琥珀色の戯言

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【読書感想】自分でつくるセーフティネット ☆☆☆☆


自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~


Kindle版もあります。僕はこちらで読みました。

内容紹介
ITジャーナリスト・佐々木俊尚氏による、まさかのビジネス戦略! 国と会社が守ってくれる時代は、もう終わり。 「ビジネス強者」になれない私たちが生き残るには……。 リストラされても、お金がなくても、会社がなくなっても ゆる~いつながりがあれば、誰かが助けてくれる!
もはや、お金や会社の名前、肩書きだけでは、セーフティネットにはならない。 これからは「善い人」が信頼されるネット人格の時代です。 SNSでゆる~くつながる「最強の生存戦略」とは?


佐々木俊尚さんが書かれた、「SNS時代の生存戦略の本」というのを聞いて、僕は「SNSでの自己アピールの方法」とか「ネットで人気者になって、世の中をうまく渡っていこう!」みたいな内容なのかな、と思っていたのです。


津田大介さんの『動員の革命』という本のなかに、積極的にブログで「震災の被害情報」を発信していた長野県栄村が、もっと被害の大きな町よりも多くの寄付を集めている、という事例が紹介されていました。

これは、「成功例」として採り上げられたのですが、「もっと被害の大きな町」の立場からすると、なんともやりきれないものがあるはず。

「なんで、ウチのほうが被害が大きいのに、ネットでの『プレゼンテーションが上手い』という理由だけで、寄付に差ができてしまうんだ?」

こういう、「腑に落ちない感じ」というのを、僕はずっと抱えているのです。


ネットは機会をより均等に近くするのかもしれないけれども、そこにあるのは「公平な救済」ではなく、「プレゼンテーション能力の競争」なのではないか、と。


そういう、「上手なプレゼンテーション術」みたいなことが書かれているんじゃないか、と思いながら読み始めたのですが、そうじゃなかった。
この本、これまでの佐々木俊尚さんの本のなかでも、一番じゃないかと感じたくらい読みやすくて驚きました。
話し言葉で書かれていて、なんだか「居酒屋のカウンターで、佐々木さんとサシでざっくばらんに話しているような気がしてくる」のですよ、読んでいると。


「ネットを使って、世の中をうまく渡っていくには、こうしなければならない!」なんて、「意識高い調」ではなくて、「みんな炎上とか個人情報とか心配ごとは多いだろうけど、SNSで変わる世の中って、そんなに悪いものじゃないんだよ、むしろ、『いいひと』が生きているうちに評価される、わりと生きやすい世界なんだよ、だいじょうぶだから」と、語りかけられ、勇気づけられていくのです。


僕はどちらかというと、「ネットで世界でつながることのリスク」に目を向けがちで、「ネットで向けられる好意」に対しては懐疑的です。
でも、最近たしかに「風向き」が少し変わってきたんじゃないか、とも感じていたのです。
何年も発信を続けているうちに、なんとなく、前ほど酷い罵詈雑言を浴びせられることがなくなってきた気がします。
「こいつはもう、何を言ってもムダだ」と、めんどくさい人たちが諦めてくれたのかな、と思っていたのですが、「ネットがみんなのものになるにつれ、不作法な人は居心地が悪くなるような環境が生まれてきた」のかもしれません。
「相互監視社会の恐怖」についても考えてしまうのですが、佐々木さんは、その不安についてこう述べておられます。

 自分の人間性をさらけ出すと、自分は信頼を得られる。実はインターネットって、こういう「交換」が得意なシステムなんですよね。フェイスブックだけじゃありません。たとえばアマゾンとかグーグルを考えてみえください。アマゾンでいろんな買い物をしていると、わたしが何を買ったのかという情報がアマゾンに溜め込まれて、それがさまざまに再利用されます。アマゾンで本とかDVDを買うと、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とお勧めが表示されますよね。多くの人の買い物の情報をアマゾンが溜め込んでるから、そういうお勧めができるわけです。グーグルだって、どんなことばを使って検索エンジン使ったのかとか、Gメールでどんな内容のメールを友人に送ったのかとか、そういう情報はすべて再利用されています。それを「プライバシー侵害だ!」と怒るのも自由ですが。そうやってプライバシーを明け渡して自分の情報を提供するかわりに、自分にとっても有用な情報を見返りにもらっているということなんです。つねにそれは「交換」なんですよね。一方的に奪われてるわけじゃない。
 ネットでプライバシーをさらけ出すというと、「監視社会」みたいなイメージで非難されることが多いんですが、国家権力がこっそり監視しえるんじゃありません。それは昔のSF小説ですよ。そうじゃなく、みんな、自分から情報をフェイスブックツイッター楽天に渡してるんですよ。見られるのが嫌だったら、提供しなければいい。ネットをやめるっていう方法だってありますよね。でもやっぱりネットはやめないし情報提供もやめてないってのは、それによるメリットを内心、みんなどこかで認めてるからじゃないでしょうか。
 だから誰も欲しなければ、ネットで何でも見えてしまうような社会はきっと、生まれてこないでしょう。でも現実にはそうじゃなく、みんながプライバシーをさらけ出す方向に少しずつ進んでいます。

もちろん、プライバシーをさらけ出すことには「不安」もあります。
それでも、「お互いがどんな人間か、SNSなどである程度推測しやすい社会のほうが、トータルでは『生きやすい』と、多くの人が判断している」ということなのでしょう。


 このあと、佐々木さんは、「ある層の人びとから情報を遮断するために利用される個人情報」について言及されています。
 本当に怖いのは、「お金がないから」「理解できないから」というような理由で、「黙殺」される人びとがいる社会なのではないか、と。


