琥珀色の戯言

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【読書感想】偶然を生きる ☆☆☆☆


偶然を生きる (角川新書)

偶然を生きる (角川新書)


Kindle版もあります。

内容紹介
人間は偶然というものに強い興味を抱く。そしてその偶然を解明し、なんとか秩序立てて理解したいという欲求を抱き続ける――。数々の文学賞を受賞した作家が明かす「物語」が持つ力、そして今、「人間」が持つ力。


天地明察』の冲方丁さんが書いた、このタイトルの新書。
本のオビには「人生の攻略法は、この認識にある。」という言葉が。
うーん、何が書いてあるのだろう?と気になりつつ読みはじめてみました。


「人間は偶然に左右される」というような「人生論」なのかと予想していましたが、前半は冲方さんの「物語論」が書かれています。
冲方さんにとっては、「物語論」が、「人間論」であり、「人生論」なのだ、ということでもあるのでしょう。
 もっと具体的な「僕が作家になるまで」みたいな内容かと思っていたのですが、かなり抽象的な話が続いて、正直、ちょっと面喰らってしまいました。
 それと同時に、冲方さんは、「物語」という大きなものに対して、ここまで突き詰めて向き合ってきたのか、と驚きもしたんですよね。

 
 冲方さんは、この本の最初のほうで、「人間の経験」を大まかに四種に分類しています(これは「冲方さん流のやり方」だそうです)。

第一の経験が「直接的な経験」――五感と時間感覚です。
第二の経験が「間接的な経験」――これは社会的な経験ともいえます。
第三の経験が「神話的な経験」――超越的な経験であり、実証不能なものがほとんどです。
第四の経験が「人工的な経験」――物語を生み出す力の源です。


 これらの「四種の経験」の力関係が、人類の歴史とともに変化していることを踏まえつつ、冲方さんは「物語への向き合い方」を紹介しておられます。
 いまの世の中というのは、文字による知識の継承が進んでいる一方で、身体を動かして「体験」する機会が少なくなったり、(とくに日本では)宗教的・神秘的な体験が否定されることが多くなり、第二・第四の経験に重きが置かれているのです。


 そして、第四の「人工的な物語」には、社会において、多くの人間を共感させる道具としての役割があるのです。

 権力者の側から見てみると、どの時代においても体制を運営するのは限られた人間だけですので、その権力者たちが描く物語によって社会が激変したケースは少なからずありました。たとえば江戸時代に、犬公方とあだ名された五代将軍綱吉が、ある日突然、「生類(生き物)を殺すな」と言い始めたことで、江戸の生活観は一変しました。このことにしても、「生類を大事にすることで良い世の中ができる」(この「生類」には、人間とみなされていなかった最下層の人々もふくまれていたといいます)という物語を綱吉が信じたことから始まったわけです。社会は本来、みんなが共有している第二の経験から構成されているのに、それとはまったく矛盾した第四の経験から、世の中をがらりと返る発令がなされた例だといえるでしょう。
 民衆の側から見てみると、たとえばアメリカの南北戦争においては、「奴隷を解放すれば社会は豊かで正しくなり、みんなが幸せになれる」という物語がつくり上げられました。実際は、さまざまな文化的、経済的な事情があって戦争が起きていたのに、ある日、本質とは別のところで物語がつくられ、それがさまざまな価値観を集約することとなった。そして、「奴隷は解放されるべきだ」という正義に大勢が共鳴していったのです。


