琥珀色の戯言

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エコ論争の真贋 ☆☆☆☆


エコ論争の真贋 (新潮新書)

エコ論争の真贋 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
エコを巡る論争は百家争鳴です。「温暖化は人間のせいではない」「そもそも地球は温暖化していない」という懐疑論は後を絶ちません。「リサイクルなど無意味」「レジ袋はどんどん使い捨てろ」など、エコ活動を嘲笑する論調も目立ちます。生物多様性の問題でも、先進国と発展途上国の言い分は相容れぬまま…。現在進行形の様々な論争を、科学者のフェアな視点から紹介・解説。

 しばらく前、3月の大震災前に読んだ本なのですが、紹介しようと思っていた矢先に震災が起こりました。
 あの大震災以前と以後では、原発をはじめとする「エネルギー政策」には劇的な転換がみられるだろうから、この新書の内容も、どこまで「通用」するのだろう?と僕は考えていたのです。
 Amazonのレビューも、けっして好意的なものばかりではありませんし。

 震災後、多くの科学者たちと、それぞれの「信者」たちによる「正しさ比べ」が行われているのですが、それを傍観していると、「本当はどれが正しいのか?」が、どんどんわからなくなってきました。
 そんななか、思い出してこの新書を読み返してみると、著者のバランス感覚に、少し安心することができたのです。

 人間のやることに、「絶対正しい」なんてことはない。
 それは、「エコ」も同じこと。
 この新書の内容を「盲信」する必要はなくて、「世の中には、こういう考え方もあるのだ」というのを知るだけでも、きっと、今後さまざなま情報の渦に巻き込まれながら生きて行くうえで、ひとつの参考にはなると思います。

 この新書の冒頭で、あの武田邦彦先生の「ペットボトルのリサイクル無意味論」について、著者は次のように分析・反論しています。

 ペットボトルはリサイクルの象徴になりましたが、これに対して中部大学の武田邦彦さんが2007年に『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)で、次の3つの理由をあげて「リサイクルには意味がないのペットボトルも燃やした方がいい」と指摘し、話題になりました。

(1)ペットボトルは収集されても、再利用されているのはそのうちのごくわずか。2004年には分別収集された24万トンのうち、再利用されたのは3万トン。残り21万トンはリサイクル施設からゴミとして出された。


(2)1本のペットボトルを作るのに必要な石油は重さにしてその2倍だが、リサイクルしてまた作るには7倍の重さの石油が必要である。リサイクルしないで、燃料として燃やしてしまった方がいい。


(3)新品のペットボトル1本を作るのに必要な費用は約10円だが、リサイクルにかかる費用は33.6円。費用が3倍かかっているということは、エネルギーも3倍かかっているということ。

 この本はベストセラーになり、また武田さん自身もテレビなどで何度も説いていたこともあるため、そう思っている人も多いようです。しかし、これが本当ならば、日本中で行われているリサイクルが無駄だということになります。本当にそうなのでしょうか。

