琥珀色の戯言

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【読書感想】「少年A」被害者遺族の慟哭 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
それでも「少年」は守られるべきか。


少年による凶悪犯罪が跡を絶ちません。統計によると少年犯罪は減り続けていますが、猟奇的な事件や、いわゆる体験殺人――人を殺してみたかったから殺した――など、動機が不可解なケースは、むしろ増えている印象があります。一方で、少年(未成年)、とくに18歳未満は少年法で手厚く守られており、重罪を犯して刑事裁判にかけられても短期間で出所するケースがほとんどです。遺族たちは口をそろえて「これでは無駄死にだ」「なぜ死刑や無期懲役にできないのか」と憤慨しますが、少年法の壁は厚く、犯した犯罪と量刑が釣り合っているとは言えません。
また、遺族に対する加害者側の対応も、ひどいケースが目立ちます。一言の謝罪もない、追い打ちをかけるような言動をする、民事裁判で決まった損害賠償を支払わない……挙げ句の果てには再犯を繰り返し、また罪に問われている元犯罪少年も少なくありません。本書では、少年凶悪犯罪の遺族たちに綿密な取材を重ね、そうした実態を明らかにするとともに、少年と少年法の罪について深く考察します。


 この新書のタイトルをはじめてAmazonで見たとき、僕は、すごくイヤな感じがしたのです。
 「元少年A」が、『絶歌』というタイトルの自伝を書き、それが、遺族の反対にもかかわらず商業出版されたことは記憶に新しい。
 その本が、読まれるべきか、そして、売られるべきかという議論もありました。
 発行からしばらく時間が経った現在では、どこでも普通に売られるようになっているのですけどね。


 この新書のオビには「殺された息子の母親を加害者の父がカラオケに誘う」とありました。
 「元少年A」の親って、そこまで酷いことをしていたのか……いや、それはもう、「酷い」というより、なんらかの精神的な欠落なのではないか……


 ところが、この「カラオケに誘った加害者の父」は、神戸の事件のことではなかったのです。
 この本のタイトルで、このオビだと、「神戸の事件の加害者とその家族の非常識さ、誠意のなさを告発している」のだと思ったのだけれど、中身は「現在の少年法の課題が浮き彫りにされた、さまざまな事件に関する被害者側からの取材レポート」が主なのです。
 神戸の事件の話だけじゃない。
 タイミング的に、「少年A」ってつければ売れそうだとは思ったのだろうけど……
 こういう内容だからこそ、「事実」に関して誤解を招くような売り方をしてほしくない。


 そういう「加害者側のロクでもなさ」を本にして出す、というのは、「事件を利用して、人々の心をざわめかせ、ひと稼ぎしようという魂胆」が見え隠れしているようで、「これを書いている人もゲスだな」なんて、タイトルを見た時点では思っていたのですが、著者の藤井誠二さんは『人を殺してみたかった』など、少年事件に関するさまざまなルポルタージュを書いている人です。
 被害者家族にも長年寄り添って、取材をされています。


 内容は、誠実な「現在の少年法の問題点と、被害者家族が置かれている状況の告発」なんですよ。
 にもかかわらず、こんな「釣りタイトル」「釣りキャッチコピー」みたいなのをつけられてしまっているのが、すごく残念です。
 僕みたいに「行き過ぎた商業主義」に嫌悪感を抱く人間は、他にもいるはず。

(2015年2月の)川崎事件のときに少年法の厳罰化を訴えた件の議員は、社会の意思を汲んだつもりだったのか、過去に起きた少年凶悪事件の被害者遺族の要望を代弁していたのか、私にはわからない。
 私は当時、遺族の方々に意見を求めてみたが、「厳罰化も大事だが、むしろ家庭でも裁判所でも厳正な事実認定をおこなうことを優先してほしい」という声が多く聞かれた。そして、本書でこれから描くような、加害少年たちから被害者への「謝罪」を、国が担保していく施策――たとえば遺族への損害賠償金額が確定すれば、それをまず国が肩代わりし、加害者には国が徴収していくようなシステム――をつくりあげていってほしい。そういう意見も多かった。
 つまり、やみくもに厳罰化すればいいという話ではないのだ。感情に訴える発言をして人気を取ることも議員さんのやりがちな行動ではあるけれど、ことこの問題に対しては慎重に意見を拾い上げ、議論を積み重ねていくことが必要だと思う。


