琥珀色の戯言

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【読書感想】ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
大ヒット漫画『テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリを、ただ古代ローマと風呂が好きなだけの漫画家だと思ったら大間違い。実は一七歳で単身イタリアに渡り国立美術学校で美術史と油絵を学んだ筋金入りの美術専門家なのだ。そんな彼女が初の美術論のテーマに選んだのは、偏愛する「ルネサンス」。しかしそこは漫画家。あの大巨匠も彼女にかかれば「好色坊主」「筋肉フェチ」「人嫌い」と抱腹絶倒のキャラクターに大変身。正統派の美術論ながら、「変人」をキーワードにルネサンスを楽しく解読する、ヤマザキ芸術家列伝!


 「これからイタリアに行こうと思っているのだけれど、あまり絵とかに興味ないんだよね。宗教画なんて、みんな同じに見えるし、まあレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』くらい見ておけば良いんじゃない?」
 もしあなたがそういう人で、せっかく行くのだから、イタリアでの滞在を楽しみたい、というのであれば、この新書を手にとってみることをおすすめします。


 僕自身は、描くほうはまったくダメなのですが、絵を観るのは好きなので、多少は学んでいるつもりなのですが、そういう「美術館に飾ってあるような絵に対する知識」って、どのあたりが入口なのか、よくわからないところがありますよね。
 このヤマザキマリさんの「ルネサンス論」は、某テレビ番組風にいえば「美の変人たち」のことを愛情をこめて紹介したもので、彼らの代表作もカラーで紹介されていて、僕にとっては大変興味深いものでした。


 ただし、ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロの「ルネサンス三大巨匠」のような「メジャーどころ」を教科書的に詳しく知りたい人向けではなく、「ルネサンスについての大まかな『流れ』を知りたい」とか、「ちょっと変わった画家の話も聞いてみたい」「実際に絵を描く人にとってのルネサンス美術とは、どういう位置づけにあるのか」というような興味に応えてくれる内容になっています。


 へえ、あの時代には、こんな人もいたんだ、面白いな。
 そういう感触を、何度か味わえる本、なんですよ。

 アヴァンギャルドな現代美術に比べると、ルネサンス美術は、どこかお行儀のよいアートのように思われる人が多いかもしれません。でも、それは誤解です。
 中世という、文化的・精神的な価値が見失われていた時代の中にあって、喪われつつあった古代ギリシャ・ローマの記憶を手がかりに光を投げかけ、人間性の「再生」を果たしていったルネサンスという文化運動は、決して生易しいものではありませんでした。はじめから決まった道があったわけではなく、偏屈で社会性がなかったり、規格外の考え方や生き方をした多くの「変人」たちの努力が積み重なり、その結果として生まれてきたものなのです。


 ヤマザキさんは、この本でいちばん最初にフィリッポ・リッピという画家を採りあげています。

 ルネサンス以前の中世キリスト教絵画の基本は、「イコン画」と呼ばれるものです。イコン画の聖母子像では、赤ん坊はあくまでも「キリストを意味する記号」として、とくに可愛げもなく描かれます。ところが、フィリッポ・リッピの描く赤ん坊ときたら、ものすごく「乳くさい」のです。いまにい「ブブーッ」という声が聞こえ、動き出しそうに思えるほどリアルだったのです。
 この絵の赤ん坊も、それほど愛らしい顔をしているわけではありません。むしろブサイクとさえいえるかもしれません。でも、誰がみても間違いなく、「これは赤ん坊だ」と分かります。フィリッポ・リッピはモデルの赤ん坊を、とてもよく観察していたに違いありません。それだけ長い間みつめていたのは、その子を心から愛していたからでしょう。
 それもそのはず、この絵のモデルはフィリッポ・リッピの妻ルクレツィアと、二人の間の子フィリッピーノだといわれています。自分の愛する者たちをモデルにした「聖母子像」によって、フィリッポ・リッピは画家としての名を成したのです。
 当時は女の人の絵を描こうとしても、聖母マリア以外が題材とされることはごく稀でした。世俗的な人物を描いた「肖像画」というジャンルは、フィリッポ・リッピの時代にはまだ一般化していません。彼に絵を注文するパトロンたちも、信仰の対象となる宗教画を欲しがりました。
 そんな時代にフィリッポ・リッピは、「これは聖母子像だ」と言いはって、ひと目で市井の女性だと分かる人を描いてしまったのです。


