琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

韓国、トーゴに逆転勝利

http://germany2006.nikkansports.com/photo/news/20060613-14494.html

やっぱり、「COREA」なんですね。
しかし、なんだか韓国の試合を観ていたら、悲しくなってきたよ。
あのフリーキックでバックパスしちゃうえげつなさ!
キャプテン翼」の「鳥かごだ!」のシーンを思い出させる露骨な時間稼ぎ。
あれこそ、「勝つサッカー」なんだと思う。
オーストラリアと違って、1人少なかったせいか、トーゴは最後のほうは、あんまりプレッシャーかけてこなかったしねえ。
だいたい、司令塔もマンチェスターUのレギュラーだし。そりゃ、某ボルトンのカップ要員とでは雲泥の……
僕はいったい何を期待していたんだろう、とかさ。
隣国の勝利を素直に喜べないのはなんだか人間できてない気もするんだけど、正直、最近の韓国はやることなすこと……

あの人たち、また「テーハミング!」とか大合唱してるんだろうなあ……
冷水をぶっかけられるというか、ナイアガラの滝に打たれまくっている気分。

あの「琥珀色の戯言」が公開する、アクセスアップを呼ぶ「見出しのテクニック」

日本語必笑講座 (講談社文庫)

日本語必笑講座 (講談社文庫)

↑の本を読んでいたら、「週刊誌のことば」という項に、こんなふうに書いてあったのです。

 さて、そういう週刊誌であるが、ことばづかいの面からこれを研究してみると、なかなか面白いのですよ。はじめに言った、悪態のつき方という文化として。
 人の名前の上に”あの”という言葉をつけることを発明したのは「週刊S」だと思う。たとえばそこが、この私のことを誌面に取りあげるとすると、こういう見出しになるのだ。
「あの清水義範が自分の新聞で週刊誌につけたイチャモン」
 あの、がついているだけで、インチキな成りあがり者が図にのりやがって、という感じがプンプンと匂うでしょう。
 そしてもうひとつ、これも元祖は「週刊S」のような気がするが(その文化的影響力は認めざるを得ない)、今ではすべての週刊誌に広がっている言葉づかいが”体言止め”である。
 たとえば最近の巨人の野球はどうしようもないぞ、という記事には、こういう見出しをつける。
「見ちゃいられないこれが最近の巨人の『野球』」
 最後に名詞を持ってきて、カッコで強調したりするのだ。すると、すごく最低、というムードがビンビンと伝わってくる。今、すべての週刊誌がこのことばづかいをしている。
「叙勲にうかれる○○大臣がやったこと」
「妊娠だけではない、ここへきてささやかれるアイドルSの前身」
「国際化がきいてあきれる日本の外交官僚」
 実になんとも、ねえ。みんな意地悪なんだから。

 そして今現在、こういう「週刊誌の見出しテクニック」が、WEBに蔓延しているわけです。とか言いながら、とくに意識していたわけでもないけれど、僕のよく使ってます。”体言止め”とか”「」”なんて、もう使いまくりです。
 あと、ここに書かれているもの以外で、僕が意識している「見出しテクニック」としては、
(1)なるべくみんなが知っているような有名な人やモノの固有名詞を入れるようにする。
(2)〜の「理由」「秘密」「謎」「わけ」などの「ちょっと続きを読んでみたくなる言葉」で締める。
(3)タイトルが思いつかないときには、引用文、あるいは書いた文章のなかで、いちばんインパクトのある言葉をそのままタイトルにする。
(4)「mixi」とか「はてなブックマーク」なんていうネット関連の言葉を入れてみると、興味を持ってくれる人が多い。
(5)本当は、「名指しで悪口」が、いちばん一時的には効果がありそうなんだけど……

というわけで、実験的にこういうタイトルをつけてみたのですが、はたして効果のほどはいかに。
しかしながら、”あの”「琥珀色の戯言」という部分で、すでに「は?あんた何者?」と思われている可能性が高いのですけど。

「話題の新刊」を読む理由

http://karina.vivian.jp/archives/mimi/post_589.php

↑のエントリ、興味深く読ませていただきました。
実のところ、僕は現代文学を読みはじめたのって本当にここ10年くらいのもので、それまではお金も無かったし、「文庫になっている本のなかで、面白そうなものを読む」というのが僕の読書傾向でした。ちなみに、僕は「恋愛小説」というやつが大の苦手だったので、雑学の本とか、歴史小説推理小説などを好んで読んでいたような記憶があります。
そういえば、昔「ノルウェイの森」で、主人公ワタナベ・トオルの寮の先輩の永沢さんという人について、こんなことが書かれています。

僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはお目にかかったことはない。
彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。
そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。

もちろん永沢さんは架空の人物なのですが、

百年の誤読

百年の誤読

↑で取り上げられている「100年間のベストセラーの数々(日本版)」への岡野さん(すみません、「大森さん」と書いてました。「文学賞メッタ斬り」と混同してしまいました)と豊崎さんのコメントを読んでいても、「その時代で読まれていても、時代を超えて『読む価値のある本』というのは意外に少ないものなのだ」と考えさせられるのです。
あるいは、
http://www.tohan.jp/tohan-news/05-12-05.html
↑にトーハンの2005年度のベストセラーランキングを紹介しておきますが、ここに紹介されている本のなかで、「30年後も読まれている本」は、さて、どのくらいあるのでしょうか?ちなみに「文芸」はこちら(http://www.tohan.jp/tohan-news/05-12-05a.html

しかしながら、僕は最近はけっこう好んで「新刊書」を読むようになりました。その原因としては、やはり「ネットで感想を書こうと思って」というのが大きいのではないかと思います。つまり、「ネット依存」「ブログ依存」が、読書傾向にまで影響を及ぼしているのですよね。せっかく本を読むのだったら、ブログのネタにしたいとか、誰かと感想を語り合いたい、とか。
たぶん、「ベストセラーを読む心理」のなかには、「多くの人との共通体験をしたい」という要素が大きいのではないでしょうか。
純粋に「効率」で考えれば、「世界の名作」(それこそ、村上春樹さん激賞の「カラマーゾフの兄弟」とかね、僕には長いし人の名前の区別がつかなくて辛いですが)を読んだほうがいいような気はするんですよね。国内の小説でも「作者の死後30年」とまではは言わなくても、「発表後10年」でも、だいぶ淘汰されそうです。

そういう意味では、僕は最近、ちょっと自分の読書に主体性が無くなってきているのではないかと反省しているのです。「本当に読みたい本」を昔ほど、読んでいないのではないか、と。
前述の永沢さんには、こんな印象的な言葉もあるのです。

他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。
まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。

ああ、耳が痛い……

ところで、僕の場合、今までで「自分の人生に影響を与えた本」「記憶に残っている本」の多くは、「歴史の淘汰に耐え抜いた『名作』」でも、「リアルタイムでしか読めない『新刊本』でもなくて、「リアルタイムで出逢った『名作』」なんですよね。
むろん、そんな幸運な出会いなんて滅多にないし、非効率的なかぎりなのですけど。

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