 ネットで、それぞれの人の行動が「可視化」されるというのは、けっして悪い面ばかりではないのです。
 ネット上に書かれる「悪意に満ちた発言」について。

 そして、これは有名人だけの問題じゃない。会社の同僚とか上司とか、学校の友人とか、さらには街ですれ違った見知らぬ人同士だって、その人の悪口をこっそり言ったつもりでも、ふつうに本人にあからさまに伝わっちゃうようなことが起きてるんですよ。
 これこそが、すべてが丸見えになる総透明社会。悪意も嘲笑も、全部丸見えの透明になっちゃうんですね。
 悪口を言われたほうは、たまったものじゃありませんよね。陰口をたたかれるのも嫌なものですが、それが陰口じゃなくて面と向かって言われるようになっちゃうと、精神的なダメージはもっと大きいでしょう。

 「陰でコソコソ言わずに、直接言えよ!」って、思う人は多いんじゃないかな。
 でも、実際に言われてみると、「うーむ、聞こえないように、陰で言ってくれていたほうがよかった……」なんて、落ち込んだりもするのです。


「可視化された社会で、悪口を言うこと」は、諸刃の剣でもあるのです。

 でもね、見方を変えてみましょう。悪口を言ったほうは安全な場所にいると思いますか? 上から目線で他人の悪口を言って、それでうさを晴らしたとしたら、あとはすっきり忘れられる?
 そんなことはないですよね。たとえばあなたの近くにいる人、たとえば会社の上司が、仕事場では真面目で通っている人なのに、ある日その人のツイッタ―を覗いてみたら、誰かに対する呪いのことばみたいな悪口を延々と言い続けている。うひゃー、こんな人だったんだ! もうそれだけで、翌日からこの上司さんへの見方が変わっちゃうんでは。
 信頼している人が、安倍首相に「下痢ピー」なんて言ってたらどうでしょう。自民党を支持してるとか支持してないとかって政治の立場のことなんかより先に、「ああ、この人は病気に理解がない人なんだなあ」と思われてしまう。

 他人を攻撃している人の姿もまた、みんなに「見られている」のです。
 相手がどんな困った人であっても、他人を口汚く罵っている姿というのは、「良心的なフォロワー」は好まれないのではないかと思われます。
 まあ、わかっていても、反撃せずにはいられない、というときもあって、僕も「これは、戦略的には好ましくないのはわかっているのだけれど……辛抱できん!」ということがありました。
 今後も、絶対にない、とは言い切れないというか……

 総透明化社会では、自分の善い面をちゃんと出して生きていくのが大切。だからこそ見知らぬ人とも信頼しあえるし、将来に役立つ弱いつながりもつくれる。昭和の昔は、「善い人」ってのは、単なるお人好しで損する人だっていうようなイメージもありました。でも自分の行動が丸見えになってしまういまの時代には、善い人のほうが最後には必ず人生で得をするようになってきた。これはすごい変化ですよね。他人に寛容になり、他人に与える、そういう善い人を目指すことが、いまや道徳でも宗教でもなく、わたしたちの生存戦略になっているんです。

 もちろん、「名無しさん」としての、一過性の発言などはカウントされませんが、フェイスブックやツイッタ―、ブログなどで、特定のアカウントを使用して継続的に発信している場合、その積み重ねで「信頼」を得やすくなってくるのです。
 フェイスブックでの「友達の顔ぶれ」をみるだけでも、ある程度、信頼度を推し量ることができる。
 逆に、ネットの言動によっては、「この前会ったときには優しそうな人だったけど、こんなに攻撃的な面があるのか……」と敬遠されることもありそうです。


「ネット上の人格なんて、いくらでも偽ることができるじゃないか」
 僕もそう思っていたんですよ。
 でも、その点について、佐々木さんは、こんな言葉を紹介しています。

 しばらく前に、有名なインターネット企業サイバーエージェント藤田晋社長が、自分のブログに「ネットはごまかしのきかない丸裸メディアなんですよ」って書かれていたことがあって、わたしは「そうそう、その通り!」と膝を打っちゃうぐらい同意しました。ちょっと紹介しましょうね。
 「ちょっと前に社内で飲んでいる時に、『ネットでは性格悪いけど、実際会うといい人いるじゃないですか』『逆に、ネットでいい人そうに見えるけど、実際には悪どい人もいますよね』と話すプロデューサーに対して、『それは絶対にないよ』と断言しました。
 「性格の悪い人は悪いように伝わって、いい人ぶっている人はいい人ぶっているように、本人は気づかなくとも、そのまんま伝わります。本人も無意識のうちに、投稿内容にも内面が現れます。ネットでは印象の悪かった人だったけど、会うと良い人だったというのなら、むしろリアルの場のほうを疑ったほうが良いでしょう。
 「ネットで本性は絶対に隠せないのです。『全てバレてる』。ネットに投稿するならそう覚悟を決めて、自分をありのまま、等身大で使うことがとても大切だと思ってます」
 いや、書き写していてまたも膝を打っちゃいましたが、本当そうですね。

 実際、1時間会って会話した印象と、ネット上での他者との何年間ものやりとりの積み重ねを比べてみれば、前者のほうが「取り繕う」のははるかに簡単なんですよね、考えてみれば。


「等身大の自分でいること、なるべく『いいひと』であるように心がけること」
「いいひと」であることが、周囲の信頼を生み、セーフティネットになっていく。
 SNS時代って、案外、「良い時代」なのかもしれませんよ、「普通の人」にとっては。