![底辺への競争 格差放置社会ニッポンの末路 (朝日新書) 底辺への競争 格差放置社会ニッポンの末路 (朝日新書)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51u3fppYa5L._SL160_.jpg)
- 作者: 山田昌弘
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2017/10/13
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内容(「BOOK」データベースより)
「パラサイト・シングル」の発見から20年、「婚活」ブームから10年―「家族形成格差」の拡大が社会を引き裂く。“アリ地獄”から抜け出すにはどうすればいいか?日本を覆う「怯え」の正体。
「底辺への競争」って、なんというか、そんなものに向かって競争する人なんていないだろうに……という感じなのですが、このタイトルについて、著者は冒頭で説明しています。
15年ほど前にアメリカでベストセラーになった『The Race To The Bottom』(2000年、日本未訳)という論考があります。
本書のタイトル「底辺への競争」は、その米経済学者のアラン・トネルソン氏が上梓した論考の日本語訳にあたる言葉を借りて、今日の日本社会の現状を表すものとして、私の中で初めて提示する言葉です。
トネルソン氏は、グローバリゼーションが進む中、世界規模で繰り広げられる経済競争によって、労働者の賃金も社会保障も、最低水準まで落ち込んでいく様相を「底辺への競争」と名付けました。
日本では、1990年代半ばからグローバリゼーションの波が押し寄せました。その結果、私が『希望格差社会——「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(2004年、筑摩書房)で述べたように、フリーターや派遣社員など非正規雇用の人たちが増えていくという労働状況の変化が起こります。
アメリカでは、そうした労働状況の変化がすぐに、生活できない若者の増大という貧困化・下層化に直結するのですが、日本では、それが最低限の生活もできないほどの貧困化・下層化には直結しませんでした。
日本でまず起こったことは「下流化」というものでした。
私の定義では、下流とは「最低限の生活はできるけれども、いまよりも裕福になること(上昇移動=中流になること)が期待できない状態」のことです。日本では、たとえばフリーターであっても親と同居していれば、将来に希望はもてなくても、とりあえず生活を楽しむくらいのことはできるわけです。また、生活保護という制度として優れたものがあるので、食べ物に困ることもめったに起こりません。しかし、「将来」ゆとりのある中流生活ができるという見通しを描くことはできない。そんな状況です。それが当時の若者の状況だったと思います。
同じ「底辺」でも、日本とアメリカでは、その意味する内実が異なっているのです。
著者は、「底辺への競争」の内実は、中流生活を維持するための競争だと書いています。
かつては「一億総中流社会」と言われていた日本なのですが、いつのまにか格差が広がり、相対的貧困に陥る人たちが増えてきたのです。
いま「中流」にいる人たちには、「給食が一日の主食の子どもがいる」とか、「奨学金が払えなくて、自己破産してしまう」なんていう人たちの姿は、かなり見えづらくなっているんですよね。
こんなことを書いている僕自身も、本で読むような「貧困にあえぐ人たち」と直に接する機会はほとんどなくて、実感がわかないところもあるのです。
現在の日本では、一部の「意識の高い若者」を除けば、「結婚したい」「正社員になりたい」というような、「上昇志向」というより、一昔前に「あたりまえ」だとされていたことが、「夢」になりつつあるんですよね。
人間、期待したものを得られないより、すでに持っているものを失いほうが精神的にずっときつい、という研究結果があるそうです。
アメリカでトランプ政権を誕生させたのも、これまでずっと真面目に働いてきたはずなのに、いつのまにか安い労働力の前に仕事を失い、「中流」から「下層」に落ちてしまいそうな白人労働者層の投票行動の結果だと言われています。
1990年代、私が当時20歳代の親同居未婚者、つまり「パラサイト・シングル」を調査したときには、彼・彼女たちは親が子どもだった頃よりもはるかに「リッチな生活」をしていました。当時の若者は親が経験した以上の豊かさを享受できていたのです。
おおむね、1940年代生まれの親の大部分は、自分たちが若い頃、海外旅行に行くなんて考えられなかったわけです。ブランド品は自分たちとは無縁の存在でしたし、フレンチレストランで食事も、レジャーでスキーもできなかった。けれども、1990年代の親同居未婚者たちは、親にパラサイト(寄生)しているおかげで、そうした親が経験さきなかった豊かな消費生活を送れるようになったのです。
しかも1990年代に20歳代だった人たちは、将来、親以上の生活が送れるはずと考えていたのです。
女性であれば父親以上に稼ぐ男性と結婚できるはずだし、男性であれば自分が中年であったときには、親以上の収入を得ているはずでした。そして自分たちが親になっても、自分たちは親以上のリッチな生活ができて、自分たちの子どもは、自分たち以上に豊かな生活を送れるはずでした。
