琥珀色の戯言

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【読書感想】江戸の経済事件簿 ☆☆☆


江戸の経済事件簿 地獄の沙汰も金次第 (集英社新書)

江戸の経済事件簿 地獄の沙汰も金次第 (集英社新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
赤穂浪士に始まり、歌舞伎や近松門左衛門文楽、落語などに出てくる、江戸時代に日本各地で起きた様々な金銭がらみの事件や出来事。江戸文化研究家が、それらが描かれた歌舞伎、文楽、落語、浮世絵などを取り上げながら近代資本主義以前の江戸の経済について多角的な視点でわかりやすく解説する。豪商から貧乏サムライ、遊郭の遊女、賄賂に宝くじまで、お金をめぐる江戸の人間模様を通じて、資本主義の行き詰まりがささやかれる今、経済と金の実相を江戸に学ぶ。


 本当に最近の日本は、拝金主義が横行している、カネ、カネ、カネの世の中で……
 ……あれ? 江戸時代の「経済」や「金」の話を読んでいると、江戸時代もそんなに変わらないんじゃないか、って気がしてきた……
 「昔はこんな拝金主義の世の中じゃなかった」って思っている人は少なくないのでしょうが、この新書を読んでみると、少なくとも江戸時代は、けっこう「地獄の沙汰も金次第」の社会だったことがわかります。
 もっとも、この時代の場合には、幕府や武士という「権力者の心ひとつ」で、借金が棒引きにされたり、豪商が追放されたりもしていたので、今のほうが「まとも」なのかもしれませんね。


 これを読んでいると、当時の江戸の庶民たちの「金銭感覚」や「懐事情」がわかります。

 江戸時代は金貨・銀貨・銅などで造った銭貨の三つが使われた。そして、金貨は金子、銀貨は銀子、銅などの銭は銅銭といったのである。総称は「かね」だ。
 金・銀・銅などの三種類の貨幣はそれぞれ独立した通貨だが、相互に交換できた。

 貨幣が3種類もあって、めんどくさそうだな、それぞれ両替するのも大変そうだし、と思ったのですが、著者は「混乱しなかったようだ」と述べています。
 その理由は「ほとんどの庶民は銭だけを使い、金銀の使用は稀だったから」。
 なるほど。


 江戸では(火事が多かったこともあり)実入りの良い職業だった大工の懐具合が『文政年間漫録』のなかで紹介されているそうです。

 モデルの大工は女房のほか子ども一人の三人家族。一年間の支出は、主食の米代が三石五斗四升で三百五十四匁(もんめ)、家賃百二十匁、塩・味噌・醤油・薪・炭代が七百匁、道具代・家具代百二十匁、衣服代百二十匁、交際費百匁で、計一貫五百十四匁になる。
 収入の一貫五百八十七匁六分から支出の一貫五百十四匁を差し引くと、一年間に七十三匁六分が残る計算になる。モデルの大工は「酒を飲んだり女遊びができる賃金ではない」とぼやいている。
 つまり、当時の職人の中では一番恵まれていた大工もつましく暮らしていた。
 ただ、大火のあとは日当が三〜四倍に急上昇した(倍増という説も)。


 「一番恵まれていた」とされている職業でも、子ども一人だけで、こんな懐具合ですから、当時の江戸の庶民というのは、ほとんどがギリギリの生活をしていた、ということなのでしょうね。
 「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」なんて言いますが、これじゃあ、とくに贅沢しなくても、宵越しの銭なんて残らないよなあ。


 また、歌舞伎の劇場や役者たちの経済についても書かれていて、興行の世界というのは、今も昔も、当たり外れが激しいものだったのだな、と思い知らされます。
 そして、こんな話も。

 江戸で出開帳(仏像などを本来おさめられている場所から移動して公開し、拝観料をとること)をしたことで有名になった寺院に成田山新勝寺がある。
 元禄十六(1703)年、成田山は初めて江戸で出開帳を行った。深川の永代寺の境内に不動明王を安置する小屋を建て、四月二十七日から六月二十七日までの二ヵ月間公開した。二千両以上の収入があり、本堂の建立などの借財(五百両)をすべて返済しただけでなく、鐘楼などの建築費も確保した。
 成田山新勝寺はそれまで江戸の庶民に知られていなかった。江戸からはるかに離れた地にある寺だから、知られていなかったのも当然だろう。
 見物人をたくさん集めるには何より宣伝が大切。成田山は江戸に乗り込む際、信者と一緒にデモンストレーションを行うなど、あの手この手で宣伝した。
 成田山の出開帳が大成功したのは初代市川団十郎の力によるところが大きい。CMタレントに初代団十郎を起用したのである。
 団十郎父親・重蔵の出身地にある成田山不動尊を信仰していた。団十郎は若い頃、子どもに恵まれなかったが、成田山不動尊に祈った甲斐あって、二十八歳の時ようやく、息子・九蔵(のち二代団十郎)を授かった。そのため、団十郎は「九蔵は成田の不動尊の申し子」と吹聴していたのである。
 開帳と同じ時期の四月二十一日から七月十三日まで、団十郎は木挽町の森田座で自作自演の『成田山分身不動』を上演し、不動尊の人気を煽った。現代の言葉でいえば、この作品は成田山の出開帳に合わせたタイアップ企画である。


 このタイアップは大成功で、歌舞伎を見たファンが永代寺に押し寄せたそうです。
 「好きな作品の聖地巡礼」的なものは、この時代からあったんですね。
 
 ちなみに、この「出開帳」、江戸時代の半ばくらいまではそれなりの収益をあげたところが多かったようなのですが、後半になってくると、マンネリ化と庶民の懐が寂しくなったのもあって、赤字になるケースも少なくなかったのだとか。
 

 ちょっとした雑学的な話も含めて、「まあ、カネが大事なのは、今だけじゃないんだな」ということを痛感させられる、なかなか興味深い新書でした。