琥珀色の戯言

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【読書感想】男性論 ☆☆☆☆


内容紹介
古代ローマ、あるいはルネサンス。先進的な文明、そして数々の芸術作品を生んだエネルギッシュな時代には、いつも知的好奇心あふれる熱き男たちがいた――。
ハドリアヌスプリニウス、フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)、ラファエロ、そしてスティーブ・ジョブズ安部公房まで。確かな技術と壮大な空想力で時代の一歩先を読み、新たな次元を切り拓いた古今東西のボーダレスな男たちを軸に、『テルマエ・ロマエ』の作者・ヤマザキマリが語る想像力の在り処。

テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリさんの著書。
タイトルは『男性論』ですが、内容は「男性」にとどまらず、「女性論」「創作論」そして「日本人論」と、かなり幅広い内容となっています。


 この新書の冒頭で、ヤマザキさんは、『テルマエ・ロマエ』の創作のプロセスについて、こんなふうに仰っています。

 古代ローマ人にとって、お湯に浸かるのは生活の要でした。しかし現代のイタリアで、あるいはそのほかの国でも、湯船に浸かることはなかなか叶いません。浴槽の中で体を洗うという概念ではなく、リラックスのために湯船に浸かるという文化を持つのは、世界を見渡しても日本だけだと思います。『テルマエ・ロマエ』を描くことは言ってみれば、作者であるわたし自身が、海外にいながらにしてヴァーチャル入浴の心地を味わえる、格好の手段だったのです。
 しかも、家の浴室にせよ、温泉にせよ、銭湯にせよ、より快適なほう、便利なほうへと進化させてきたのが、創意工夫を得意とする日本人らしいところです。日本に暮らしていれば、当たり前と感じるかもしれないニッチな発明を、とりわけ風呂好きでは日本人に負けていない古代ローマ人が見たらどう感じるだろうか。そうした想像をたくましくしながら、『テルマエ・ロマエ』を描きました。
 ルシウスは、観察者です。日本式お風呂を、そして日本文化全般をじろじろと見つめては驚いて感動する。先ほどルシウスは古代ローマそのもの、と言いましたが、じつのところ、ルシウスはわたし自身でもあります。古代ローマの魅力にどっぷりつかっているわたしも現代の日本を、ちょっと距離をもって観察しているのです。

 この新書のなかで語られている、ヤマザキさんの半生を読んでいると、『テルマエ・ロマエ』という作品は、日本人であり、日本の文化にも愛着を持ちながら、古代ローマを学び続けているヤマザキさんだからこそ描けたのだな、ということがわかってきます。
 日本人にとっては、「お風呂」はあまりにも「当たり前のもの」でありすぎるし、多くの外国人にとっては「異質なもの」でありすぎる。
 ヤマザキさんの置かれた状況と、その観察眼があればこそ、あの作品は生まれたのです。


 この新書、タイトルは『男性論』で、ハドリアヌスプリニウス、フェデリーコ2世、ラファエロ水木しげるスティーブ・ジョブズなど、ヤマザキさんが魅せられたという「歴史に残る男たち」が紹介されています。
 「イイ男」も、長い人類の歴史の中からチョイスすれば、こんなにスケールが大きなものになるのか!と、圧倒されるばかりです。
 しかしまあ、これらの男性たちは、スケールの大きさと同時に「常人には理解困難な面」を持っている人たちでもあったわけで。
 ヤマザキさんは、自身の恋愛遍歴についても語っておられるのですが、「普通の男と普通の恋愛をするのが難しい」というのは、けっこう大変ではあるのだなあ、と痛感させられます。

 ハドリアヌスに始まり、プリニウス、フェデリーコ2世、ラファエロジョブズ安部公房水木しげるつげ義春など「ガロ」系漫画家、花森安治……。ここまでお話ししてきた、わたしの好きな男性たちは、こう並べてみると時代も国籍もばらばらです。抽象的でとりとめがなく見える。
 でもわたしのなかでは、一本ラインが通っています。ラファエロプリニウスジョブズ安部公房には顕著ですが、人文系と理数系、ふたつの要素がひとりの人間のなかで共存していること。即物的で現実的な側面を持ちながら、いかにして空想・イマジネーションの部分も背負っていけるか。この二面性が魅力となって表れているひとに惹かれます。
 そしてやはり、時代の趨勢や大多数の価値観から外れている自分自身を、ウジウジ悩まないどころか、武器にかえられるひとがいい。もちろん、傍若無人、勝手わがままに自分の流儀を押しつけよという話ではありません。その時々の世論や価値観を、相対化できるというのかな。多数派にただ流されるのをよしとしない、気骨というのか。
 ボーダレスなセンスをとことん楽しめる。
 時代の変化を敏感に読み取る直感力と、空想を具現化できる技術を持っている。
 わたしはこれぞ「男子の魅力」と思うのです。