「(1)」から考えましょう。
 環境省は、2004年度に分別収集された24万トンのペットボトルのうち、23万トンが再商品化された(再商品化率97パーセント)と発表しています。けれども武田さんが指摘するように、この数字は市町村が再生事業者に引き渡したペットボトルの量で、その先がどうなったかがよくわかりませんでした。武田さんは2008年の『偽善エコロジー』(幻冬舎新書)でも同じ指摘をしています。
 再生事業者に引き渡されたペットボトルは、その後どうなったのか。PETボトルリサイクル推進協議会の2010年度版年次報告書には、2009年度のデータが示されています。
 これによれば、国内で販売された飲料用などの指定ペットボトル56万トンのうち、44万トンが収集されました。収集率は78パーセントで、市町村が分別収集したものは29万トン、残り15万トンは「事業系ボトル収集」です。自動販売機の横に置かれている収集ボックスや、公共の場所、ビルなどで分別収集されたものが後者に含まれます。
 収集されたペットボトルは、およそ半分が国内で、残り半分が海外でリサイクルされました。そのためには、ペットボトルを洗浄した後、細かく砕いたフレークというものにします。そのフレークの生産量が国内で25万トン、海外で26万トンと推計されています。合計で51万トンになり、回収が確認された44万トンを上回ってしまいますが、確認できていない回収量が相当あるのでしょう。販売量の56万トンを分母に、フレークの生産量を分子にすれば、リサイクル率は90パーセントを上回ることになります。
 このデータは2009年のものですが、2004年に再利用されたものが3万トンにすぎないという武田さんの推定値は、過小評価ではないでしょうか。
 それでは「(2)」はどうでしょうか。
 1本のペットボトルを作るのに必要なエネルギーを得るために消費する石油の重さはペットボトル1本分の重さとほぼ同じです。原料に1本、燃料に1本ということで、武田さんがいうとおり2本分の石油が必要となります。
 ここまではいいとして、問題はリサイクルに必要なエネルギーです。
 国内で作られているリサイクル品の54パーセントは、卵パックやクリアファイルなどに加工される「シート」です。42パーセントは繊維になって、作業衣や手袋、自動車の天井材などに生まれ変わります。こうしたシートや繊維の原料を作るために必要な石油は、ペットボトル重量の5分の1〜6分の1以下にすぎません。同じ原料を石油から作るときの必要量よりも少なく、リサイクルで石油を節約できることになります。
 ペットボトルからペットボトルに再生されるものは、全体の1パーセントにすぎません。そのために必要な石油はペットボトル重量の半分からほぼ同量です。この場合でも、石油を節約できることは変わりありません。武田さんはリサイクルにかかった経費をもとにして必要な石油量をペットボトルの「7倍」と推定しているようですが、過大評価でしょう。
 最後は「(3)」です。
 リサイクルにかかる費用の多くは人件費です。実際に、ある自治体の収集費用の8割は人件費でした。同じ道のりを自分で自家用車を運転して移動するのと、タクシーで移動するのとでは費用は全然違います。しかし、その差はほとんど人件費であって、タクシーが自家用車の何倍もガソリンを消費するわけではありません。費用が3倍かかるからエネルギーも3倍かかるというのは、いささか乱暴な議論です。
 このように見ていくと、「ペットボトルのリサイクルは無駄」と言い切るのには、無理があるように思えます。

 僕もこの『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』を出版直後に読んだのですが、「なるほど!」と「でも、これ本当なのかな……」の間で宙ぶらりんの状態でした。
 でも、この新書での分析を読むと、少なくとも、武田邦彦先生の主張というのは、ペットボトル再利用のある一面を引き伸ばしてみんなに提示しているようです。
 ただ、この「(3)」については、「石油の節約のために、7倍の費用がかかることを受け入れられるか?」というのは難しいところですよね。
 「エコ」は人類の将来のために必要なことなのだろうけれど、まだ生まれてもいない「未来の人類」のために、「現在の人類」が、どこまでの負担を受け入れられるか?というのが、「エコ」の最大の問題点です。
「格差」の問題もあります。
 すでに「先進国」となっている国にとっては「環境や資源の保護」が重要であっても、まだ不便な暮らしを強いられている人たちにとっては、「自分たちだけやりたい放題やった挙句、他人には我慢を強いるのか!」と言いたくなるのは当然のことでしょう。

 そもそも「エコ」という発想そのものが「人類のエゴ」なんですよね。
 「エコは、資源の節約にはなっても、費用が余計にかかってしまう場合が多い」のも事実です。
 
 そして、「環境保護」の対象となるのはあくまでも「人間にとって都合の良い環境」なのです。
 この新書のなかでは、アフリカゾウについての、こんなエピソードが紹介されています。

