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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え! ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
アサヒスーパードライから、ビール王者の座を奪回せよ――地方のダメ支店発、キリンビールの「常識はずれの大改革」が始まった!
筆者はキリンビール元営業本部長。「売る」ことを真摯に考え続けた男が実践した逆転の営業テクニックとは?
地方のダメ支店の逆転劇から学ぶ、営業の極意、現状を打破する突破口の見つけ方!


大切なのは「現場力」と「理念」。
組織のなかでリーダーも営業マンもひとつの歯車として動いてしまうと、ますます「勝ち」からは遠ざかってしまう。そんなときこそ、「何のために働くのか」「自分の会社の存在意義は何なのか」という理念を自分で考え抜くことが、ブレイクスルーの鍵となる。必死に現状打破を求め続ける、すべての営業マンに送る本!


筆者が行ってきた改革の例
1.会議を廃止
2.内勤の女性社員を営業に回す
3.本社から下りてくる施策を無視
4.高知限定広告を打つ
5.「ラガーの味を元に戻すべき」と本社に進言……など


 うーむ、「奇跡」って言っても、日本の一地方、それも、人口が多いとも言えない、高知県での成功例って、そんなに自慢するようなことなの?


 正直なところ、そう思いながら、読み始めたのです。
 僕はビールは基本的に「キリンビール党」なのです。
 30年くらい前、キリン党だった父親が「キリンビールカープを応援してくれているから」と言っていたことがずっと頭にあって、「この店にあればキリンビールを」という方針です。
 父親には反発してばかりでしたが、これだけは、なぜかずっと「言いなり」なんだよなあ。

 世の中に必要とされているものだという確信はあるのに、なぜか市場が反応しない。ライバル社に侵食されて負けており、その流れを逆転できない。
 どうしていいかわからない苛立ちを、わたしは嫌というほどよくわかります。
 なぜなら、それはわたしがかつて直面し、悪戦苦闘した状況だからです。わたしが勤務していたキリンビール株式会社は1907年に誕生し、高度経済成長が始まる1954年に国内シェア1位の座に着きました。そこから長らく「ビースはキリン」という時代が続き、1972年からはシェア60%という王者の座を長い期間守ってきました。しかし、1987年にアサヒビール株式会社が「スーパードライ」を発売したことから、売り上げは急落します。結果、2001年にはシェア40%を割り込み、ほぼ半世紀ぶりにトップの座をアサヒビールに明け渡すことになりました。
 キリンがスーパードライの波に飲み込まれつつあった1995年に、45歳だったわたしは社内で代表的苦戦エリアといわれた高知支店に支店長として赴任しました。そして厳しい闘いの末、2年後には高知支店の業績は反転し、高知県においてアサヒビールからトップシェアの座を奪い返すことができました。


 この本には、著者の高知での奮闘の数々が紹介されているのですが、読んでいて痛感したのは、「商売というものに裏ワザはないのだな」ということでした。
 面白くないな、と思うほど、「当たり前のことを、当たり前にやる」ことの重要性が、繰り返し語られているのです。


 キリンビールは、ビール会社のなかで、長年60%以上ものシェアを誇っており、独占禁止法に引っかからないために「売れすぎないようにする」という時期もあったそうでs。
 まさに「殿様商売」だったんですね。
 社員たちは、ただ、注文を受け、配達さえしていればよかった。
 ところが、アサヒの『スーパードライ』の歴史的な大ヒットのおかげで、ビール業界の勢力図は、大きく塗り替えられることになりました。
 長年ラクをしてきたがために、「営業力」は低下し、新商品投入もうまくいかず……そんな八方塞がりの状況に、高知支店は追い詰められてしまったのです。
 しかも、高知は、キリンビールの各支店のなかでも、もともとシェアが低めで、難しい地域だとされていました。


