琥珀色の戯言

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【読書感想】処女神 少女が神になるとき ☆☆☆


処女神 少女が神になるとき

処女神 少女が神になるとき

内容紹介
慈愛と破壊、母性と処女性……相反する属性を宿す生き神クマリ。
人々を救い、国王をも跪かせる霊力を持つという処女神の全貌とは?


少女がダライ・ラマのように転生するという、ネパールに実在する生き神・クマリ。今なお人々に崇敬されるこの処女神の実態に迫り、その源流をたどりつつ、日本の観音菩薩にも繋がる大女神信仰の系譜を解き明かす。謎の探究と旅の記憶が交錯する、知的興奮の書。


〈もちろん、「人間が同時に神である」とは不条理な言説である。しかしながら、彼女ら一人ひとりの力によって、いかに多くの人々が救われてきたかをも考慮しなければならないだろう。いまこそ逆に、それを持たないわれわれの社会の不幸についても議論すべき時期なのではなかろうか??〉[本文より]


 タイトルだけみると「何の本?」という印象を持たれるかもしれませんが、これは、宗教人類学者・植島啓司さんが、長年のフィールドワークに基づき、「クマリ」というネパールの伝統的な「生き神」と、その宗教的な変遷、そして、日本の仏教などにも繋がってくるという考察をまとめた、極めて学究的な本なのです。
 とはいえ、ガチガチの研究書、というわけではなくて、ネパールの文化とか、現地の人々の暮しぶりなども書かれているんですよね。
 正直、固有名詞も「マチェンドラナート」とか「カルナマヤ」とか、耳慣れないものばかりで、読んでいて、誰が誰だかこんがらがってしまったりもするのですが、古代の神話の成り立ちや、仏教ヒンドゥー教などに興味がある人にとっては、かなり興味深い一冊だと思います。
 ただ、僕自身は、このジャンルにそれほど興味があったわけではなく、『偶然のチカラ』の(そして、昔『月刊優駿』にエッセイを連載されていた)植島先生の「本来の仕事」の本ということで、手に取ったというのが率直なところです。
 

 著者が「クマリ」にはじめて出会ったのは、1982年のことだったそうです。

 最初は小さな謎だった。
 1982年9月、ネパールの首都カトマンズでインドラジャトラという大きな祭りに出合ったことがあった。暑い日差しのもと、国王をはじめとして各国の大使などが旧王宮のバルコニーに勢ぞろいする前を、一人の少女が出し(ratha)に乗って通り過ぎていく。国王らは手にコインを持ち、彼女に祝福を与えようとするのだが、その少女らは彼らに一瞥も与えぬまま広場を横切っていった。
 このインドラジャドラという祭りは、文字通り、国家の守護神インドラの祭り(ジャトラ)と銘打たれているにもかかわらず、インドラが手厚く祀られている様子もなく、ただひたすらその少女の存在感だけが際立っていた。いったいインドラジャドラの祭りに姿を見せたあの少女は何者だったのか。ずっと心の片隅に引っかかったままだった。


 それから七、八年が経過して、1989年からは毎年のようにカトマンズを訪れては彼女と会うようになっていった。その少女の名前はクマリ(Kumari)。
 生き神として選ばれた少女だった。
 ネパールのカトマンズ盆地では、一人の少女が、三、四歳で「生き神」として選び出され、十二、三歳頃(初潮)まで神として君臨するという。最初はただそれだけしか知らされていなかった。しかし、それだけでもう十分だった。最初に彼女を見たのは、ちょうど留学先のシカゴ大学から戻り、東京から京都に移り住んだばかりの頃だった。そんな風習がいまだにこの世に残されており、しかも、この現代においても一国の制度として政治的・社会的に認知されているというのは、まったくの驚きだった。


 この「クマリ」は、幼い頃に「一定の基準」をもとに選ばれ、他の子供たちとは隔離されて生活をするのです。
 そして、初潮を迎えるくらいの年齢になると、「クマリ」の座から降り(降ろされ)、「普通の女の子」に戻っていくのです。
 ただし、「クマリだった女性と結婚した男は、一年以内に死ぬ」などという物騒な言い伝えも残されており、幼少期を「生き神」として過ごしたことによる、その後の人生への影響(社会への適応困難など)もみられるようです。
 「クマリ」そのものに直接インタビューすることは不可能なのですが、著者は、この「クマリ卒業生」たちにインタビューをしています。
 実際は「結婚した男が死ぬ」というのはデマであり(それを調査した人が、ちゃんといるのです。この本を読むと、人間というのは、本当にいろんなことに興味を持つ人がいるものだな、と感心してしまいます)、卒業後も「普通の女性の生活」をしている人が多いそうです。
 

 ネパールのクマリも、実際のところ国を挙げて崇拝の対象とされ、仏教カーストから選ばれるにもかかわらず、ヒンドゥー教の国王でさえもその前では跪かざるをえないほどの力を持つのだった。彼女をめぐっては、その選別方法は、役割(機能)、歴史的背景、政治的意味など、さまざまな謎がささやかれてきた。ただ、最初の印象は意外とピュアなものだった。彼女が幼いながらもこれまでに見たこともない美貌の持ち主だったからである。

 ネパールの宗教は、ヒンドゥー教は8割強、仏教は1割弱(9%)だそうです。
 にもかかわらず、ヒンドゥー教の国王でさえ、クマリの前では跪くのです。
 このヒンドゥー教仏教の重なり合いながら、交わらなくなってしまった関係や、その歴史的な経緯についても考察されています。


 この本には、著者が撮影した、さまざまなクマリたち(卒業生含む)の写真も収録されているのですが、それぞれ、神秘的な美しさに満ちていて、たしかに「神々しいな」と思うのです。
 メイクの影響も、あるのでしょうけど。

 三、四歳で自分の意思とはまったく無関係に神に祀りあげられ、一切外出の自由を奪われるだけではなく、学ぶ機会さえ与えられず、一人家族から引き離されて過ごす少女。これを人権侵害の立場から批判する声はたしかに以前から少なくなかった。

 僕も、この本を読み始めた時点では、幼い女の子を「神」として祭り上げるのは、「地域の文化」として否定はできないけれど、彼女たちの人権的にはどうなのかねえ、なんて思っていたんですよ。
 いや、読み終わってみても、「伝統を受け継いでいくことの素晴らしさ」と同時に、「21世紀を『先進国』の側で生きている人間としての違和感」はあるのです。
 少なくとも、クマリに選ばれる女の子たちは、「自分の意思で、その役割を引き受けた」わけではないし。
 ただ、これを「掛け値なしの人権侵害」とか「旧い時代の無意味な因習」と断言する自信もありません。
 ネパールの政治体制の変化によって、今後も「クマリ」のシステムが続くかどうか、流動的な面もありそうです。


 この本を読んでいると、ネパールの宗教文化とともに、女性が初潮を迎えるまでの「微妙な時期」の「神性」みたいなものについても、考えさせられます。
 僕には実感できないし、自分の小学校、中学校くらいの同級生女子のことを思い出してみても、「そんな特別な感じ」はまったくしないのですけどね……
 大人からみるとまた別、ということなのだろうか。

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