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【読書感想】悪癖の科学--その隠れた効用をめぐる実験 ☆☆☆☆

悪癖の科学--その隠れた効用をめぐる実験

悪癖の科学--その隠れた効用をめぐる実験

内容紹介
人間は未だ謎の宝庫だ。翌朝が会議でも深酒し、性欲に翻弄され、刺激を求めてバンジージャンプ! 「クソ野郎! 」と叫び高速道路をかっ飛ばす! ――なぜ世間が眉をひそめるようなことをついやってしまうのか? 主流科学の陰にひっそりと咲くちょっと変わった科学研究に着目した心理学者が、一部の悪癖には効用があることを示す研究成果の数々をユーモラスに紹介。


 深酒、悪態、危険運転バンジージャンプ……
 世間的には、けっして好感を持たれないし、本人にとってもあまり目に見えるメリットがなさそうなこれらの「悪癖」なのですが、僕の物心がついてから40年くらい、こういうことをする人が絶滅したり、激減したりすることはありませんでした。
 著者は、「なぜ、こういう行為を人間はやらずにはいられないのか?」(あるいは、やらずにはいられない人がいるのか?)、実際にどんなメリットがあるのか、を実験によって科学的に証明しようとした事例をたくさん紹介しています。
 このなかには、著者自身が行った研究も含まれているのです。

 痛みに反応して悪態をつく現象を客観的にとらえようと、私はキール大学の学生たちとともに、数年かけて実験手法を練っていった。ヒントになったのは、そのころ一瞬だけはやったアイスバケツ・チャレンジだ。氷水はけっこうつらい刺激だが、有害ではない。私たちの実験では、被験者にバケツの氷水に手を浸してもらうことにした。時間は最長五分間。そのあいだに悪態を発してもらわなければならないが、大切なのは被験者が自ら選んだ言葉であることだ。最初は文章の空欄を埋めるテストを受け手もらい、ふつうの言葉、汚い言葉のどちらでも好きなほうを入れられるようにしていた。しかしその後は、頭をぶつけたり、金づちで親指を叩いたりしたときに思わず口にする言葉を、氷水に手をつけた状態で再現してもらった。回答の仲で一番多かったのは、「ファック」と「シット」だった。
 私たちはこの実験の結果を論文にして発表した。被験者は侮辱的な言葉を何度も口にしているほうが、ふつうの言葉よりも長いあいだ氷水に手をつけていられたし、感じる苦痛の度合いが低く、心拍数もより高くなった。私たちは心拍数の上昇に注目して、被験者は悪態をつくことで闘争/逃走反応が起き、ストレス性無痛状態になっているのではないかと考えた。
 幸いなことに、二回目の実験でも同じ結果を得ることができた.二回目以降の実験が最初と同じ結果になれば、最初の所見の正しさがそれだけ裏づけられたことになるので、研究者としては心強い。
 二回目の実験では、日常的に悪態をつく頻度が、痛みの軽減効果を弱めることもわかった。この点を少し掘り下げて説明しよう。被験者に、日常生活で侮蔑語・卑猥語を口にする回数をたずねたところ、答えは0回から60回までいろいろだった。それと氷水実験の結果を突きあわせると、ふだん悪態をたくさんついている人ほど、悪態による痛みの軽減が少ないことがわかったのだ。汚い言葉を口にしすぎて反応が鈍くなった状態を、専門的には「馴化(じゅんか)」と言う。この実験結果からひとつ助言をするならば、ふだんの悪態は慎んだほうがいいということ。そうすれば、ここぞというときに威力を発揮してくれる!


