琥珀色の戯言

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【読書感想】ベートーヴェンと日本人 ☆☆☆☆

ベートーヴェンと日本人 (新潮新書)

ベートーヴェンと日本人 (新潮新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
幕末から明治にかけての日本人には「耳障り」だったクラシック音楽は、「軍事制度」の一環として社会に浸透し、ドイツ教養主義の風潮とともに「文化」として根付いていった。そして日本は、ベートーヴェンが「楽聖」となり、世界のどこよりも「第九」が演奏される国となっていく―。明治・大正のクラシック音楽受容の進展を描きながら、西欧文明と出会った日本の「文化的変容」を描き出す。


 「ベートーヴェン」、とくに、『運命』や『合唱』といえば、まさに日本中の人が一度は聞いたことがあると思います。というか、一度どころじゃないよね。
 2020年は、ベートーヴェンの生誕250年ということで、さまざまな「ベートーヴェンに関する本」が出版されています。もし、新型コロナ禍がなければ、記念コンサートもたくさん行われたはず。
 
 著者は、「この本はこれまで日本語で書かれてきた数多くのベートーヴェンの伝記や研究書とは少し視点が異なる。かの楽聖ベートーヴェン本人については、たったの一言もふれていないことだ」と「はじめに」で述べています。

 明治七年(1770)に遠く海を隔てたドイツに生まれ、文政十年(1827)にウィーンで没したひとりの音楽家が、二世紀というはるかな時と空間を隔てて、なぜ日本の「楽聖」にまで登りつめたのか? 未知だったはずの異国の音楽が、なぜ極東の島国の人々の心をつかみ、感動を与え続けているのか?
 不思議である。なぜ、ベートーヴェンでなければならなかったのだろうか?
 この本でぼくは「ベートーヴェンとは誰か」を書こうとしたのではない。ベートーヴェンは、どのようにして日本人にとって「あたりまえ」の存在になったのか?「あたりまえ」でないことが、「あたりまえ」になっていく過程に想いを巡らせてみたいと思ったのだ。
 ところが、少し書きはじめると、これはとてつもないことだとわかってきた。そのような「あたりまえ」は、ぼくたちの生活文化、習慣、常識、言語など、あらゆるところに転がっているからだ。


 思えば、ベートーヴェンと日本には、直接の「接点」はないのです。
 にもかかわらず、2020年の日本では、ベートーヴェンは「もっとも知られている音楽家のひとり」になっています。
 ベートーヴェンの「伝記」ではなく、クラシック音楽とは全く無縁の音楽の文化をつくっていた日本人が、どのようにしてベートーヴェンを知り、崇め奉るようになったのか?
 今の世の中を生きている僕にとっては、日本人がクラシック音楽を学び、ショパン・コンクールで上位入賞することに違和感はないけれど、明治時代に西洋の音楽に最初に接した日本人にとっては、「何これ?」というのが率直な感想だったのです。

 明治初期にオペラにふれた日本人の反応も、恐れをなして近寄らないか、笑いをこらえるのに必死になるか、というものだったようだ。
 まずは、明治八年(1875)。マリア・パルミエリという元ミラノ・スカラ座プリマドンナが来日して宮中で御前演奏をしたときのエピソードだ。この御前演奏に陪席するはずの政府高官たちは、西欧音楽という得体の知れぬものに恐れをなして大部分が欠席し、がらんとした会場にネズミが駆け回ったという風刺画が当時の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』に掲載されている。
 次に、明治十二年(1879)。来日したヴァーノン歌劇団のオペラ公演を観賞した日本人観客たちの反応を、当時の外国人向け新聞ジャパン・ウィークリー・メイル紙は「日本人大衆の観賞心は西欧の聴衆と全く正反対である。(略)プリマドンナの最も感動的な音符のところでは、ドッと大きな笑いが起こる」と書いている。この公演はさんざんの悪評で不入り。早々に打ち切られたという。オペラ歌手の高音の発声が、当時の日本人観衆には「まるで鶏の首を絞めたように」聴こえたというのが、爆笑を巻き起こした理由だともいわれている。


 演奏するほうも、やりにくかっただろうなあ。
 当時の日本人にとっては、これが率直な反応だったのです。
 芸術は国境を越える、とは言うけれど、実際は、日本人がクラシック音楽に慣れ、受け入れられるようになるまでには、かなりの時間がかかっています。
 
 今の時代を生きている人間は、「クラシック音楽を、素晴らしい芸術だと教えられて生きてきたけれど、明治時代の日本人にとっては、オペラ歌手は「鶏の首を絞めたような声」だった。
 そこから、多くの音楽家が、日本人に西洋音楽が受け入れられるための地道な努力を続けた末に、いまの「音楽」がある。

 そういう事実や受け入れられるまでの過程が丁寧になぞられることって、ほとんどないですよね。
 逆に言えば、ほとんどの異文化というのは、こんなふうに、最初は拒絶されたり、笑われたりしていたのです。
 そういう「あたりまえのこと」が、すごく丁寧に書かれている本なんですよ、これ。


 では、数多の音楽家がいるなかで、なぜ、ベートーヴェンだけが、日本人にとって特別な存在になったのか?
 