 キリンも、指をくわえて見ているわけにはいかず、こんな手を打ったのですが……

 ようやく絞り込んだ施策である飲料店攻略に動き始めた1996年4月、逆風が吹きました。それもライバルメーカーの攻勢からではありません。
 日本で長年にわたりトップブランドであるラガービールの味が変わり、売り上げが急落したのです。
 まだスーパードライよりラガーのほうが売れてはいたのですが、スーパードライの勢いのすごさに危機感をもった本社が消費者意識調査をすると、ラガーには「苦い」「古い」といったイメージが強く、このままでは若い人たちが離れていくのではないかという結論が出ました。その弱点を補強しなければと、飲みやすさのある味覚への方向転換を決めたのです。広告も若者を意識したものに変わりました。
 2月の発売から最初の2か月こそ好調でしたが、その後、転がるように低迷していきました。これまでのラガーファンは「苦みもコクもなくなり、ラガーさしくなくなった。これなら人気のスーパードライにしようか」と言い、狙っていた若者や女性からは「ラガーが飲みやすくなったからといって今飲んでいるスーパードライを変えることもない」と判断され、狙いは外れました。当時マーケティングの教材にのったほどの失敗です。


 泣きっ面に蜂、というか、ブームに乗ろうとして、かえって中途半端になり、これまでのファンも失う結果になってしまったラガービール
 このときの「キリンの迷走」のこと、僕もなんとなく記憶に残っています。
 『美味しんぼ』では、「ドライなんてビールじゃない!薄い!」なんて批判されていましたが、世の中では「ドライの優勢」が続いていたのです。


 著者は、本社からの「左遷」のような扱いで、高知支社にやってきたのですが、そこで、この危機に遭遇し、スタッフとともにシェアの回復のために粉骨砕身するのです。


 現場で考え抜いた対策は、「積極的に顧客とコミュニケーションをとる」ことや「高知の人たちの地元愛に訴えるようなアピールをしていく」でした。

 営業マンがお客様の目線で自発的に考えるというスタイルが浸透し、さまざまな変化が現れてきました。
 それまで高知支店では午後5時半になると留守番電話に切り替えられていて、生ビールのサーバーの故障など、夜の営業時間に起きる緊急事態への対応もできていませんでした。しかし、いつの間にか、最後のひとりがオフィスを出るまで、留守電にせずに対応するようになりました。
 すると「夜に困ってキリンのオフィスに電話しても人が出る」という評判が立ち、キリンのサービスの良さや熱心さという情報が広がっていきました。
 また自然に情報が集まり始めるという現象も起こりました。
 たとえば、あるディスカウントショップに10ケース単位でスーパードライを買いに来るお客様がいる。どうも消防署員のようで、厳しいトレーニングや勤務のあとに飲んでいるらしい。そういう情報が入ると、すぐさま、消防署に出向き、熱心にお願いして、「わざわざ買いに出なくても、キリンビールならお届けします」と提案して、「じゃあ、今度からキリンにするか」となりました。
一歩一歩、お客様との接点の広がりが生まれてきました。キリンを応援してくれる人が目に見えて増えていきました。
 そして知り合いの数が増えていくと情報は連鎖し、加速度的に早く入るようになります。


 こうして、「人脈」や「サービスへの高評価」が広まることによって、キリンビールは、高知で「V字回復」を果たしたのです。
 それは、何か特別な秘策があったというよりは、サービス業としてやるべきことを、ひとりひとりのスタッフが理解し、率先してやっていった結果でした。
 こういうモチベーションをみんなに持たせることができるリーダーって、本当にすごい。
 みんな、わかっていてもなかなかうまくいかなくて、結局、「ここの土地柄ではダメだ」とか「この企業風土では難しい」って、「前任者と同じ」になってしまうものだから。


 ただ、これを読んでいると、サービス業を極めていくというのは、そこで働いている人にとっては「ブラック企業化」と紙一重という感じもするんですよね。
 夜中の電話が「つながる」ためには、それを受ける人が必要なのだから。
 この本を読んでいるかぎりでは、高知のスタッフたちは、仕事はきつくなっても「やりがい」を感じ、生き生きと働いていたようではあるのですけど。


 その後、著者は四国全体を統括する本部長から、東海地区本部長、そして、2007年からは代表取締役副社長兼営業本部長となり、2009年には、キリンビールにとっては9年ぶりとなるシェア1位奪回を成し遂げました。
 著者は言っています。
「闘いに必要なことは、高知支店ですべて学んだ」

