琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

Uは私だ。植松聖を不気味と感じる私たち一人ひとりの心に、彼と同じ「命の選別を当たり前と思う」意識が眠ってはいやしないか?
差別意識とは少し異なる、全体主義にもつながる機械的な何かが。
「A」「FAKE」「i ‐新聞記者ドキュメント-」の森達也が、精神科医やジャーナリストらと語りあい、悩み、悶えながら、「人間の本質」に迫った、渾身の論考!


 あの「相模原事件」について、『A』『FAKE』の森達也さんが論考したものです。


fujipon.hatenablog.com


 ただし、あの事件そのものについて書かれたもの、というよりは、事件をもとに、いまの日本の司法、精神鑑定の妥当性や裁判員裁判の意義、死刑制度の問題点を指摘しているところが多い印象です。
 森さん自身は、さまざまな報道で情報を得てはいたものの、植松聖受刑者と直接面会したのは一度だけだそうです。もちろん、たくさん会ったから「わかっている」というわけでもないのですが、ある取材者は「植松受刑者は、自分の考えを否定しない相手以外は面会者として切り捨てていた」と語っていますし。

 ASDADHD、知的障害のある子どもや保護者への支援を行っている、発達支援教室「るりえふ」代表の郡司真子さんとのZOOMでの対話で、森さんはこう仰っています。

「今この段階で、相模原事件や裁判について僕が考えていることを言葉にします。日本には死刑制度があります。現行の法制度においては、例えば3人以上殺したら、まず死刑になる。永山基準です。でもオウム以降は厳罰化が進んで、犠牲者が1人か2人の場合でも、死刑になる事件が増えてきた。ただ唯一、被害者が3人だろうが5人だろうが10人だろうが、死刑を免れる方法があります。刑法39条。責任能力がないと認定されれば、死刑を回避できる。
 だから凶悪で大きな事件になればなるほど、絶対に加害者をそちらに逃がしちゃいけないという圧力みたいなものが、刑事司法やメディアに対して、もちろん社会全体でも働いているような気がしています。何が何でも責任能力ありにする。多少の矛盾や疑問はスルーする。裁判全体がこうして進む。ならば加害者の内面や事件の骨格がわからなくなって当たり前です。
 一昔前に比べれば、明らかに動機が不明瞭な事件が増えてきた。それは相模原事件だけではなく秋葉原通り魔事件の加藤智大とか附属池田小事件の宅間守とか土浦連続殺傷事件の金川真大とか、何といっても麻原彰晃とか宮崎勤とかも、この系譜に入ります。これらはすべて、事件発生時には新聞一面を飾った大事件です。そして必ずのように、終わってみると動機がよくわからない。ある程度はわかる。でもある程度です。必ず曖昧なまま終わる。もちろん人の内面は簡単にわかるはずがない。動機も同様です。カミュが『異邦人』で示したように、人の意識は不条理である。すべてを明確に説明できるはずがない。でも少なくとも以前は、一つひとつの事件に対して僕たちは、もっと理解できたという感覚を持てたような気がするし、メディアはこれほどに『闇』という言葉を濫用していなかったと思うんです」


 この本のなかでは(あるいは、相模原事件の公判を詳細にレポートしたさまざまな記事では)、植松聖受刑囚の1年前くらいからの「正気とは思えない」言動の数々や、法廷での異常な行動、落ち着かない様子が出てくるのです。
 本当に、現在の植松受刑者に「責任能力」があるのかどうか?
 裁判所も、精神鑑定を行う医師たちも、「あれだけのことをやった人間は厳罰に処せられるべきだ、責任能力喪失で無罪なんて、あってはならない」という社会からのプレッシャーにさらされているのではないか。

 読んでいると、思うんですよ。たしかに、そうだよなあ、って。
 でも、僕は読みながら、「また森達也さんの『逆張り』かよ」と苦々しい気分にもなっていたのです。
 麻原彰晃も、植松聖も、精神的な疾患を抱えていたのかもしれません。ただ、それを理由に、彼らがやったことが「無罪」になるのが妥当なのかどうか?(日本の司法の大原則からいえば、「責任能力の有無」と「更生」が大前提で、「遺族や社会の処罰感情の反映」が主ではない、ということは百も承知です)
 普段はおとなしい人が夫婦喧嘩でひどいことを言われて、カッとなって配偶者を殺した、カネ欲しさに泥棒に入ったら、家の人に気づかれ、刺してしまった、なんていう事件は、多くの人が「(自分はそんなことはしないだろうけど)感情の動きとしては想像も理解も可能」なはずです。
 こういう「もしかしたら、自分もやるかもしれないなあ」と想像できる事件は、「理解できる行動である」がゆえに「責任能力あり」とみなされるわけです。

 その一方で、麻原彰晃や植松聖などの大量殺人者たちは「なんでこんなことをしたのかわからない、理解できない」からという理由で、延々と裁判が行われ、その間、ずっと生き続け、世の中に注目され続けているのが、僕には許せないのです。彼らが殺した人々は、もう、何も言うことはできないし、帰ってくることもないのに。
 「事件の動機がわからないのに、なぜ死刑を執行するのか?」
 でも、そう言い始めたら、理解不能な大量殺人を行って、動機をずっと語らずに裁判を引き延ばせば、死刑にならずに済むじゃないですか。
 だいたい、戦場でもないのに無差別大量殺人をやるような人間が「理解可能な精神状態」であるとも思えない。デューク東郷じゃあるまいし。
 僕はずっと書いているんですけど、死刑存置派ですし、死刑に値するようなことをやる人がいなくなれば、死刑を執行しなくて済むだけだ、と思っています。
 「責任能力の有無」を認定するのは難しいから、実際に行った行為とその結果に対して量刑を行えば良いのではなかろうか。でも、それは近代的な「司法のめざすもの」とは相容れないのもわかっているのです。