 この本に収録されている、フィリッポ・リッピが描いた赤ん坊は、たしかに、「乳くさい」のです。
 でも、美術館でこの絵を予備知識なしで観たら、僕にはたぶん「ふーん、こんな絵があるのか」としか思えなかったはず。
 絵が信仰のための道具であり、人間を瑞々しく描くことが「非常識」だった時代に、こんなふうに「人間を人間らしく描く」というのは、すごく革命的というか、「異端」だったのです。
 当時の人は、「フィリッポ・リッピは正気なのか?」と疑ったかもしれません。
 今からみたら、それ以前の宗教画のほうが「生命を感じさせない、つまらない絵」のように感じられてしまうのですが。
 ちなみにこのフィリッポ・リッピという人は、修道士でありながら若い修道女に一目惚れし、すったもんだの挙句に還俗(僧籍を抜けて、一般人になること)をして、その修道女・ルクレツィア・ブーティと結婚したそうです。
 当時のイタリアに『週刊文春』がなくてよかった。
 そういう人が描いた絵の、生命を感じさせる瑞々しさに、人々は魅了されていきました。
「禁忌」だと思い込んでいたことは、やってみたら、案外多くの人に受け入れられたのです。
 でも、そういう作品を発表することは、やっぱり「変人」じゃないと、できなかったんじゃないかな。


 パオロ・ウッチェロという画家は「バリバリ理系の『変人』画家」と紹介されています。
 彼の代表作のひとつ『サン・ロマーノの戦い』(ウフィツィ美術館所蔵)について、ヤマザキさんは、こう解析しています。

 この絵はルーヴル美術館とロンドンのナショナル・ギャラリーにある他の二枚とあわせて一つの作品となる、戦争を描いた大作ですが、槍がたくさん直立している感じや馬の描かれ方をみても、戦争につきものの躍動感やダイナミックな動きが感じられず、不思議に感じました。
 この絵に対する疑問から、私のウッチェロへの興味は始まったのです。
 はじめはマンテーニャが描いた天使の絵のように、「この人は馬が蹴り上げているところを、後ろ側から描きたかったのかな」などと思っていたのですが、よくみているうちに、これは「一点集中法」という遠近法(透視図法)に違いないと、ハッと気がついたのです。
「一点集中法」とは、絵の中に消失点と呼ばれる架空の点を置き、そこに向かって直線が集まるように構成することで、遠近感を表現するものです。そう考えてウッチェロのこの絵をみると、たしかに左側に集まっている兵士たちの「槍」の立ち方は、左下に消失点が置かれていると考えればピッタリくるのです。
 おそらくこのときのウッチェロは、戦争画を描くというテーマより、「遠近法」という技法の効果を試すことのほうに、はるかに強い関心があったに違いありません。
 この発見以来、私はウッチェロの描く絵がどれも気になってたまらなくなりました。


 実際にこの絵を観ていただくと、ここでヤマザキさんが仰っていることの意味が、わかりやすいのではないかと思います。
 左側の兵士たちが持っている槍をたどっていくと、たしかに、左下に「消失点」が置かれているように見えます。


参考リンク(1):『サン・ロマーノの戦い』(ウフィツィ美術館所蔵)
 

 また、「ひたすら構図にこだわった『変人』」として紹介されている、アンドレア・マンテーニャさんの作品には「こんなのがあったのか!」と驚かされました。

 さて、この人の絵の面白さは、とにかく絵の「構図」にこだわったことです。
 マンテーニャの絵でいちばん有名なのは、マントヴァドゥカーレ宮殿「夫婦の間」にある『天井画』でしょう。
 この絵は、天井から大勢の天使や人物がこちらを覗き込んでいるという、これまで誰もやらなかった独特の構図で描かれています。こんな大胆な構図で天使たちを描いたマンテーニャは、「遊び心」にあふれた人だったに違いありません。だからこそ、私は彼を漫画の主人公にしてみたいのです。
 この天井画を細かくみていくと、さらに面白いことが分かります。
 例えば右上にいる天使だけは、お尻をこちら側に向けています。たぶんマンテーニャは、「天使のお尻をこの角度から描いてみたら、ものすごく面白いんじゃないか」という思いつき一発でこの天使を描いたのでしょうが、これをみて私は心の底から感動しました。
 マンテーニャはひたすら視点の取り方――いまでいう「カメラワーク」――や構図の面白さにこだわり、ありとあらゆる角度で人を描いた画家でした。ルネサンスの時代は、誰もが自由な精神を発揮した、いわば「なんでもあり」の時代です。でもこんな絵は、彼の他には誰一人として描いていません。


参考リンク(2):マントヴァのドゥカーレ宮殿「夫婦の間」にある『天井画』


 今のように、画像作成ソフトですぐにつくれる時代ならともかく、この「限りなくネタっぽい絵」を、時間をかけて描きあげていったマンテーニャさん。
 ほんと、世の中にはいろんな人がいる(いた)ものだなあ、とニヤニヤしてしまうのです。


 「変人」たちを通じて、「血の通った『ルネサンス』」を感じることができる新書だと思います。
 「偉人」と「変人」って、紙一重というか、歴史をつくるような人は、多かれ少なかれ、「その時代の常識にとらわれない」のだよなあ。
 

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