 国際的なブランドビジネスをやっている他社の社員から伺った話しですが、海外で闘うにしても、やはりまず日本の地方のあるエリアで勝ち方を極めていることが非常に大事なのだそうです。そのエリアをよく見て、エリアの特性や住んでいる人、風土とか、チャネル全部ひっくるめて最も適切な正しい手を打って実績を上げることができた人間こそ、海外に行っても通用する。サウジアラビアに行っても、ドイツに行っても、そのエリアで最も適切な打ち手を自分で考えて実行することができる。そういう力量というのは国内のエリアのマーケティング、営業から養われるのだと。

 高知のときの話ですが、エリア広告を考える場合、お客様が飲んでいるアサヒをキリンに変えるにはどうしたらよいかと考えるわけです。「こっちの水が甘いよ」と誘うわけですが、これがことごとく失敗する。
 途中で考えを変えました。いくらキリンのほうがよいですと言っても聞いてくれないので、こうなったらそこはすっぱりあきらめ、今キリンを飲んでいる人たちだけを大切にする。その方たちにもっと喜んでいただくことだけに専念する、と考え方を変えてみました。そうすると、キリンを飲んでいる人の幸福度が相対的に高まり、水が高いところから低いところに流れるように、自然とアサヒからキリンに変わるのではないだろうか。
 これが正解でした。


 「こんな狭い舞台じゃ、自分の本領は発揮できない」と言うような人は、舞台が大きくなったからといっても、良い仕事はできないのです。
 逆に、ローカルでのやりかたは直接通用しなくても、そこにフィットしていくための試行錯誤という経験は、どこに行っても応用が効くのです。


 「所詮、高知支社の話だろ」と思っていた僕は、自分の未熟さを思い知らされました。
 まず、いま居る場所で、ベストを尽くすこと。それが大事、なんだよなあ。


fujipon.hatenadiary.com

【映画感想】シン・ゴジラ ☆☆☆☆☆

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あらすじ
東京湾アクアトンネルが崩落する事故が発生。首相官邸での緊急会議で内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)が、海中に潜む謎の生物が事故を起こした可能性を指摘する。その後、海上に巨大不明生物が出現。さらには鎌倉に上陸し、街を破壊しながら突進していく。政府の緊急対策本部は自衛隊に対し防衛出動命令を下し、“ゴジラ”と名付けられた巨大不明生物に立ち向かうが……。


www.shin-godzilla.jp



 2016年13作目の映画館での観賞。
 お盆明けの平日夜のレイトショーにもかかわらず、50人くらいの客入り。
 ネットでは盛り上がっているけれど、実際はどうかねえ、なんて思っていたのですが、やっぱり大ヒットしているんだなあ。


 旅行中、日本(というか僕の観測範囲内のブログ)は、この『シン・ゴジラ』の話題で大いに盛り上がっていました。
 ああ、僕も観たい……と思っていたのですが、自分の目に観る前に、あまりもたくさんの高評価やディテールに関する情報に接してしまったがために、日本に帰ってきたときには、なんかもう、いまさら観なくてもいいんじゃないか、という気分にもなっていたんですよね。
 ハンバーグをつくっているだけで、食べる前にもうお腹いっぱい、という感じです。
 結局、観たんですけどね。
 ネットでいろんな情報や評価接して、これだけハードルが上がってしまうと、なんだか粗捜ししてしまいそう、と不安ではあったのですが、結論からいえば、すごく面白かった。
 ただ、「会議ばっかりの映画だ」というような事前の予習がなければ、「何これ?」と思いながらも怪獣映画として収束していくこの作品を自分がどのように観たのかな、とか考えてしまいました。


 僕が『シン・ゴジラ』の予告編をみたとき思い出したのは、『巨神兵東京に現わる』でした。
 この短編は、『館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技』で公開されたもので、僕はその巡回展の最後になった熊本で観たんですよね。
 ちなみに、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVD(ブルーレイ)にこの『巨神兵東京に現る』も収録されています。
 この『巨神兵東京に現わる』は、綾波レイ役でおなじみの林原めぐみさんのナレーションで、巨神兵に破壊し尽くされる東京の様子を描いたものなのですが、なんというか、本当にただ「破壊される都市」を執拗なまでに映像化したものなんですよね。
 これを観て、「庵野監督は、なんかこう、徹底的に破壊する作品をつくりたいのかな」と思ったのです。
 そこで、この『シン・ゴジラ』。
 庵野監督は、ゴジラとともに、東京を破壊しつくすために戻ってきたのです。


