琥珀色の戯言

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【読書感想】読んじゃいなよ!――明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
四の五のいう前に、ともかく新書に挑んでみた!鷲田清一、長谷部恭男、伊藤比呂美の各氏のパワフルな新書執筆陣を交え、稀代の読み手がファシリテーターとなって学生とトコトン読んじゃった二年間の記録。本を徹底的に読み込み、真剣勝負の対話を重ねる中から、いまどきの学生の等身大の不安や希望も見えてくる。


 高橋源一郎さんが、明治学院大学で行った「一冊の本をとことん読み、その本の著者と直接語り合う」という「特別教室」を記録したものです。

 一冊、本を決める(もちろん、岩波新書の中から)。条件は、大切なことが書いてあること。とりわけ、いま、わたしたちにとって大切なことが。そして、読者に誠実に向かい合っていること。でも、そういう本は、たくさんある。その中から、選びに選び抜いて、三冊の本を決めました。
 哲学者である鷲田清一さんの『哲学の使い方』、憲法学者である長谷部恭男さんの『憲法とは何か』、そして、詩人で人生相談の達人でもある伊藤比呂美さんの『女の一生』です。
 わたしと学生たちは、それぞれの本を、数か月、ときには、半年近くかけて読みこみ(さらに、その著者たちの他の本を副読本にして)、最後は、二泊三日の合宿をして、準備を整えたのでした。
 本を読む、ということが、その著者の人となりを読む、ということなら、それが同時にできたわけです。


 この三冊の岩波新書の著者が教室にやってきて、まず簡単に話をしてから、学生たちと質疑応答をする、という順番になっています。
 ところどころ、高橋源一郎さんがツッコミを入れたりしつつ、かなりフランクに話しているんですよね。
 この新書を読んでいると、この「高橋ゼミ」には、本当にいろんな学生がいること二驚かされます。
 僕などは単科大学で、同じような目標を持って集まった、同じくらいの偏差値の人たちと一緒に勉強していたので(それでもやっぱり、「いろんな人がいた」のですけどね)、この高橋ゼミの「自由さ」と「世間からドロップアウトすることへの包容力」みたいなものに驚かされました。
 なんのかんの言っても、そこらへんの「名前が書ければ入れる大学」じゃなくて、明治学院大学ですからね。

 この本を作ることに参加してくれたのは、高橋ゼミの学生たちです。どの大学にもある、ふつうのゼミの、ふつうの学生たちといってかまわないでしょう。でも、ちょっとだけ、他のゼミの学生たちと違っています(いや、わたしが知らないだけで、もしかしたら、他にも、こんな例はたくさんあるのかもしれませんね)。それは、わたしのゼミには、通常の授業としてきちんと履修登録している「正規」のゼミ生の他に、履修登録をしていない「非正規」のゼミ生がいることです。
 「非正規」のゼミ生たちの出身はさまざまです。
 かつて、このゼミに通っていた卒業生、他の学部の学生、もうすでに職業をもっている社会人、有名な作家、有名な映画監督、有名だけど名前がわからないだれか……、どこか知らない国の人、わたしより年をとった人、どこのだれなのかまったく知らない人……。
 たくさんの「非正規」のゼミたちが、わたしのゼミを「通過」してゆきました。中には、すべての授業に「皆勤」して、「非正規」なのにゼミ長になってしまった人も、何年も居ついて、わたしよりゼミの事情に詳しくなった人も、どこからともかくやって来て、いつの間にか消えてしまう野良猫のような人も、一度現れ、それから数年後に、また突然現れる、ハレー彗星のような人もいました。
 わたしのゼミの決まりは、ゼミのタスク(お仕事)をやってくれるなら、だれが来てもいい、ということです。


 いまの日本にも、こんな大学、こんなゼミがあるのだなあ、と。
 僕も参加してみたい、と思うのと同時に、この居心地のよさは、本人たちの将来のプラスになるのだろうか、とか、考えてしまうところもあるんですよね。
 でも、職業訓練校化している、いまの日本の大学のなかにも、少しくらい、こういうところがあってもいいよね。