つまり、当時のパラサイト・シングルには、いわば「パラサイト・ドリーム」を見ることができたわけです。
ところが今日、あれから20年ほど経っていま40歳代になってみたら、親以上の生活が送れないかもしれないし、そうなるのは無理という人が増えています。パラサイト・ドリームはすっかり崩壊して、アラフォー世代をめぐる状況は、むしろ逆になっているのです。
僕はまさにこの「1990年代に20歳代だった人たち」のひとりなので、ここに書かれていることは実感してきました。
日本の、世界の人口はどんどん増えていって、人口問題が将来の課題になるとか、科学の発展で、人々はもっと豊かで幸せな生活を送れるようになっていくはずだ、とか。
たしかにいろんなことが便利にはなってきたけれど、少子化とか下山の思想とか、2017年の日本は「右肩下がりの時代」だと多くの人が言っています。
こんなはずじゃなかったのに。
いままでけっこう贅沢な生活をしてきた中流の人たちに、「お前たちは右肩下がりの時代をつつましく生きるように」と押しつけられた若者たちは、「なんだよ、それ!」って思っているんだろうな。
女性が収入の安定した男性と結婚できないと、「親よりも低いレベルの生活になる」という世代間での下降移動を経験してしまいます。つまり、結婚したとたんに結婚前の生活を維持できないという状況に陥るわけです。収入が高い男性でなければ結婚しない、けれども、非正規化が進む、賃金が上がらないという経済状況の中で、そういう男性は少なくなっている。確率的に、結婚前の女性の生活を維持できる男性が減っている。実はこれが未婚化の理由なのです。
子どもが少なくなっているというのも、子ども2人、3人の学費を払うと自分の生活が苦しくなるから、もうそれは無理だというので子どもを1人にしたり産まなかったりするのです。
まさに未婚化や少子化というのは、中流生活から転落するというリスクを回避するための行動といえるでしょう。
だからこそ、若者の一人暮らしや同棲はあまり増えずに、親と同居し続けて、いまの中流生活を維持しようとするパラサイト・シングルが減らないのです。
「経済的な問題」だけが未婚化・少子化の原因となっているわけではない、と僕は考えているのです。
もともと人間のなかには、それが可能な環境であれば、ひとりで生きたほうがラクだという人が一定数いるのだけれど、これまでの世の中では「結婚して一人前」「親に孫の顔を見せるのが義務」「家名を絶やさないようにしなければならない」という「常識」が有形無形の圧力となっていました。
今は、そういう圧力がだいぶ弱まってきているのです。
「人間の死というのは、無に帰るということだ」と多くの日本人が認識しています。
そうであるならば、子どもを育てたり、家族とうまくやっていったりすることよりも、ひとりで、自分の好きなこと(趣味や仕事、遊びなど)を死ぬまでやったほうが幸せなのではないか、と考え、そういう生き方を選ぶ人が増えるのは、自然なことではないでしょうか。
もしかしたら、人間というのは、核戦争や疫病ではなく、自らの意思で、ゆるやかに滅んでいく種になるのかもしれません。
日本のアラフォーやアラサーをめぐる状況は、世界という視点から俯瞰したとき、どう見えるのでしょうか。
30歳代にしても40歳代にしても、日本以外の国と比べれば、客観的には「まだ、まし」というのが率直な印象です。もちろん、繰り返し述べているように「一本のレール(標準家族的なライフコース)」から外れない限りにおいてなのですが。
経済環境も世界と比べればましに見えます。日本の経済成長率は低いものの、失業率はとりわけ低く(2017年3月、完全失業率2.8%)、意識としても日本の若者の満足度は高いのです。もちろんその裏には、これまで述べてきたように、親へのパラサイトによる「問題の先送り」があります。
世界の中での日本の特異性についていえば、日本のいまの50歳以上が総じて豊かであるということがあげられます。その一群は、高度経済成長によって安定した経済基盤をもつ中流家庭をつくったわけですが、海外と比べた場合、この分厚い中間層の存在が日本の最大の特徴といえるでしょう。
そして、これまで繰り返し述べているように、いまは「レールから外れた」子世代を「レールにのってきた」親世代が吸収できているがゆえに、社会的に大きな問題になっていないだけなのです。
だからこそ、現在の満足度は高いけれども、将来を悲観している若者や、聞かれれば「希望がない」と答える若者が多いわけです。
要するに、世界に比べれば、日本の若者の状況は特異であって、レールにのっているか親がしっかりしているアラサーやアラフォーは「まだ、まし」ということなのです。
近い将来、この「総じて豊かな50歳以上」が年を重ね、社会保障の負担が増していったとき、日本はどうなるのか?
本当に「なんとかなる」のだろうか?
ただ、1970年代生まれの僕が子どもの頃に予想していた、30年後、40年後と今の世の中のギャップを考えると、何十年先の世界を心配しても、あんまり意味はないのかもしれないな、とも思うんですよね。
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