというか、とても淡麗な味わいの「大人の恋愛小説」なんですよねこれは。悪く言えば「地味」。
しかしながら、「出会った日の夜に勢いで寝ちゃう」「友達の夫となんとなくセックスしちゃう」恋愛小説を読みなれた僕にとっては、「ああ、この小説の『何も起きなさかげん』はものすごくリアルだなあ」と思いますし、女性の心の機微が丁寧に描かれている佳作だとは感じます。
でも、率直に言わせてもらうと、この作品「面白くない」んですよね僕にとっては。
この「著者からの内容紹介」を読むと、結ばれない二人の悲恋を描いた「ドラマチックな恋愛小説」のイメージを受けると思うのですが、実際に読み進めていくと、「起承承結」という感じ。これ、「宿命の出会い」なの?
いや、ある意味リアルだとは思うけど、これを1500円出して読みたいかと言われると……
ああ、のどかだなあ、これから何が起こるのかなあ……と読んでいるうちに「えっ、これで終わり?」

まあ、僕は「文章を味わう」よりも「ストーリーを追ってしまう」タイプだし、表現の美しさよりも着想の新しさや意外さを好むので、この作品とは相性が悪いのかもしれません。もともと「恋愛小説」に対しては、「で、このふたりがくっついたり離れたりすることによって、世界に何か影響あるわけ?」とか考えがちですから。

「玄人好み、大人好みの作品」なのかもしれませんし、『ドライビング・ミス・デイジー』や『ビューティフル・マインド』が受賞したときのアカデミー作品賞のように、「こういう賞でも獲らなければ埋もれてしまう地味な佳作を世間に紹介する」という意味では有意義な授賞だとは思います。女性の心の動きの描き方は、ほんとうに素晴らしいです。

たぶん、直木賞の選考委員たちはこういう小説が好きなんだろうなあ。
というか、「これなら理解できる!」という感じだったのかも。
前回が『私の男』という「問題作」だったため、今回はこの作品に針が振れたようにも思われます。


参考リンク:「切羽へ」の井上荒野さん(YOMIURI ONLINE)

↑の記事より。

 主人公は、画家の夫と仲むつまじく暮らす島の小学校養護教諭、セイ。ある日、東京から石和という若い男性教師がやってくる。えたいのしれないところがある石和に、セイはひかれていく。

 特に意識したのは、「二人にキスもさせない、何も起こらない小説にする」こと。島の病院や映画館の廃虚跡で、海辺で、炭鉱跡で――セイと石和はひかれあいながらも、決して一線を越えることはない。「たいていの恋愛小説は、男女が出会い、何かが起こる。けれど、表面上は何も起こらない中で、心の中のことを描きたかった」

 石和の人物像も、小説誌連載時から大きく書き換えた。「連載中は、セイが好きになる理由が必要だと思ってたからもっといいやつだった。でも、理由がなくても人は人を好きになる。好きになるってそういうことだと思って……」

たしかに、井上さんが書きたかったことは、しっかり書かれている作品です。
僕にとっては、「お金と時間を使って、読みたい話」じゃなかっただけのことで……

ゲロとトラウマと優しさと

コンビニでゲロ吐いてたの、小さい子が - S嬢 はてな
↑のエントリを読んで考えたことなど。

確かに「いい話」「母親って偉い!」っていうエピソードではあるのだけれども、そこで、id:satomiesさんを賞賛しておしまい、にするのはちょっともったいない気がします。
「こういうふうに動ける人間になりたい」と思っても、実際に現場にいると、そう簡単に動けるようなものじゃないんだよね。
あの秋葉原の通り魔事件で、被害者の救護にあたった人のなかに医師がいたのだけれど、あれは「職業的倫理」「善意」だけでなく、「ああいう場面に対応するためのトレーニングを積んでいるから」すぐに動けるのだ。このエントリが、多くの人を「動かす」きっかけになってくれればいいな、と。

「キティ事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」(活字中毒R。)
↑のエントリで紹介している『不機嫌な職場』という本に、こんな一節があるのです。

 実は、人を助ける、援助するという行動でさえ、人は日頃から意識していなければなかなかできないのだ。では、どうすればよいのか。
 まずは、緊急事態を察知できるように、お互いに気を配り合う意識を持つこと。まじめな人ほど、自分でどうにかしなければと思い、抱え込んでしまう。自分から助けてくれと言えない。だからこそ、お互いの状況に普段から気を配り合う、何かあったら言ってねという言葉を掛け合う。そうした関係づくりをすることが必要である。
 そして何か緊急事態が起きたときに、傍観者にならない。少なくとも他の人に、気づいたことを伝える。あるいは困ったことは、みんなで知恵を出して解決しようという意識を共有する。一人の問題にしないで、みんなの問題として感じること。こうした感情を持つことの大事さを共有することが必要である。
 それでも、実際に人を助けるという行動に踏み出すには勇気がいる。
 もしかして、ここで声を掛けたら、余計なお世話だと言われてしまうかもしれない。自分が助けようとしたことで、かえって問題がこじれてしまうかもしれない。それでも、踏み出していくためには、実はそういった行為が尊い、あるいはみんながそれを認めてくれる、本人もきっと感謝してくれるであろうという安心感が持てることが必要である。
 人を助ける、人に自分から協力するという行為を、みんなが尊い、素晴らしいと思う風土、雰囲気を意図的につくり、共有していかなければ、多くの人は最後の一歩を踏み出す勇気が持てないのではないだろうか。

