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【読書感想】発達障害 ☆☆☆☆

発達障害 (文春新書)

発達障害 (文春新書)


Kindle版もあります。

発達障害 (文春新書)

発達障害 (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)
人の気持ちがわからない、空気が読めない、同じ失敗を繰り返す…それは発達障害かも知れません。日本の医学界きっての専門家が、疾患の種類、豊富な治療事例を懇切丁寧に解説します。


 ネットでは「発達障害」や「アスペ」という言葉が、自称・他称含めて氾濫しているのですが、では、「発達障害」の診断基準はどんなものなのか?という問いに答えられる人は、ほとんどいないはずです。
 周囲にうまく適応できない、生きづらいと感じている人が専門的な診断を受けることもなく自称している、あるいは、空気が読めない(というようにみえる)人への悪口として使われている、そんなことが多いように思います。
 ときには、「純粋な人」として、「美化」されていることもあるのです。


 著者は「はじめに」のなかで、こんな事例を挙げておられます。

 2016年に大ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS)の主要登場人物である津崎平匡も、アスペルガー症候群の疑いが濃厚である。
 津崎はヒロインである森山みくりと契約結婚をして同居するという設定であるが、高学歴で仕事の評価は高いにもかかわらず、取っ付きにくく対人関係が苦手で、36歳になる今まで女性と交際したことはまったくないという人物である。
 さらに彼は、ささいなことに対するこだわりが強い。次に示すのは、津崎がみくりと2人で料理をしているシーンである(コミックス7巻)。

 津崎「にんにくすりおろし、ひとかけって、チューブでいうと何cmですか」
 みくり「適当でいいですよ〜」
(みくりの答えに満足しない津崎は、すぐにスマホで「ひとかけ」について調べる)
 津崎「メーカーの見解ではにんにくの場合ひとかけ約5gで小さじ1杯、しょうがの場合ひとかけ約15gで大さじ1杯だそうです」


 フィクションの世界では、アスペルガー症候群など発達障害の人たちは「少し変わったところがあるが、特定の分野においては驚異的な能力を発揮する天才タイプ」として語られることが多い。
 もちろん、このような見方は一面的であり、現実社会で苦労している当事者や家族にとっては不必要に美化されていると感じられ納得できない思いとなるのかもしれない。けれども別の見方をすれば、一般の人にとっては、アスペルガー症候群の持つ純粋さが魅力的に感じられていることが、発達障害の流行につながっているようにも思える。


 あれは星野源さんが演じてるからですよ!
 ……って、僕としては言いたくなるんですけどね。
 この「ひとかけ」の話など、僕はふだんほとんど料理をしないこともあって、けっこう気になりそうなんですよね。 ただ、今はネットでけっこう簡単に調べられるから、「それが気になって、物事が先にすすまない」という事態にはならずにすみそうです。
 発達障害の人って、ネットやメディア越しに接するのと、実社会で身近に付き合うのとでは、だいぶ見え方が違うのではなかろうか。
 そして、発達障害を持っている人も、ネットの中のほうが「生きやすい」場合が多いような気がします。


 ただ、この「発達障害」という概念そのものも、まだ検討中というか、そもそも、世の中の人が「明らかな発達障害」と「発達障害的なところが全くない人」に二分されるわけではありません。
 がん細胞のように「ある」か、「ない」かで診断できるわけではないんですよね。


 そのあたりの「曖昧さ」も含めて、この新書では、丁寧に書かれていると思います。
(僕は精神科医ではないので、専門的に正しいかどうかは判定しかねるのですが、如何にも「わかってます!」みたいな書き方よりも、少なくとも誠実な内容だと感じました)


 著者は、この10年くらい「発達障害」がメディアでも頻繁に取り上げられるようになり、多くの人が「知る」ようになってきたけれど、誤解が多く、正しく発達障害の概念を理解しているのは、精神科医でもごくわずかにすぎない、と指摘しています。
 これまで、発達障害で医療の世界で扱われてきたのは重症例がほとんどであり、発達障害は児童期の疾患とみなされて、ほとんど小児科で扱われてきたのです。 

 本書では、成人期の発達障害の代表的な疾患であるアスペルガー症候群などの「自閉症スペクトラム障害ASD)」、および「注意欠如多動性障害(ADHD)」を主に扱っている。この2つの病名は本書で繰り返しテーマとしているので、発達障害についての初学者の人においては、このASDADHDという2つの病名を記憶してほしい。
 この2種類の発達障害は、成人期における発達障害の大部分を占めているものであるが、両者はまったくの別物ではなく、複雑に関連している。ちなみに疾患の頻度については、一般の知名度とは異なり、ASDよりもADHDがはるかに高い。
 発達障害についての大きな問題の一つは、診断の不正確さである。これには過剰な診断と過小な診断と両方のケースがある。発達障害とは言えない人や他の精神疾患に罹患している人が、発達障害と診断されていることは珍しいことではない。
 このような過剰診断の中でもっとも頻度の高いものは、「対人関係や社会性の障害」がみられるために、アスペルガー症候群の診断を受けているケースである。けれども、対人関係についての問題は、発達障害に固有のものではない。統合失調症や対人恐怖症(社交不安障害)、あるいはうつ病など精神疾患においても、対人関係の障害は頻繁にみられるし、実は「健常者」においても珍しくはない。
 つまり、対人関係の障害という所見のみで発達障害という診断をすることは明らかに行き過ぎであり、「変わり者」や「風変わりな行動をとる人」を即「発達障害」と決めつける風潮には注意する必要がある。
 逆に、過小診断もしばしばみられる。うつ病等他の精神疾患と誤診されている場合や、発達障害の存在を見逃されまったく問題がないとされるケースも珍しくない。詳細については本文で述べるが、長期にわたり統合失調症うつ病などの診断で治療を受けているケースにおいて、ADHDなどの発達障害がベースに存在している例はまれではない。