 冒頭のシーンをみながら、僕は中学生時代に観て衝撃を受けた(というか、大笑いした)、ある動画を思い出していました。


DAICON FILM ダイコンフィルム 自主制作特撮 愛國戰隊大日本1


 のちに、この1982年につくられた自主製作の映像に、学生時代の庵野監督が特撮、メカニックデザインなどで関わっていたことを知り、驚きました。
 栴檀は双葉より芳し、というか、学生時代からここまでのことをやっていたのか、と。


 庵野総監督は、「特撮映画」が大好きで、その歴史を踏まえて、「わかる人のために」この『シン・ゴジラ』を撮ったようにも思われます。
 なんだか普通の会議室とか事務室みたいな場面が続き、専門用語だらけの会話に、そんなの言われてもわかんないよ、というような兵器の名前や登場人物の長い肩書きが、白くて太いテロップでクドいくらいに画面に登場してきます。
 こんな「特撮オタクの符牒だらけ」のような映画がこんなにウケているのか、と僕はけっこう驚いてしまいました。
 「戦車の名前なんて、どうでもいいじゃん」という人は、この映画に「ときめく」ことができるのだろうか?
 ちょっと気になったのは、この映画は、人々が『ゴジラ』の存在を知らない世界、という設定になっている、ということなんですよね。
 映画に対する好き嫌いはさておき、ほとんどの日本人は『ゴジラ』の存在を知っているはずですから、水中から未知の巨大生物が登場したときに、誰かが、「ああ、ゴジラみたいな?」って言うんじゃないかな、と。
 で、「そんなの現実にいるわけないだろ!」と笑っていると、水中から、ゴジラがドーンと!
 そのあたりは、けっこういろいろ考えた末に「フィクションとしてのゴジラも存在しないアナザー・ワールド」にしたのでしょうけど。


 この『シン・ゴジラ』で印象に残ったシーンというのは、「大きな災害に対策本部を設置するときも、その対策本部を設置するための会議をやらなくてはならない」という日本のシステムのめんどくささとか、会議室の椅子をスタッフたちが凄いスピードで並べていくところとかのディテールなんですよ。
 古ぼけた椅子とかカップラーメンとか、なんというか、リアリティがありすぎて、映画の中としてはすごく違和感があるというか、自主製作映画っぽいというか。
 ゴジラのCGにはかなりのお金をかけていそうなのに、人間側については、ひたすらリアルを追求したのか、予算がなくなってしまったのか。
 

 個人的に、いちばん観ていて感動したのは、進化したゴジラが東京の街を破壊し尽くすシーンでした。
 ああ、これはまさに巨神兵だ……
 怒り、憎しみとか悲しみとかの感情も持たず、ただ、ひたすらに「そこにあるものを破壊すること」に徹しているゴジラと、ゴジラに破壊されていく東京は、(不謹慎ながら)本当に美しい。
 このゴジラの破壊シーンとエンディングロール(+音楽)のためにDVDを購入しようと思っているくらいです。
 ほとんど「ゴジラに殺されている人」の映像を挿入していないのは、観客が「すべてが破壊される快感」に浸ることを邪魔しないためではなかろうか。
 

 「スクラップ&ビルド」という言葉が出てくるのですが、庵野監督は、日本も、そして自分自身も、「とにかく一度全部ぶっ壊してしまう」ことにしたように思われます。
 もちろん、現実でそうするわけにはいかないから、この『シン・ゴジラ』というフィクションのなかだけでも、そうすることにしたんじゃないかな。


 坂口安吾の『堕落論』より。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。


 本当は、『巨神兵東京に現わる』みたいな「救いようのない話」にしたかったのではないのかなあ。
 堕ちるのは、快感でもあるし。


 でも、庵野監督は、ギリギリのところで踏みとどまった。
 日本の手続きの煩わしさを批判する映画のように受け止められがちなのかもしれないけれど、そういう手続きに対して、必ずしも全否定している映画でもないのです。
 ある場面では「もう、東京の危機なんだから、そのくらいの犠牲は無視して攻撃しちゃえよ!」と観ながら思っていた自分を発見することになりました。
 そこで、「めんどうな手続き」があるからこそ、個人は、民主主義社会で「みんなのための犠牲」にされないで済んでいるのです。
 ただ、そこにはやはり、「決断の遅れ」というデメリットもあるわけで、そのジレンマのなかで、なんとか折り合いをつけていくしかない。


