琥珀色の戯言

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【読書感想】日本の反知性主義 ☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
集団的自衛権の行使、特定秘密保護法改憲へのシナリオ…あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導く政策が、どうして支持されるのか?その底にあるのは、「反知性主義」の跋扈!政治家たちの暴走・暴言から、メディアの迷走まで、日本の言論状況、民主主義の危機を憂う気鋭の論客たちによるラディカルな分析。『街場の憂国会議』に続く、緊急論考第2弾!

【目次】
反知性主義者たちの肖像 内田樹
反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴 白井聡
反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくて
イヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、
と思って書いたこと 高橋源一郎
どんな兵器よりも破壊的なもの 赤坂真理
戦後70年の自虐と自慢 平川克美
いま日本で進行している階級的分断について 小田嶋隆
身体を通した直観知を 名越康文×内田樹
体験的「反知性主義」論 想田和弘
科学の進歩にともなう「反知性主義」 仲野徹
「摩擦」の意味──知性的であるということについて 鷲田清一


 最近「反知性主義」という言葉を耳にする頻度が高くなったような気がしていました。
 でも、僕は率直なところ、この「反知性主義」という言葉の意味が、よくわからなくて。
 いわゆる「知識人」たちの言説を「頭でっかちで、現場を知らない人の『机上の空論』として否定する」というようなニュアンスなのかな、という程度の認識だったんですよね。


 この本、内田樹先生の呼びかけで、9人の「知識人」たちが、「日本の反知性主義」というテーマで、それぞれの立場から(仲野徹先生は「理系」の立場から、最近の科学論文の状況などについて語っておられます)、それぞれの持論を述べておられます。
 なかなか豪華なメンバーではあるのですが、実際のところ、彼らのあいだでも「反知性主義」という言葉の解釈は、必ずしも共通したものではありません。
 それに、学術論文まではいかなくても、大学の講義みたいなものもあって、率直なところ、半分以上のパートは、読むのがつらかった。


 でもまあ逆に、なんとなく「反知性主義とは、こういうものだ」という思い込みから、リセットしてもらえたという点で、けっこう役には立ったのではないかな、とも思うのです。


 この本の冒頭で、内田樹さんは、『アメリカの反知性主義』の著者であるリチャード・ホーフスタッターのこんな言葉を引用されています。

 反知性主義は、思想に対して無条件の敵意を抱く人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。


 ちなみに、この『アメリカの反知性主義』での反知性主義の「定義」は、

 反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義される。

となっています。


 「反知性主義」というのは「無知」がもたらすものではない、ということなんですね。
 ちょっと違う話ではあるのですが、僕はこれを読みながら、これまでの人生で、「学歴偏重批判」をする人には、「そこそこの偏差値の大学を出ている人」が多いのではないか、と感じていたことを思い出しました。
 「勉強」や「テストの点数」に自分の価値を見いだしていない人というのは、むしろ、「東大」とか「京大」みたいなわかりやすいブランドに対して、あっさり「すごいですね」と感心し、そして、あまりこだわらないような気がします。
 僕みたいな「同じ土俵で、中途半端に勉強してきた人間」のほうが、敗北感というか、「学歴コンプレックス」が強いのかもしれません。


 内田先生は、つづいてこう仰っています。

 この言葉は、ロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすこととしている。


 ああ、なるほど、と感心してしまいました。
「他人の言うことに対して、とりあえず聴く耳を持っている」というのが「知性」なのか。
 まあでも、僕はここで、ふと立ち止まってしまうわけです。


 内田先生は、橋下大阪市長に対して批判的で、「反知性主義」の象徴のようにみなしていたのですが、この定義にもとづいて考えると、内田先生も橋下さんに対しては「反知性主義的」に、相手のやることなすこと否定しているのではなかろうか。
 党派、とはそういうものなのかもしれませんが、ホーフスタッターの言葉にもあるように「知性」というのは、ものすごく危ういもので、「知性的」にふるまっていたはずの人が、何かの理由や状況では、「反知性的」になってしまうのです。


 高橋源一郎さん曰く。

 元に戻って、ぼくがいいたいのは、「反知性主義」という言い方の中に、どうしても含まれてしまう「あんたたちは反知性だけれど、こっちは知性だよ」というニュアンスが好きになれないってことだ。この前、書いたことだけれど、ぼくのおばあちゃんは、ぼくが「バアちゃんのアホ!」というと、「他人のことアホっていうやつが、アホや!」といった。街の哲学者だ。その通り、というしかない。どこかにいる「反知性主義」を見つけて、それに「反知性主義」というレッテルを貼るのは気が進まない。そのことで、自分も「反知性主義ヴィールスに冒されるような気がする。だって、「反知性主義」というのは、すごく簡単にいうと、相手のことを、すごく簡単に否定する考え方じゃないか、って思えるからだ。


 赤坂真里さん曰く。

 実は、「反知性」という言葉が私にはわかりません。
 知的ではない(非知性)ことともとれるし、知性に対抗する(アンチ知性)態度ともとれる。
 わからないのにわかったふりをして論を展開したくないし、「こういうことになってます」というお約束で論じたくもない。そうしてみたところで、一般読者の感覚とは離れているだろう。


 この「反知性主義」という言葉そのものが、なんというか、「他者にレッテルを貼るための便利な言葉」として濫用されているように僕も感じるのです。
 だって、「反知性主義者」なんて、いかにもバカそうなイメージを与えられる言葉だし。
 

 まあでも、基本的には「他人の話を聞く姿勢を持つ」ことがいちばん大事ではあるのでしょう。
 いまのネットを眺めていると、「いかにして、他人の話を聴かないで門前払いするか」みたいなことが「技術」として重んじられているようで、僕はけっこう不安なのです。
 とはいえ、「いちいち全部相手をしている時間も余裕もない」し、「なんじゃこりゃ、みたいなもの」もあるのも事実ですが。

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