 この本のなかで紹介されている著者と高橋源一郎さん、そして学生たちのやりとりは、ものすごく奥が深いような気がするのです。
 会話形式で、実際のやりとりが再現されているので、岩波新書としては読みやすいですし。


 鷲田清一さんの回で、高橋源一郎さんは、こんな話をされています。

高橋源一郎さっき、哲学の本は二割分かればいいって鷲田さんはおっしゃいました。ほぼ同じことを詩人の荒川洋治さんから言われたことがあるんですよ。荒川洋治さんと一緒に詩の選考会をやっていて、しかも、難しい現代詩の選考をしていて、その最中にですね、正直言ってこの箇所って全く分からないんだよねって言ったら、日本で一番詩が読めるはずの荒川さんが、あ、僕も全然分からない、っておっしゃった。えっ、それでいいのなかあ、って言ったら、荒川さんは、「高橋さん、詩は分からないものなんだよ、本来。でも、ところどころ分かる。その分かるところだけ読めばいい」っておっしゃった。目から鱗だったですね。でも、そういえば、確かに自分もそんなふうに読んでいた。だいたい、書いている当人も分からないことが多いんだから。分かるところだけ読んで、そこだけ分かれば、もしかしたら他のところもいつか分かるかもしれない。それでいいんだって。
 書いた当人が全部分かっているうちは駄目だって荒川さんは言ってました。書いた当人も分からない。当然読者も分からない。でも、気が付くと読者が先に分かったりする。これが面白いのだと。


 こういうのは、みんなが認めている人が言えばこそ、というのはあるのでしょうけど、「分からないものだし、分かるところだけ読めばいい」ということなら、けっこう安心できるところはありますよね。
 僕も、ついつい「自分がわかっているつもりのもの」ばかりに接したくなるところがあるので、怖れずに「わからないもの」に触れていかなくてはなあ、と思いました。


 この本のなかで、異彩を放っているというか、「なんてディープインパクトな人なんだ……」と圧倒されたのが伊藤比呂美さんでした。

伊藤比呂美私、人との口の利き方が分からないし、お行儀よくないし、いまだにこんな感じでしょ。でも、詩人っていいですよ。うちの集合住宅、熊本の。ごみ出しを間違えても、伊藤さん、詩人だしって(笑)。


高橋源一郎いいね(笑)。


伊藤:小学校の保護者会でもね、私眉毛を間違って紫色で描いて気が付かなかったの。子どもが、お母さん、今日紫だったって。でもその時も、ああ、伊藤さん、詩人だしって(笑)。


高橋:認めてもらっているわけだ。


伊藤:変人です。


学生:変人になるのに勇気はいりませんでしたか?


伊藤:いりますよ。でも、ほら、私、初めからわりと落ちこぼれていて、初めから変だったから、人と同じになろうという努力をむしろしてこなかったんですよね。それでだんだんだんだん普通の人と接点ができてきて、あれ、ずいぶん違うじゃんっていうのが分かったので、初めからわりと平気でした。そうでしょ。


高橋:変人でも大丈夫。


伊藤:世の中にいっぱい先達の変人がいるし。


高橋:そうそう。変人がいる。変人は変人を知るっていうことだよね。そういこともある。


伊藤:ここの高橋先生のゼミを取っている時点で普通じゃないわけだから(笑)。


高橋:確かに(笑)。


伊藤:それをちゃんと意識して、こういう変人を社会で探して、頼っていけばいいんだろうなっていうこと。


 伊藤さんと高橋さんのやりとりを聞いていると、世の中の「自分は変人だと思っている人」って、ほとんどが正規分布内におさまっているのではないか、という気がしてくるのです。
 そして、「変わった人」だと周りから言われても、ちゃんと受け入れてくれる場所もある、ということなんですね。
 むしろ、自分で変人であるということを認めたほうが、生きやすいのかもしれません。
 だって、「詩人だから」って。


 それぞれの著者の話はもちろんなのですが、こういう大学の、ゼミも「あり」なのだな、と思いながら読みました。
 世の中には、まだまだ、こういうゼミなら勉強できる、勉強してみたい、という人が大勢いるのではないかなあ。


哲学の使い方 (岩波新書)

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女の一生 (岩波新書)

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