参考リンク:Business Media 誠:ちきりんの“社会派”で行こう!:“格安”商品の意味を考える
このエントリを読んでいて、10年くらい前、小林よしのりさんが、こんなことを書かれていたのを思い出しました。
(2002年の小林よしのり責任編集長「わしズム・Vol.3」(幻冬舎)より)
1個、59円という、ものすごい安さのハンバーガーが売られている。
なぜ、そんなに安くできるのか?
日本マクドナルドの藤田田社長は、その秘密を明かしている。
インターネットで全世界から牛肉、タマネギ、ポテトなどの価格を瞬時に調べて、一番安いところから大量に仕入れる、というのである。
世界で一番安い牛肉。
…それはどんな牛肉か想像したほうがいい。(中略)
今、少数の人たちが警告を発しているが、わし(小林よしのり氏)も良心にしたがって描いておく。
『生産地もわからない、世界でいちばん安い牛肉なんて、怖いと思うのが普通の人間の感性だ。』
いまはさすがに「59円」ではなくなりましたが、現在でも、あのハンバーガーの「安さ」には(セット販売などで、総合的に利益を出す戦略であるとしても)、違和感があるのです。
いやほんと、ハンバーガーとか牛丼とか安くなりましたよね、僕が子供だった30年前に比べたら。そんなに味が落ちているとも思えないのに。
いまは「牛肉」=「ごちそう」なんでイメージはないものなあ。
吉野家の「牛丼」は、「牛肉があの値段で!」という「価値」が、昔はあったのだけれども。
僕も高級料理ばかり食べているわけではありません。
ひとりで食事に行くときには、「ちゃんとした料理屋」よりも、「外食チェーン店」のほうが気楽だったりするものだし。
「安いものには理由がある」のは理解できるのです。
「安いもの=危ない」のではなくて、企業努力でカバーしている人たちもいるのだと思うし、そう信じたいのだけれど。
高級料亭でも、産地偽装や他の客の食べ残しの再利用が行われていたケースが知られています。
「安いものには理由がある」のは、よくわかる。でも、「高いから、ブランドものだからといって、安全とは限らない」
どっちも信頼できないものなら、安いほうでいいんじゃない?
そんなことも、つい考えてしまうんですよね。
もし、この世の食品の「安全性」や「味」が、すべて「価格」と正比例していたら、すごくラクなんだろうなあ。
その一方で、もしそうであれば、とても殺伐とした世の中になりそうな気がします。
内田樹先生がどこかで書かれていたのですが、いまの日本では「自分の能力や働きに比べて、給料が安い」と不満を持っている人の割合が高いそうです。
そのことに対して、内田先生は、こんなふうに仰っています。
「もし、労働者の待遇が完全に『能力や実績に正比例』していたら、大部分の人は、自分の能力の現実に打ちのめされることになるだろう」
「能力」は必ずしも待遇に反映されていない、という思い込み(そして社会的な同意)があるからこそ、多くの労働者は「俺はこんなに働いているのに、なんで給料が安いんだ!」と愚痴を言うことができます。
その人が、本当に言うだけ働いているのかどうかはさておき。
もし、「正比例の世界」であれば、それは「公正」ではあるのかもしれませんが、「自分の置かれた立場に、何も言い訳ができない世界」です。
あるいは、「給料の額だけで、その人の価値がわかってしまう世界」です。
多くの人がもらっている給料というのは、残念ながら「働き相応」なのですが、それに不満を言ってガス抜きできる社会のほうが、たぶん、「幸福」なのでしょう。
もし、食べ物の値段と安全性が、完全に正比例していたら?
実際は、全部の食品について統計的に解析すれば、「相関」はあるんじゃないかと僕は予想していますし、みんな、内心ではそう考えているはずです。
「高級料亭の偽装」は大きな話題になります。
でも、僕が大学時代に行っていた定食屋の紫蘇の天ぷらが魚臭くて、明らかに使い回されたものであっても、みんな「そんなもんだよな」と黙って食べていましたし、それが「世間を騒がす大スクープ」にはならないでしょう。
極論すれば、「食べ物の値段と安全性が正比例する世界」というのは、「貧乏人は、安くて身体に悪いものを食うのが当然」の世界なわけです(で、いまのアメリカって、そういう世界なんだよね恐ろしいことに)。
ちきりんさんが書かれているように「安い」のには理由があります。
もちろん、いわゆる「企業努力」(大量仕入れとか、途中のコストの軽減とか)による「良心的な安さ」っていうのもあると思うんですよ。
以前、こんな話を読みました。
ある人が、東京オリンピックの時代に、格安でヨーロッパ旅行をした。なぜ、その飛行機の運賃は安かったのか?
その飛行機は、ヨーロッパから日本へ、オリンピックに参加する選手たちを運んできた飛行機だったのだそうです。それで、帰りに空っぽで戻るのはもったいないから、少しでも収入になればと、格安で旅行客を乗せた。もっとも、当時の日本では「せっかく自国でオリンピックが開催されているのに、わざわざ外国へ行くなんて……と白眼視された」そうなのですけど。
「100円ショップ」のような「企業努力」もありますよね。
倒産する会社から、「少しでも現金化したい」という商品を超安値で仕入れて、100円で売る。
でも、みんなが100円でしか買わなくなると、いつの日か、その商品をつくるメーカーは全滅してしまう(あるいは、寡占になって、逆に高価になってしまう)ことになります。
そもそも、みんなが「安いもの」を求めるあまり、「安い給料で、安いものを売る人たち」ばかりが増えていくというのは、そんなに良いこととは思えません。
「値段と安全性が正比例している社会」というのは、ものすごくわかりやすいのだけれど、おそらく、「貧富の差がクリアカットにあらわれてくる社会」なんですよ。
お金があって、安全で美味しいものを選べる人はいいけれど、そうでない人にとっては、「わかっていながら、安くて危険なものを食べざるをえない」というのは、ものすごく残酷なのではないかなあ。
ある程度のお金がある人にとっても、「その人が、経済性と安全性のどちらを重視しているのかが、日常的に問われる社会」というのは、けっしてラクではないでしょう。
「値段と安全性が正比例しているとは限らない」と、みんながなんとなく思っているからこそ、救われている面はあります。
実際は、いま、この世の中だって、「お金と手間をかけたほうが、より安全な食品を手に入れられる可能性が高い」のだけれど、「そうではない例」があるから、多くの人は「なんとなく安心できる」というか「開き直ることができる」のです。
「正比例」じゃないから、難しい。
でも、「正比例」じゃないという「曖昧さ」によって、「厳しい現実」を直視しなくてすむという「利点」もある。
これからどうなっていくのかはわかりませんが、「不健康な食生活をしている先進国の人たち」は、それでも、「十分な衛生管理が行われていない途上国の人たち」よりもはるかに長生きですし、あんまり心配してもしょうがないのかな、と僕も思うんですけどね。
そういうのもまた「曖昧なイメージによる救い」なのかもしれませんが。