 僕がこの新書のなかでとくに興味深く感じたのは、ヤマザキさんが、自らの「創作のルーツ」について語っているところでした。
 絵画好きの母親の影響で、絵に興味をもったヤマザキさんには、こんな「試練」が与えられました。

 おのずと、絵描きになりたいという夢を抱いたわたしは、あるとき母にそう言ってみたことがあります。すると母はまだアニメーションになる前だった『フランダースの犬』の児童書をわたしに手渡し、「絵描きになるというのは、こうやって貧乏で死ぬ可能性があるということだけど、それでもいいのね」と、脅してきた。母自身、オーケストラに所属するヴィオラ奏者という音楽家でしたので、芸術で食べていくことの難しさを、はやくから娘に自覚させたかったのでしょう。しかしいくら脅されても、気持ちがやむことはなかったです。
 それからあと、小学校に入ってすぐだったか、母親から子どもへ手紙を書いて送るという学校の企画がありました。母も書いてくれたのですが、そこには、「うちの子は絵描きになると言って聞きません。本人の夢である以上、こちらは黙って見守るしかない」といった内容が書かれてあって、なんとなくわたしの夢を認めてくれたのかなと、うれしく思いました。

ただでさえ、子どもにとってはトラウマになりそうな『フランダースの犬』攻撃とは……
そのハードルを越えたあとは、「もう黙って見守る」ことになったとはいえ、「それでも絵描きになる」意志を曲げなかったヤマザキさんは、本当にすごい。
僕だったら、あのラストでのネロに自分がなってしまうかも……と想像するだけで、「やっぱりああなるのは辛すぎる。パトラッシュもかわいそうだし……」と尻込みしてしまったはず。


あと、レビューの国民性、という話もかなり興味深いものでした。

 いわゆるレビューにも、そんな側面があります。わたしはあまり精神状態によくないから見ないようにしていますが、たとえば『テルマエ・ロマエ』のアマゾンレビューなど見てみると、わたしの作品に限らず、様々な方たちの作品に対してもボロカスに批判したと思うと、今度はそれに対してわたしではないほかの誰かが反論を展開し、また援護射撃が繰り広げられる。匿名ゆえなのか、作品レビューという役目を外れて、ちょっとした自己顕示欲の競い合いの様相となったりしているわけです。
 ちなみにイタリアで『テルマエ・ロマエ』が刊行の運びとなったとき、ユーチューブにこの漫画のレビューがたくさんアップされたことがありました。ユーチューブなので、それらは動画です。なんらかの批評をしたいと思った人が自分の姿を顔ごと映して「皆さんこんにちは、○○です。僕、これ読んだんですけど、云々かんぬん」と喋っている。「まあまあおもしろいけど、やっぱりイタリアの歴史についてはイタリア人が描けばいいと思うんですよ」とか言うようなことをプロの評論家のようにズバズバ喋る。
 そしてわたしも「ま、別にこんなに堂々と批判されるのなら何を言われても許せるな」、と思えてくるのです。なぜならそれはその人の精神的な不純物の混じった質の悪い悪口などではなく、イタリアでは日常で普段取り交わされているような、当たり前の「読んだ本」を通じてのコミュニケーションに他ならないからです。

 こうやって、匿名でレビューを書いている僕にとっては、耳に痛い話ではあるのですが、同じネットでの「レビュー」でも、こんなに国民性の違いが出るものなんですね。
 日本では、顔出し・動画でレビューをやったりしたら、すぐに身元を調べられて「反対派」のユーザーから嫌がらせをされたり、「自己顕示欲強すぎ」と貶されると思います。
 「匿名でレビューできる」というのは、必ずしも悪いことばかりではないはずなのですが、作者の側からすれば、「不公平じゃないか」と言いたくなるのもわかります。


 これを読むと、「作品というのは、それを描く人間を反映しているものなのだな」ということが、伝わってきます。
 ヤマザキマリさんの作品、そしてその人柄に興味がある人には、オススメできる新書ですよ。

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