 あらためて考えてみると、あれだけ神々しいまでの「圧倒的な力」を持つゴジラに対しても、人類は対抗する手段を持っていないわけではないのですよね。
 それがあまりに犠牲が大きすぎる方法である、というだけで。
 「それ」は、ゴジラよりもずっと速やかに、そして効率的に東京を破壊し尽くすことができるのです。
 『ゴジラ』はフィクションだけれど、「それ」は現実に存在している。
 まあ、これはそういう「反○○」みたいな作品ではないというか、庵野監督の特撮愛が極度に反映されており、だからこそ、ハマる人はハマるのだろうけど。
 愛国心とか自衛隊の描写なども、それが制作側の「主張」なのか、単なる過去の特撮映画へのオマージュなのか、よくわからないんですよ(僕は後者ではないかと思っていますが)。


 「在来線爆弾」とか、「こういうのやってみたい!」と思ってたんだろうなあ、庵野さん。
 僕も「中二病的な特撮マニアマインド」が蘇り、観ながらニヤニヤしてしまいました。


 僕はいままで、『ゴジラ』シリーズって、あんまり面白いと思ったことがなくて、「日本が生んだ作品だからな」と「敬して遠ざける」的な付き合いをしてきました。
 でも、この『シン・ゴジラ』を観て、最初の『ゴジラ』をもう一度観てみたくなったのです。


 いくら名作とはいっても、1954年の映画を2016年に観て「これはいまの時代の話だ」と感じるのは難しい。
 『ゴジラ』は「あの時代に寄り添った映画」だった。
 にもかかわらず、あまりにもヒットし、伝説になったため、「普遍的なものを描いた作品」という解釈をされ、みんなが深読みをするようになってしまった。
 そして、『ゴジラ』は、シリーズ化され、これまでの形式に縛られることによって、どんどん古びていったのです。


 庵野監督は、すべてを押し流すような圧倒的な力によってもたらされた絶望と、それに抗う人々を描きました。
 どんなに酷い目にあってもあきらめきれず、同じようなことの繰り返しのなかで、往生際悪く少しでも前に進もうとする、それが人間の業。
 生きているかぎり、RPGのような「エンディング」を迎えることはできず、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すしかない。


 まったく違う作品のようだけれど、1954年の『ゴジラ』と2016年の『シン・ゴジラ』をリアルタイムで観た観客は、同じような感慨を抱いて、映画館を出ていく、そんな気がするのです。
 あらためて考えてみると『エヴァンゲリオン』も、そういう作品なのだよね。



 

【読書感想】コンビニ人間 ☆☆☆☆☆

コンビニ人間

コンビニ人間


Kindle版もあります。

コンビニ人間 (文春e-book)

コンビニ人間 (文春e-book)

内容(「BOOK」データベースより)
36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。


 第155回芥川賞受賞作。
 僕はこの『コンビニ人間』に、ある種の「共感」のようなものを覚えましたし、近年の芥川賞受賞作のなかでも、読みやすくて伝わりやすい傑作だと思っています。
 村田さん自身のコンビニでの仕事の経験が活かされていて、ものすごくリアルに感じるんですよね、コンビニという場所のディテールまで。

 チャリ、という微かな小銭の音に反応して振り向き、レジのほうへと視線をやる。掌やポケットの中で小銭を鳴らしている人は、煙草か新聞をさっと買って帰ろうとしている人が多いので、お金の音には敏感だ。案の定、缶コーヒーを片手に持ち、もう片方の手をポケットに突っ込んだままレジに近付いている男性がいた。素早く店内を移動してレジカウンターの中に身体をすべりこませ、客を待たせないように中に立って待機する。
「いらっしゃいませ、おはようございます!」