 考えてみれば、satomiesさんの行動は、ブックマークコメントにも書かれているように、お金をもらえるわけでもないし、「自分がノロウイルスに感染してしまう危険もある」。はっきり言って、「あまり得にはならない行為」です。「カッコつけちゃって」とか「そんな1文にもならないことをわざわざやるなんて、バカじゃない?」というようなことを(陰で)言う人もいるはず。
 秋葉原の事件でも「被害者の血液からB型肝炎へ感染したおそれがあるので、救護された方は申し出てください」というアナウンスがされていたのを記憶している方も多いのではないでしょうか。「通りすがりの善意」というのは、多くの場合、リスクに比してメリットは少ないものです。
 要するに、「物理的な損得を考えるのなら、人助けなんてしないほうがいい」。

 それでも、困っている人を見ると放っておけない人がいて、そういう人に賞賛の言葉をかけ、「自分もそうでありたい」と考える人もいる。いろんな意味で、まだ、捨てたもんじゃないな、という気がする。そして、ネットでこういう声が聴けるというのは、「ネットも捨てたもんじゃないな」と嬉しくなるのです。

 そして、「善意の人を賞賛する」のと同時に、われわれは、もっと「正しい感染予防」について知っておく必要もあるでしょう。
 「自分が感染しても人を助ける」というのは、人として素晴らしい心がけではあるけれども、本当にそれで感染してしまったら、たぶん、感染した側も、させた側も後悔するので。

 ノロウイルスの感染予防に対しては、↓を。
厚生労働省:ノロウイルスに関するQ&A

 肝炎ウイルスの感染予防に関しては、↓を。
仙台市:ウイルス性肝炎の知識と予防

 正直、「関わらないに越したことはない」と言われては元も子もないのだけれど、「うつらないように注意するのも、救護者の大事な責任」です。「お前がうつした」って言われるのも、ものすごく辛いことなので。
 とにかく、「吐物に接触したあとは、きちんと手を洗う」「他人の血液に素手で触らない(まあ、好きで触る人はほとんどいないとは思うけど)」というだけで、ノロウイルス、肝炎ウイルス(B型、C型ね。A型やE型肝炎ウイルスは経口感染なのでまた別の話です。でも、救護時などにAやEが問題になるケースは、非常に稀なので、あまり考えなくてもよいかと)への感染のリスクは大きく減らすことができるのは知っておいて損はないかと。
 「自分の身を守る」のも大事だよ。satomiesさんの話のように、子供がかかわっている場合には、あまり露骨に「逃げ腰」になるのも相手の子供にとっては辛いかもしれないけど。

 
 この話を読んで、僕は自分の子供時代のことを思い出していたんですよね。
 たぶん、はじめて飛行機に乗ったときのことなんだけど、乗り物が苦手で、車、電車とあらゆる乗り物に酔いまくっていた僕。
 当時は、「外食に行くための車で酔ってしまって、レストランに着いても何も食べられず」なんてことがけっこうあったくらいです。
 僕は飛行機が下降していくときに激しく酔ってしまい、例の防水加工された「ゲロ袋」に吐きまくっていました。
 飛行機が空港に停まり、みんなが降りてしまったあとにようやく座席から這い出した僕は機内をフラフラしながら出口へ歩いていったのですが、そのとき、最後のアタックが……

 かなり壮絶に吐いちゃったんですよね、飛行機の通路で。
 周りには親しかいなかったので、第三者に直接攻撃はしなくてすんだのは不幸中の幸いだったのですが、「ゲロを公共の場所でぶちまけてしまったこと」はすごく恥ずかしく、泣きそうになりました。
 ひたすら謝る親、ああ、これはとんでもないことをやって、飛行機を汚してしまった……
 「ごめんなさい」とその飛行機のCAのお姉さんは、腰をかがめて僕と同じ目線になり、「いいのよ、それより気分はだいじょうぶ? せっかくがんばってここまで来たんだから、楽しんでね」と言って、笑って優しく頭をなでてくれました。
 いや、「申し訳ない思い出」だし、彼女の笑顔は「職業的仮面」だったのだろうし、僕たちがいなくなったあと「まったくもう汚いわねえ!」とかブツブツ言いながら「処理」しているという光景を想像できないほど僕は子供じゃなかったんだけど、それでも、ね。
 今もこうして覚えているくらいだから、ものすごくショックなことだったんだけど、たぶん、あのときのCAさんがもし僕に不快な顔を向けていたら、僕はもっと傷ついていたんじゃないかな、と思うのですよ。

 「優しさ」って、目に見えなくても、きっと、どこかで伝わっているのだと僕は信じています。

「本を読むと不幸になる」のか?


本を読むと不幸になる - 飲めヨーグルト

 個人的には、もし子供の頃「読書」というのが「比較的良い時間の過ごし方」として認知されておらず、「子供は絶対に外で遊べ!」みたいな社会だったら、内向的で運動音痴の僕にとっては、ものすごく生きるのが辛かっただろうなあ、と思います。
 村上春樹さんが、小説(物語)の役目について、こんなことを書かれています。

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。
 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。
 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。

 僕は、「本を読むと不幸になる」とは思いません。
 でも、「本を読むと不幸であることに気づく」ことはあるかもしれないなあ。
 もちろん、「幸福であることに気づく」こともあるのでしょうけど。

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