琥珀色の戯言

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【読書感想】人はなぜ物語を求めるのか ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
人の思考の枠組みのひとつである「物語」とはなんだろう? 私たちは物語によって救われたり、苦しめられたりする。その仕組みを知れば、人生苦しまずに生きられるかもしれない。物語は、人生につける薬である!


 この新書の冒頭で、ふたつのなぞなぞが紹介されています。
 どちらもとても有名で、人間の考えや行動の秘密を教えてくれるものだそうなのです。

問1:ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがある。それをやると100パーセント雨が降る、と村人は口を揃えて言う。さて、それはいったいどんな踊りか?

 「聞いたことがある」という人もいれば、「何それ?」と思う人もいるのではないでしょうか。
 答えはここでは紹介しませんが、人というのは、無関係なものを結びつける「物語」を求める、あるいは、実際に起こっていることには、何か理由がある、と考えたがる生き物なんですよね。

 前後関係を因果関係だと思ってしまうことを、「前後即因果の誤謬」と呼びます。人間の脳はつい、これをしてしまいます。
 英国の哲学者ヒュームが『人間本性論』(1739)で指摘したとおり、人間は、時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性を持っています。また批評家ロラン・バルトは、「物語の構造分析序説」(1966)で、この前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」だ、とまで言いました。
 できごとの因果関係が納得できるものであるとき、人間はそのできごとを「わかった」と思ってしまうらしいのです。
「わかる」というと知性の問題だと思うかもしれません。しかし、このように考えてきた結果、「わかる」と思う気持は感情以外のなにものでもないということが見えてきました。教育心理学者・山鳥重(あつし)は、つぎのように書いています。
<わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます>(『わかる』とはどういうことか 認識の脳科学ちくま新書
 ということは、<「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ない>(佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書)ということにもなります。
地球温暖化は、××のせいだ」
「自分が正しく評価されないのは、××のせいだ」
「××だから、凶悪犯罪が起こる」
「××だから、日本経済がこのような事態に立ち至った」
 それらの「から」「せい」は、妥当かもしれない。そして、勘違いかもしれない。


 この「間違った因果関係を信じてしまうこと」って、ものすごくたくさんあるんですよね。
 誰かを騙そうとして意図的に因果関係を作り出す人もいるし、自分でつくりだした間違った因果関係を信じてしまう人もいます。
 大きな自然災害は、ある一定の確率でどこかに起こるものでしかないのに、「天罰」とか言い出す人や、それに同調する人も出てくるのです。
 あまりに大きな問題に直面すると、「何か理由があったのではないか」と思いたくなる気持ちはわかるんですけどね。
 僕もけっこう「縁起をかつぐ」ようなことをやりがちですし。

 生きていくうえでいろんなことの原因・理由がはっきりしているほうが、一見ラクなように思えますよね(あくまで「一見」なのですが)。それで、僕たちはその説明についすがってしまいます。だから、いつも単純明快な答を求めてしまいます。
 しかしストーリーが滑らかで「わかりやすく」感じるとき、そのストーリーが——ひいては、僕たちの解釈機能が——ただの相関関係を「因果関係」にこっそりスライドさせている可能性があります。そういう意味で、滑らかなストーリーの形をしたものはしばしば危険でもあるのです。
 安心して生きられるような「安定した世界把握」それ自体が、少し長い目で見ると、危険を孕んでいることもある。
「説明が正しいかどうか」よりも、また「その問が妥当かどうか」よりも、僕たちはともすると、「説明があるかどうか」のほうを重視してしまう。ストーリーでそこを強引に説明してしまうことがあるのです。
 説明とは、そのままでは未知にとどまってしまうものを分解して、自分がすでに知っているものの集合体へと帰着させてしまうということです。こういったわけで、「わか(った気にな)る」ことはときに、お手軽な説明とセットであることがあるので要注意です。


「わかりやすい説明」だから、それが正しいとはかぎらない。
 しかしながら、間違った因果関係でも、「わかりやすい」と、それが正しいと判断してしまいがちなのです。
「なぜそんなことが起こるのかわからない」「単なる偶然である」というのを受け入れるのは、けっこう難しい。

 ドイツの哲学者ニーチェは『道徳の系譜学』(1887)の末尾で、以下のような人間学的観察を提示しました。
<人間は自分の存在にどのような意味があるのかという問題に苦悩したのである。〔……〕人間の問題は〔……〕苦悩そのものにあったわけではない。「何のために苦悩するのか?」という叫びに、答えがないことが問題だったのだ>

 カミュの『異邦人』で、殺人犯ムルソーは、世間の安易な物語化にたいして強く抵抗し、反論します。そして、自分が海辺で人を射殺したのは、太陽が眩しかったからだ、という内容の発言をします。常識で考えれば、これは人を射殺する理由としてまったくふさわしくありません。たんに理由として非常識であるという次元ですらなく、これでは殺人とまったく関係ないように思えるからです。
 この「太陽のせい」という発言をどう解釈するか、ということに、僕はあまり興味がありません。むしろこの発言が、ムルソーの刑事裁判の経過に興味のある作中の「世間の人たち」にたいしてだけでなく、僕たちカミュの小説の読者にたいしても、どういう効果を与えるか、ということのほうに、むしろ強い興味を抱きます。
 つまり、「太陽のせいで人を殺した」という発言は、じっさいに起こった射殺事件を、社会に通良いしがちな物語の形(ここでは近代的な刑法で解釈可能な形)に落としこむことにたいして強く抵抗する、ということなのです。
 人は世界を理解しようとするときに、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるをえない。こういった人間学的傾向を人はふだんほとんど自覚しません。
『異邦人』第二部で主人公は、その傾向に抵抗します。その抵抗にたいして、作中の「善良な市民」たちは反感と苛立ちをあらわにします。このとき、それまで自覚していなかった前記の人間学的な事実が可視化されていまうのです。
 むしろ市民たちのムルソーへの反感は、日ごろ自覚していなかった自分の「ストーリー依存症」に気づかされそうになって、その事実、「自分たちが現実だと思っているものの多くは、自分たちが無自覚なまま構成させられてしまったストーリーである」という事実を慌てて否認する(見ないようにする)ために起こった感情なのかもしれません。


 自分自身のことを思い返してみても、行動のすべてに、ちゃんとした動機や理由があるわけじゃなくて、「なんとなく……」なんてこともありますよね。
 「なんとなく」で、人を殺めたり、大事なものを盗んだりすることは「まずありえない」と思うけれど、そういうことを「これという動機や理由もなく、やってしまう」という人もいるのです。
 でも、わかりやすい動機があって犯罪に手を染める人と、「とくに理由もなく、やりたい気分だったから」という人とでは、どちらが罪が重いのか。あるいは「悪人」なのか?
 まあ、そんなこと考えても、しょうがないんですけどね。
 ただ、「わかりやすく説明されている因果関係には、本当にそれが成り立つのかどうか、注意が必要」だということは、知っておいて損はないと思います。

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