 昭和の幕開けとともに、ベートーヴェンの名声は一気に高まる。きっかけは、昭和ニ年(1927)、ベートーヴェンの没後百年を記念した全国規模のイベントだった。「ベートーヴェン百年祭」と呼ばれたこの祭典こそ、明治時代に日本にやってきたベートーヴェンの音楽が、大正期を経て広く日本の市民権を獲得するきっかけとなった記念碑的なイベントである。ここから、いよいよ「日本の楽聖ベートーヴェン」が誕生したともいえるからだ。


 著者は、その背景として、この時代になって、ベートーヴェン交響曲を演奏できる本格的なシンフォニック・オーケストラが日本に誕生してきたことをあげています。
 そして、ベートーヴェンの楽譜を日本に持ち帰ってきた人たちの存在もあったのです。
 楽譜なんて、どこか大きな書店が音楽教室にでも行けば売っている……というのは現代人の感覚なんですよね。当時の日本では、楽譜を手に入れるのが難しかったし、楽譜がなければオーケストラも演奏はできません。

 昭和ニ年(1927)の年明けは、日本社会全体が沈鬱な空気に覆われていた。前年の十二月二十五日に崩御した大正天皇の忌服期にあたっていたためだ。つまり昭和元年は十二月最終週のたった一週間しかなかったことになる。


(中略)


 このような事情で、前年の十月に結成されたばかりの新交響楽団も、結成記念のお披露目演奏会を延期せざるを得なかった。
 ところが、この直後に開催された「ベートーヴェン百年祭」は、なぜか日本の西欧音楽史に残る画期的なイベントとなり、これによって日本でのベートーヴェンの名声は決定的なものとなったのだ。
 なぜ、そこまでの盛り上がりをみせたのだろうか?
 理由のひとつに、大正天皇の喪明けと、べ―ベートーヴェンの百回目の命日(3月26日)が重なったという、偶然というのはあまりにもよくできた巡り合わせがあった。まるで溜まりに溜まったエネルギーが一気に爆発したような「ベートーヴェン百年祭」は、昭和という新たな時代の幕開けとともに、大正天皇の忌服期という重苦しい空気を一掃するかのように、それまでの西欧音楽の演奏会という枠をはるかに超えたスケールのイベントとなったのである。


 日本人にとって、ベートーヴェンが特別な存在になったのは、曲の魅力とともに、さまざまな「タイミングの良さ」もあったのです。

 著者は、関東大震災から第二次世界大戦、そして戦後の混乱期と、ベートーヴェンの音楽は、日本人にとっての「苦難の時代」とともにあった、と述べています。

 それがさらに加速するのが、戦後の『第九』ブームである。戦後の『第九』の大きな特徴といえるのが、高度成長期を起点としてたんなるオーケストラ公演としての『第九』を超えて、市民や地域の街づくりの一環である市民参加型という日本ならではのイベントとして『第九』が浸透していくことにある。
 いうまでもなく、そこには『第九』そのものの強烈な吸引力がある。何よりも重要なのは、『第九』が平和と自由の象徴として演奏されたということだ。そこには、大正期までは「幻の大曲」といわれ、手を伸ばしても届かなかったベートーヴェン晩年の畢生の傑作が、ようやく演奏やレコードなどで手が届くようになったという感激もある。
 次に、市民が参加できる作品という観点からみれば、その最大の魅力は大規模な交響曲でありながら「合唱付」というユニークな編成にあることは明らかだ。しかも、合唱付といっても、アマチュアにはさすがに全曲歌いっぱなしは厳しいが、クライマックスの第四楽章だけに颯爽と登場できる。これによって演奏が至難の大曲でありながら、市民が合唱団の一員としてプロのオーケストラとも共演ができ、しかも「みんなとともに」という感覚と感動を観客とも共有できるという、合唱好きの日本人には理想的な作品なのだ。

 
 「ベートーヴェンと日本人」というタイトルなのですが、「今の自分があたりまえのものだと思い込んでいるもの」には、そうなるまでのプロセスや誰かの力があるのだ、ということを考えさせられる本なのです。

 いまや平和な日本の年末の風物詩となった『第九』を、太平洋戦争下で、出征する前に聴いた学生たちもいたのだよなあ。


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