 この新書を読んでいてもっとも感じたのは、「人間関係がうまくいかない」「空気が読めない」=「発達障害」と安易に「診断」することの危険性でした。
 その一方で、本来は発達障害の治療を受けるべき人が、別の診断名で治療されて続けていることも少なくないのです。


 著者は、こんな例を紹介しています。

 最近経験したケースであるが、40歳代の男性Hさんは長年にわたり、「精神分析」を専門とする医師の診察を受けてきた。この医師はマスコミにもしばしば登場して社会的な問題にコメントすることも多く、彼の両親は引きこもり状態の息子を連れてこの医師の外来を受診していた。
 だが結果はさんざんだった。その医師はHさんの発達障害を見抜くことができずに、「病気ではない。ただの甘えだ」と一喝した。本人の受診はしばらくして中断したが、あきらめきれない両親はその医師に相談を続けた。「甘え」を厳しく指導するようにと指示された両親は、Hさんと対立を続け、その後10年あまり家庭内に諍いが絶えなかった。
 ある時期からHさんは、自分は発達障害ではないかと思い、医師に食い下がった。だが、まったく聞いてもらえなかったという。その後、彼は自ら筆者の専門外来を受診し、正しい診断がついた。間もなく投薬の内容を変更して安定した精神状態を続けることができるようになった。最近では両親との仲も改善し、一緒に旅行にも行くようになっている。
 実はこのHさんと同様のケースはまれではない。うつ病統合失調症、あるいはパーソナリティ障害と“診断”され、発達障害を見過ごされているケースが多々ある。
 医療者側も当事者も、長期にわたり治療を行っているにもかかわらず、症状が慢性化していてなかなか改善が観られない場合、一度は発達障害の可能性を検討すべきである。


 医療の世界には「後医は名医」という言葉があって、前任者のやってきたことや結果を踏まえて診断・治療できる分、後で診る人のほうが有利なことが多いのです。癌などで病気がさらに進行している、という場合を除いては。
 こういう「間違った診療を受け続けていること」は、患者さんにとっては不幸ではありますよね。
 もちろん、最初はある程度信じてもらえないと治療できないのは確かなのですが、あまりにも効果がみられず、「自分には合わない」と感じたときには、医者を変えてみるというのも考えてみるべきなのでしょう。
 医者の側も「自分には難しい」と思ったときには、その分野に詳しい人に任せることが大事なのです。


 著者は、「ASDADHDの共通点と相違点」という項で、こんな話をされています。

 一見すると、ASDADHDはまったく異なる症状を持っている。これまで述べたように、ASDの中心的な症状は「対人関係の障害」と「常同的な行動パターン」であり、ADHDは、「多動・衝動性」と「不注意」であるからだ。
 ASDの診断基準とADHDの診断基準を比べて頂きたい。診断基準の記述からは、両者はまったく異なるものと考えられる。
 けれども、精神科の診療場面では、両者の症状はかなり似ていることが多い。ASDに多動・衝動性や不注意の症状を認めることはまれではないし、またADHDにおいても、対人関係の障害を認めることはしばしばみられる。
 実臨床においては、小児期の情報が不十分であることも多く、ASDと診断すべきか、あるいは両方の診断をつけるべきか、迷うことも少なくない。
 ASDの特徴である「対人関係、コミュニケーションの障害」(他人の気持ちが理解できない、場の空気が読めないなど)は、ADHDと区別する鑑別点にはならないことが多い。
 というのは前述したように、ADHDは対人関係は元来良好であることが多いが、思春期以降において対人関係が悪化することがまれではないからだ。彼等は、児童期から思春期にかけて対人関係における失敗をを繰り返すうちに、次第に他人と交流することに不安が強くなり孤立するケースがみられるのである。
 ASDADHDを区別するには、むしろ「同一性へのこだわり(常同性)」が鑑別点として重要である。ASDでは、特定の対象に対して強い興味を示したり、反復的で機械的な動作(手や指をばたばたさせたりねじ曲げる、など)がみられるが、このような症状はADHDではまれである。


 僕自身も、「ああ、自分には発達障害、とくにADHDみたいなところがあるな……」と、子供の頃の記憶に思い当たることが少なからずあるのです。
 日常生活でも、カッとしやすい、けっこうイライラしてしまう、片づけが苦手、など、いろんな問題を自覚してはいるのですが、治療の必要があるのか、と問われると、ちょっと考え込んでしまいます。もちろん、諸問題が改善するのならば、とも思うのですが、薬を飲むか、と言われたら、現状はたぶん、それほどではない。
 実際のところ、この本で紹介されている「症例」は、生活にかなり困難をきたしている例が多いですし。
 ネットで書き込んでいることだけで「発達障害」の診断をつけるのは、かなり難しい(というか、たぶんほぼ不可能)なのです。
 「発達障害」について、いまの時点でわかっていること、わからないことが多くの実例をまじえて簡潔に書かれている「良い新書」だと思います。
 読み終えて、なんかちょっとスッキリしないのは、いまの「発達障害」に対する概念そのものが「スッキリしていない」からなんですよね、きっと。


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