 アフリカゾウがカリスマ動物であることに、説明は要らないでしょう。野生動物保護のシンボルとして、ポスターやロゴマークにも登場します。この偉大な動物は、象牙を求めるハンターの餌食となって数を減らしていきました。
 アフリカゾウには2つの生息地があります。ケニアやタンザニアなど中央アフリカと、南アフリカ共和国ジンバブエボツワナナミビアの南部アフリカです。このうち絶滅の危機にさらされているのは中央アフリカの個体群ですが、なぜそうなったのか。なんと、禁猟されたのが原因でした。禁猟されれば、象牙の価値は上がります。そのため担当官に賄賂を払って密猟する者が現れ、さらに密猟が横行するようになったのです。
 そこでワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動物の種の国際取引に関する条約)によって、1989年からアフリカゾウの国際取引が原則禁止されました。生きたゾウはもちろん、ゾウの体の一部であっても取引が認められません。象牙の輸出ができなくなったので、日本では印鑑、三味線のバチ、琴の爪などの製造が難しくなりました。
 日本の生産者ももちろんですが、この措置で一番困ったのが南部アフリカの人たちです。彼らにとって、象牙は外貨を獲得するための貴重な資源でした。ゾウは地域社会が管理し、決められた数の大人のゾウだけが殺されてきました。ジンバブエでは政府が地域社会にゾウなど野生動物の保護管理を委託してきました。ゾウの狩猟で得られた利益の一部は、地域社会に還元されてきたのです。
 南部アフリカでゾウの数が一定に保たれてきたのは、人間によって管理されてきたからでした。ところが象牙の国際取引が条約によって規制されると、ゾウは地元社会にとって何の価値も生み出さない、ただの有害動物になってしまいました。農地を踏み荒らし、時には家を倒し、人を踏みつけるゾウは、危険な野生動物です。そうなれば、地元の人たちがゾウを「駆除」しようと考えるのは自然のなりゆきでした。ゾウを保護するための規制が、結果としてゾウの数を減らしてしまったのです。
 南部アフリカ諸国の政府は、ワシントン条約におけるアフリカゾウの国際取引禁止措置を変更してほしいと、条約締結国会議で何度も提案を行いました。しかし、そのたびに欧米の自然保護団体が、南部アフリカ諸国の象牙の取引を容認すると、ゾウの密猟や象牙の違法取引・密輸が増えるなどとしてロビー活動を展開し、この提案をつぶしてきたのです。
 2006年になってようやく南部アフリカ諸国の主張が認められ、同地域の個体群に限り、管理の行き届いた日本への輸出が認められました。2008年には中国も条件を満たすことが認められ、2009年から日中両国に限って一定量の象牙が輸出されるようになりました。これで南部アフリカのゾウも、また大事に利用されることでしょう。カリスマ動物になってしまったために、かえって危機が高まった皮肉な例です。

 この話を読んでいると、個体としての力はともかく、種としての「人類」は、あまりにも強大になってしまっているのだな、ということがよくわかります。
「禁猟」されてしまったために、人間にとっての「価値」が薄れ、かえって絶滅の危機に瀕してしまうとは、なんと皮肉な話なのでしょうか。
 でも、氷河期がやってくるとか、太陽が燃え尽きるとか、巨大隕石が衝突するなんてことがなければ、当面は、こういう状態が続くはずです。
 そして、人類は、「自制」して生活環境を守らなければ、結果的には自分の首を絞めることになってしまう。
 「エコ」は、「地球にやさしい」のではなくて、「人類にやさしい」だけなのです。

 この新書には、きれいごとだけではない「エコの現状」が描かれていますし、著者は、エコは「道徳的に善である、とは考えていない」ように僕には思われました。

 外来種が近縁の在来種と交雑して雑種を作り、日本の在来種の「純血」が失われるからよくないという議論にも、わかりにくいものがあるでしょう。和歌山県では、人為的に持ち込まれたタイワンザルがニホンザルと交配して、雑種のサルが増えてきました。霊長類学の専門家がニホンザルの純血種がいなくなることを心配しているので、県はタイワンザルと雑種を安楽死させていますが、この措置に対しては賛否両論が寄せられています。
 和歌山県のサルが全部雑種になったら、それは同県のニホンザル個体群の絶滅と同義です。その代わり、和歌山には雑種が生息することになります。絶滅がなぜいけないのかはっきりとはわからないように、純血種がいなくなることがどれだけよくないことなのかという問いに対しても、誰もが納得できる答えを出すことは不可能でしょう。

「タイワンザル」や「雑種」だって、生まれてきたからには、「純血種」と同じ、1匹のサルであり、ひとつの命ではないのか?
 みんな「純血種」がいなくなることは悪いことだと言っているけれど、それは、何がいけないの?そして、どれだけよくないの?
 それは、いま生きている「雑種」を安楽死させてまで、守られるべきものなの?
 
 たぶん、こういう「読者にとっては、すっきりしないこと」を率直に書いているから、この本はそんなに話題にならなかったのだろうな、と僕は思います。
 でも、「わからないことを、ちゃんとわからないと書いてあること」って、すごく大事なんですよ。
 「エコ」に対する、盲信と全否定のあいだで書かれた、なかなか興味深い本だと思います。
 「みんながいろんなことを言っていて、何が正しいのかサッパリわからない」
 そんな人に、ぜひ読んでみていただきたい一冊です。

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