 この本を読んではじめて知ったのですが、民事訴訟で損害賠償が認められた場合、もし加害者側からの支払いが滞れば、遺族から加害者側に「督促」する以外の方法がないのです。
 裏社会の人に取り立てを依頼する、なんてこともできないわけではないでしょうけど、そんなことをする遺族は、まず存在しないでしょう。
 自分の子供の命を奪った加害者と関わりたくないと考える被害者は多いのですが、賠償金を自分たちで督促しないとなると、泣き寝入りするしかない。
 加害者側には金銭的に余裕がないことが多い。
 そもそも、親のモラルが高かったり、しっかりとした教育ができるような家庭で育ったりした子供が、凶悪な少年事件を起こすことは少ない。
 賠償に関しては、払わなかったからといって、とくに罰則は無いそうです。


 17歳のときに愛知県で「ストーカー殺人」を行なった男は、遺族にこんな手紙を送ってきました。

 しかし2011年2月13日付の2通目の手紙では早くも、彼の奇怪な「思考」は出所してからもまったく変わっていないことが露呈している。なんと、事件を題材にした小説を書いているというのだ。将来は小説も詩も書ける物書きになって、約9000万円の賠償金を支払う、というのである。
「おもしろい小説を書きたいので、ふざけた小説にするつもりです。ですから永谷様が読むとあまりの内容に憤死してしまうでしょう。ですから永谷様は読まないほうがいいでしょう。誰にどう思われようと、僕が小説を書くことを辞めさせる権利は誰にもありません」(桜井からの手紙。2011年2月13日付)
 誰がどう読んでも謝罪の意をあらわしているとは思えず、被害者遺族の気持ちを逆撫でし、心をえぐるような内容である。言葉の選び方の稚拙さを割り引いたとしても、この現実感のなさはなんなのだろう。


 また、別の事件の被害者の母親・ユウカさんには、こんなことがあったそうです。

 最近、ユウカさんの携帯に、主犯格のAの父親から電話がかかってきたという。その父親は謝罪の場にも来ず、民事法廷にも一度も顔を出さなかった。ただ、一度だけ、「和解」が決定した日にひとり遅れて法廷にやってきて、悪びれることなく何ごとか口にして法廷を出て行ったのを、私はユウカさんの親族といっしょに見ていた。やがて(Aの両親が)離婚したことはすでに述べた。
「会って、謝罪したい」「食事に行きませんか」「ユウカさん、カラオケに行きませんか」――。
 そうAの父親はユウカさんに電話してきたのだ。
 ユウカさんは何か得体のしれない恐怖に包まれて、すぐに私に電話をかけてきた。
「こわいです。あの父親は何を考えているのかわかりません」
 そう言った彼女の声は、かすかに震えていた。


 オビに書かれていた「カラオケに行きませんか」が、これです。
 僕はこれを読んで、「腹が立つ」というより、「こういう人に、反省を期待することは、無理なんじゃないか」と思ったんですよ。
 脳から、そういう機能が欠けてしまった人なんじゃないか、と。
 この本を読んでいると、人の命という、どうやっても償えるものではないものを、なんとか少しでも償わせようとし、わずかながらも期待しては加害者の反応に裏切られる、そんな被害者家族の絶望感が伝わってくるのです。
 そもそも、どういう状態になれば、「償ったことになる」のか、そのゴールは、誰にも決められない。
「墓参りにも、謝りにも来ない」ことに憤り、謝罪に訪れても「態度が悪い」「一度しか来なかった」と責めてしまう。
 それは「当然の反応」なのだけれど、加害者側からすると、「何をやっても償ったことにならない」と、投げやりになってしまうところもあるのかもしれません。
 僕だって、「もし自分や家族が、そういうことをやってしまったら……」と想像することもあるのです。
 絶対しない、と信じているけれど、万が一そんなことがあっても、現実を正視し続けられるだろうか?


「人を殺したのだから、苦しむのが当たり前」なんだろうとは思う。
 でも、その重みに耐えて、償い続けられるような人間は、一時の興奮や快楽に流されて、人を殺しはしない。


 なんだかもう、被害者家族にとっては、無間地獄だとしか、言いようがない。
 何か「救い」とか「希望」とかを見出そうと思いながら読んでいたのだけれど、率直なところ、底なし沼にはまってしまったような「絶望」しか感じられませんでした。
 そんな「不運」が自分の身の回りに起こらないことを、ただ祈るしかないのだろうか。



参考リンク:「罪をつぐなう」ということ(いつか電池がきれるまで)


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