「たかがコンビニのバイト」だと思われがちな仕事だけれど、実際のコンビニには多種多様の業務があり、けっして単純労働ではありません。
 朝、常連さんたちとの適度な世間話を笑顔でこなしている店員さんたちをみるたびに、僕がコンビニで働くとしたら、こんなにうまく他人との距離を保つことができるだろうか?と思うのです。
 お客さんのなかには、けっこうめんどくさそうな人もいますしね。


 僕はこの主人公が「変な人」だとは思えなくて、読んでいてちょっとつらいところもありました。
 どうしてみんな、そんなに「恋愛」に興味がなくてはいけないのか?
 それは、僕自身もこれまでの人生で、ずっと考え続けてきたことだし、中高生の頃には、女子よりもテレビゲームや歴史小説のほうにワクワクしてしまう自分は異常なのではないか、と考え込んでいたのです。
 いまの世の中というのは、「草食化」なんて言われているけれど、人間にとっての娯楽や興味の対象がこれだけ多様化しているにもかかわらず、恋愛とか結婚は、どうしてこんなに「特別」なのだろうか?


 僕は「コンビニ人間」という作品には、「血が通っている人間」というステレオタイプな「人間らしさ」にうんざりしている人が描かれていると感じましたし(そもそも、「血が通っていない人間」なんていないよね、生命活動を維持しているのなら)、こういう「世間の価値観と自分が噛みあわないなかで、なんとか適応しようとしている人」を選評で「サイコパス」とか書いてしまう島田雅彦さんは「離人感」を体験したことはないのだろうな、と思ったんですよ。
 ただ、こういう「世間の価値観と噛みあわない人間を描いた小説」っていうのは、何も今にはじまったものではなくて(「コンビニ」という舞台は「現代的」だけれど)、僕は「ああ、これはカミュの『異邦人』だな」とずっと考えていました。
 まあ、異邦人の場合は、人を殺してしまったのだから、責められるのも当然ではあります。
 ところが、古倉さんは、具体的に「悪いこと」をしていないにもかかわらず、世界に居場所を見つけるのが難しかったのです。


 日頃、世間に毒を吐いたり、「自分は他人とは違う」と公言している人間が、いざとなると「常識や普通」を振りかざす光景を、僕は何度もみてきました。
 そして、自分と世間との「感性」や「価値観」のズレを自覚し、「悲しいから自然に泣く」のではなく、「こういうときは、一般的に『悲しむべき状況』だから涙を流す」というふうに、世間に「適応」してきた人たちも、僕の周りには少なからずいたのです。


 正直、主人公に対しては、「さすがにその男は『ありえない』だろう」と思いましたし、その関係についての周囲の反応も「誰も諌言しないのか?」と少し苛立ちを感じてしまったのです。
 それは、この作品のリアリティの欠如なのか、結局のところ、僕が「わかったような気になっているだけの凡人」であるだけなのか、ちょっとわからないのです。
 人間は歯車じゃない、と言われてきたけれど、案外、歯車でいるほうがいい、っていう人は多いのではなかろうか。
 文学とか芸術というのは、これまで、そういう「血が通っていない人たち」を冷遇し、異物として描いてきました。


 「コンビニ人間」は、もう、無視できないくらい、この世の中に存在しているはずです。
 歯車になること、システムの一部として機能することが快適な人に「もっと感情的になれ、セックスしろ、結婚しろ」という同調圧力を加えることが「正義」なのだろうか?


 これを読んで、『異邦人』を思い出したということは、結局のところ、カミュの時代から、「コンビニ人間」の生きづらさは続いていて、おそらく、そう簡単に解決するようなものではない、ということなんですよね。
 それでも、現在日本で進行している草食化、非婚化、少子化が、パワーバランスの劇的な変化のあらわれなのは間違いありません。
 「日本人」「人類」という枠組みで考えると、「よくないこと」なのかもしれないけれど、「コンビニ人間」の増加は、もう、止まりそうもないのです。


 古倉さんを「変な人」と屈託なく言いきれる人と、僕は友達になれそうもありません。
 でも、こういう人が身近にいたら、それはそれで「めんどくさい」とか思ってしまいそう。


fujipon.hatenadiary.com




こちらは随時更新している僕の夏休み旅行記です。

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