 著者らは3回目の実験も行って、一人用のシューティングゲームを10分間プレイしたあと氷水に手をひたすと、ゴルフゲームのグループより長い時間氷水に耐えることができたという結果を得ています。
 この研究結果で、著者は、あの『イグ・ノーベル賞』を受賞しているのです。
 『イグ・ノーベル賞』は、何でそんなことを?と思うようなテーマをちゃんと「科学的に検証したもの」に対して与えられる賞なんですね。
 氷水に手を浸して、「ファーック!」とか「シーット!」と悪態をついている被験者の姿を想像すると笑ってしまうのですが。



 ここで紹介されている、さまざまな実験の結果を読むと、僕が「常識」だと思っていたことにも、今後覆される可能性があるということがわかります。
 1970年代、カナダにあるサイモン・フレーザー大学でブルース・アレクサンダーらが行った「ラット・パーク」研究について。
 1950〜60年代の薬物依存の研究で、ヘロインの原料となるモルヒネの水溶液とふつうの水をラットに与えると、ラットはモルヒネを選ぶことが実験で明らかにされていました。
 アレクサンダーさんたちは、ラットがモルヒネを選ぶのは、もともと群れをつくって生活し、行動範囲が広く、好奇心も強いラットが、狭いケージでひとりぼっちにされることによって、強いストレスを感じているからではないか、という仮設を立て、実験をしたのです。

 そこで彼らはふたのない大きな木箱を用意して、ラットのために贅のかぎりを尽くした御殿をこしらえた。底にたっぷりと敷いたおがくずは、糞尿の匂いを吸収してくれるし、ラットが掘りかえすこともできる。さらに木登り用のポールも立てた。名づけて「ラット・パーク」である。アレクサンダーたちは、ここに若いラットの集団を入れてのびのびと生活させた。比較のために用意した第二のラット集団は、いつものように小さなケージに一匹ずつ入れられた。ケージの壁は金属板になっていて、近くにいる仲間の様子を知ることはできない。どちらの集団にも水とモルヒネ水溶液を用意して、どちらが好まれるかを観察する。ただし、人間の薬物依存が進行する過程を再現するために、モルヒネの与えかたは少しずつ変えた。
 最初は水とモルヒネ水溶液をどちらも飲めるようにしたところ、パークとケージどちらのラットも水を選んだ。次に、六週間にわたってモルヒネ水溶液のみを与える。ラットをクスリ漬けにするのだ。ただし途中の六日間は水も与える。このとき、ケージラットは迷わずモルヒネ水溶液を飲みつづけたが、パークラットは半数以上が水を飲んだ。さらに実験は続き、今度は一日おきに水だけ、モルヒネだけを与えた。ケージラットにより多くのモルヒネを摂取させるのがねらいだ。そして両方飲める日もつくったが、ケージラットはやはりモルヒネを選び、パークラットは今度は三分の二が水を選んだ。それでもふたたびモルヒネ水溶液を選べるようにすると、ケージラットはパークラットの二倍のモルヒネを飲みほしたのである。
 この実験から、生活環境が薬物摂取に大いに関係することがわかった。ラットたちは全員クスリの常用者にされたが、水とモルヒネを選べる日でもモルヒネに走るのはケージラットだった。パークで集団生活を送っていたラットたちは、水があるときはあえてモルヒネに手を出さなかった。それはモルヒネが本来の活動パターンに合わないからだ。いっぽうケージラットは、狭いケージに一匹だけ押しこめられた段階で、すでに本来の活動パターンから大きくはずれている。モルヒネやヘロインを一度体内に入れてしまうと、不快な離脱症状から逃れるために摂取をやめられなくなるというのが従来の説だった。もしこれが正しいとするならば、パークラットもケージラットと同程度モルヒネを飲んでいたはずだが、実際はちがっていた。こうした実験結果を踏まえて、薬物依存への古い考えを改める必要があったが、そうなるまで長い時間を要した。


 この研究が終了したのは1970年代だったのですが、学会である程度認められるためには、かなり時間がかかったそうです。
 

 ヘロイン、アルコールといった物質の生物学的な特性が依存を引き起こすのだとすれば、ギャンブルやショッピング、インターネットへの依存はどう説明するのか? セックス、チョコレート、ランニングなどと同様、依存の背景にもドーパミンを放出する報酬回路の存在があるとアレクサンダーは考える。依存薬物は個人の意志ではやめられないというのも、薬物がらみの問題から逃れる都合のよい言い訳だという。実際のところ、若いときに薬物依存と判断された人の四分の三は、専門家の助けを借りることなく立ちなおり、その後はクスリとは無縁の生活を送っているというのだ。
 なぜそんなことができるのか? 成熟して社会にしっかり根をおろし、生きる意味を見いだしたことで、薬物に手を出す必要性を感じなくなったのだ。クスリと手を切れない残り四分の一も、それぞれの生きかたや状況がそうさせるのであって、依存物質の生物学的な作用によるものではないとアレクサンダーは主張する。