 人間とか世論とかいうのは、案外「物語」(=フィクション)によって動くものなのだな、と僕が感じたことのひとつに、海堂尊さんの『チーム・バチスタの栄光』からはじまる一連の医療ミステリの大ヒットとAi(オートプシー・イメージング:死亡時画像診断)の普及があります。
 海堂さんが小説で訴える以前から、原因不明死というのは同じくらいあったのですが、事件性が明らかでない場合、「急性心不全」というような病名をつけておしまい、ということが多かったのです。
 ところが、海堂作品が大ヒットし、テレビドラマや映画で「Ai(エーアイ)」が知られるようになって、(それまでも行われることはあったのですが)Aiが行われるケースはかなり増加したのではないかと思います。医者側からも、遺族に検査をすすめやすくなりましたし。
 病理解剖は遺体にメスを入れなければならず、家に帰れるまでに時間もかかるから、せめて画像診断だけでも、と。
 ただし、本当は病理解剖した方が良い、というケースも少なからずあるんですけどね。
 本当にそういう事例を全部病理解剖できるほど、病理にマンパワーが無い、というのも事実なのですが。
 それでも、「死因はわからないけれど、とりあえず事件ではなさそうだから急性心不全」というよりは、原因不明死に積極的にアプローチされるようになったのはまちがいありません。
 「原因不明死への対応」は、それまでも存在していた問題だし、それをアピールしていた人もいたのに、あまり大きく扱われることはありませんでした。
 それが、『チーム・バチスタの栄光』という「物語」になったことによって、「社会問題」として認識されるようになったのです。
 岩波新書で人々を「啓蒙」しようとしても、なかなか多くの人には浸透しない。
 それに対して、面白い「物語」には、「普通の人」や現実を動かす力があります。
 そういえば、奴隷解放運動につながったストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』も、「フィクション」だったんですよね。


 この新書を読んでいると、冲方さんの目のつけどころに、「ああ、こういう人が『物語』をつくっっているのだな」と感心せずにはいられません。

 たとえば『竹取物語』を考えるとするなら、「どうして竹なのか?」というところから振り返る必要があります。当時の竹といえば、たくさん自生していて、貧困層の人でも手に入れることができたものだと考えられます。そうであるなら、もしかすると竹取の翁は、現代でいえば空き缶を拾って生計を立てている人に近い存在だったのだろうか、とも想像されます。つまり、この話を現代に置き換えるなら、ホームレスに近い身の上の人が空き缶を拾って稼ごうとしていたら、空き缶の中からものすごい財産を生み出してくれる女の子が出てきたといった話だとも受け取れる。また、なぜ女の子なのかといえば、当時の日本では土地や邸宅を女性が受け継ぐことが一般的だったという考え方もあるので、財産を象徴する存在として男の子よりも女の子のほうが物語としてふさわしかったのではないか、といったことが考えられます。
 そういう想像力が働くかどうかで物語というものの受け取り方がまったく違ってくるわけです。


 『竹取物語』を読んで、「どうして竹なのか?」って考えたことがありますか?
 僕は「そういうもの」だと思い込んでいて、これまで、そこに疑問を感じたことはありませんでした。
 こういうディテールに妥協しないところが「プロ」としてやっていくためのスタンスなのかな、と。


 この新書を読むと、冲方さんの「大局観」みたいなものが伝わってくるんですよね。
 人生とか世の中を俯瞰する視点を持つことの重要性がわかるのです。

 人間は常にバランスを取ろうと努力をしているのであり、100%バランスが取れた状態にいることは一瞬たりともありません。自分はいま、ヤジロベエが真ん中でぴたりと静止しているようにして成り立っているのだ、と感じているとしたなら、それは錯覚です。自分は常に揺れ動いているんだ、という認識をもっておくべきです。
 いま自分は同様している、いま自分は緊張している、といったことに振り回されてしまう人は、自分は常日頃、静止していると思い込んでいるのです。動揺も緊張も、心の正常な動きであり、そんな事態は日常的に起きているはずです。人類の歴史といったことを考えるまでもなく、その人が生まれてから死ぬまでのあいだに毎日経験しているうちの一パターンに過ぎず、それをたまたま極端に意識してしまっているだけなのです。言い換えれば、自分が動揺しているとおののくのは、無理やりぴたっと静止しようとしているからで、人間は揺れ動くものだとわかっていれば、なんてことはないものです。


 ああ、この話、もっと若いころに聞いていれば……


 『天地明察』で、暦をつくった渋川春海という人物を主人公にした理由なども語られており、作家・冲方丁のファンには、大変興味深い新書だと思います。
 自分が「つくる側」にまわりたい、という人にとっても、参考になるところが多いのではないでしょうか。
 


付記:明日は『2016年本屋大賞』の発表です。
毎年恒例の『ひとり本屋大賞』2016年版は、こちらに書きました。
よかったら、読んでみてくださいね。

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