 反省できる「まともな人間」だから死刑が執行され、反省もなく「死刑にしてくれ」と言っているから、反省できるまで生かして更生させるべき、なんて言われたら、僕だったら絶対に更生なんてしないと思う。


 郡司さんは、森さんにこんな話をされています。

郡司「本や映画に対する理解が普通とは違う。そして浅いんです。例えば『アップルパイがあるね』と誰かに言われたら、『くれ』と言われたように思っちゃうとか、廊下で誰かとぶつかったら、わざとぶつかってきたと思いこむとか、そういった認知の歪みがあって、その積み重ねでいろんな社会経験がものすごくつらいものになって、その結果として、自分の生きづらさをカバーするためのコーピング(ストレスへの対処法)として、アルコール依存になったり薬物に手を出したりする。そういうタイプだと思うんです。
 私自身は大麻はやったことがないけれど、周囲にはけっこういます。彼ほどの歪みはないですね。もともとの彼の特性的なものかしら。境界知能にある人は実生活でいろいろ困難があって、ストレスから抑うつ状態になって、しかも思考の幅が狭いので、自分は低賃金で頑張って仕事をしながら怠けているとか叱責されて社会的なストレスにさらされているのに、重度障害の人たちは何も生産しなくても食べられるし怒られないし、このまま生き永らえるのかって、……抑うつ状態による思考の狭さも働いて、どうしても許せなくなる人はすごく多い」


「つまり植松に特異な感覚ではない」


郡司「そういう子は思春期ぐらいから目立ち始めて、周囲との軋轢の結果としてドロップアウトして、……日本っていったんドロップアウトしてしまうとリカバリーがすごく難しいから、社会に対する不満や怒りが強まるばかりで、これは安倍政権を支持しているネトウヨ自民党ネットサポーターでバイトしている人たちなんかにも共通するけれど、自分たちが抑圧されている原因は現政権にあるはずなのに、自分を攻撃者である政権と同一化して、リベラルな人や政権に対して抗議の声をあげている人を攻撃するという倒錯した現象が起きています。それと非常に近いです」


 そういう「認知の違い」みたいなものをずっと抱えていて、世界に攻撃されていると思いながら生きるというのは、かなりきついのではなかろうか。僕自身にも、多少そういう傾向がありますし。


fujipon.hatenadiary.com


 でも、こういう人たちが起こした犯罪を、すべて「病気のせい」「社会のせい」だと思うのも難しいのです。
 「そういう基礎疾患的なものがあるから、アルコールや大麻などの薬物依存になった」と言われても、「みんながそうなるわけじゃない」のも事実ですし。


 精神科医の松本俊彦さんとの対話のなかでの森さんの言葉。

「そもそも僕はオウム真理教のドキュメンタリーを撮る過程で、帰属していたテレビ業界から排除されて一人になりました。だからこそ撮影を続けながら、社会や政治、あるいは組織と個の相克に対する見方、メディアへの批評性、そうした意識が内面化されたという自覚があります。特に、意識をほぼ喪失した状態の麻原彰晃を被告席に座らせたまま進行していた裁判を傍聴したときの衝撃は大きくて、あれは大きな原点になったと思います。
 麻原法廷は一審だけで打ち切られて、2018年7月に12人の弟子たちと共に彼は処刑されました。何も語らないまま。そして、その後も多くの注目される事件の裁判が、同じようなパターンをくりかえしていることに気がつきました。
 それをひと言にすれば、責任能力を巡る議論です。事件が大きくて社会からの注目が高まれば高まるほど、責任能力を認定するために被告人の意識状態は正常だったとする前提が強くなり、この前提に辻褄を合わせようとするから裁判そのものに大きな無理が生じている。……相模原事件の裁判は、まさしくそうした流れの集大成だったと思っています。
 何よりも、命を選別して不要だと宣言しながら殺害したことで罪に問われた彼に対して、おまえの命は不要であると宣言して死刑に処することの矛盾について、社会はあまりに無自覚です。しかも裁判は重要な議論がほとんどなされないまま、これも最近の大きな事件の傾向だけど、一審だけで確定してしまった。法廷が死刑を正当化するためのセレモニーと化しています」


 「命の価値」は同じなのか?
 その問いは、ずっと繰り返されてきたものです。
 日本の人口がどんどん増え、経済成長を続けてきた時代には、人は他者の命に対して寛容になれたけれど、自分が厳しい状況に置かれると、「あの人は生産性がない」みたいな意見を口にする人が多くなっていくのは、致し方ない面もあるのでしょう。

 僕は、こういう物言いって、いじめをやっている側の子どもが、集団で誰かに暴力をふるいながら、「お前が殴り返してきたら、(暴力をふるっているという点で)俺たちと同じだからな」と、相手をがんじがらめにするのと似ていると感じるのです。
 世の中には「加害者側に立つ」人が必要だというのも、理屈ではわかるのですけど、読みながら、とにかく複雑な気分になっていく本なのです。


やまゆり園事件

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  • 発売日: 2003/07/25
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