 著者は、アレクサンダーさんの主張に完全に賛同しているわけではありません。
 僕も「生物学的な特性と生活環境の複合要因なのではないか」と思います。
 「反省しているはずなのに、薬物をやめられない」のは、逮捕されたり収監されたりしても、その「釈放」後に置かれた環境は以前とあまり変わらない、というのが大きいのかもしれませんね。
  

 有名な「吊り橋実験」についても紹介されています。

 カナダのブリティッシュ・コロンビア州、キャピラノ川に吊り橋がかかっている。長さ137メートル、高さ70メートルのワイヤーケーブルの橋で、19世紀末に敷設された。頑丈なつくりではなく、すぐに傾いたり揺れたりするうえに手すりが低い。ちょっとしたはずみで、はるか下の急流に転落しそうな怖さがある。スリル満点の吊り橋なので、ヴァンクーヴァーでも人気の観光地のひとつだ。カナダの心理学者チームが興味ぶかい実験の舞台に選んだのが、この吊り橋だった。
 この実験では、男性の被験者に吊り橋を渡ってもらう。すると反対側から心理学科の学生だというかわいい女の子がやってきて、観光関連のアンケートに回答してほしいと依頼してくる。被験者が記入を終えると、女子学生はこのあと時間があればもっとくわしい説明をしたいと言い、回答用紙の端っこをちぎり、自分の氏名と電話番号を書いて渡すのだ。比較のために、小川にかかる高さ三メートルの木造の橋でも同じ実験を行った。こちらは手すりも高いしっかりした橋だ。さて、被験者のうち何人が女子学生に電話をしてきただろう?
 目もくらむ高さでアドレナリンが出まくる吊り橋を渡った被験者は、半数が電話をかけてきた。いっぽう低くて安心な橋を渡った被験者は、12パーセントしか電話してこなかった。かなりの差ということになるが、このちがいはどう説明するのか。この実験の被験者は、知らないうちにアドレナリンを注射されたのと同じ状況にある。ただし外から注入されたわけではなく、高さへの恐怖で体内で自然に分泌されたものだ。前に紹介した実験と大きくちがうのは、上機嫌、不機嫌といった感情ではなく、恋愛感情や好意に的をしぼったところだ。前の実験では、アドレナリンが引きおこした身体の喚起状態を、被験者は喜びや怒りといった感情に誤って解釈した。この吊り橋実験でも、恐怖の吊り橋を渡ることで喚起された状態が、相手への恋愛感情につながる好感にすりかわったのである。


 電話をしてくる、イコール恋愛感情なのか、と解釈に疑問もあるのですが、「一目惚れして、ドキドキした」と本人は思っていても、実際は「なんらかの他の原因で(アドレナリンが出て)ドキドキしているときに会ったので、好きになった」という可能性もあるのです。
 著者は、こう述べています。
「恋の始まりは心の奥深くの化学反応ではなく、高くて怖い吊り橋がきっかけだったとすれば、私たちが恋だと呼ぶものはいったい何なのか」
 
 人間は、社会的な関係から生じた問題を「生物学的なもの」だと考え、生物学的な反応でしかないものを、ロマンチックに解釈しつづけているのかもしれません。
 心理学というのは、けっこう曖昧な学問ではありますよね。
 遺伝子が解析され、人工知能もこんなに進化してきているのに、人間は、自分たち自身のことが、まだ、よくわかっていないのです。


イグ・ノーベル賞 大真面目で奇妙キテレツな研究に拍手!

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