琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

太陽 ☆☆☆

太陽 [DVD]

太陽 [DVD]

エルミタージュ幻想』で知られるロシア映画界の鬼才、アレクサンドル・ソクーロフが、敗戦直前から人間宣言に至るまでの昭和天皇の孤独と苦悩を描いた問題作。昭和天皇役のイッセー尾形ほか、豪華俳優陣が共演。(「DVD NAVIGATOR」データベースより)

「日本では公開不可能と言われた問題作!」という評判で、単館系の劇場ではかなりの観客を動員していた作品。僕もぜひ一度観てみたいな、と思っていたのですが、ついにDVD化されました。

 確かに、「この作品をよく日本で公開できたな」と思いましたし、なかでも「昭和天皇」を演じたイッセー尾形さんには、かなりの「覚悟」が必要ではなかったかと。この映画は別に昭和天皇を茶化しているわけではないのですが、昭和天皇の口癖と言われている「あ、そう」というのが頻繁に出てきたり、昭和天皇がアメリカ人たちに対して「卑屈さと誇り」の狭間で揺れ動く場面がたくさん出てきますし。少なくとも今の時点ではイッセーさんは無事ですので(なんらかの脅迫とか批難は受けた可能性はありますが)、そういう意味では日本社会が「天皇制」というものに対して、ある意味「開かれてきた」ということなのかもしれません。しかし、僕が子供の頃の20〜30年前くらいは「天皇制廃止論」というのを(多数派ではないとしても)耳にすることも多かったのですから、「天皇制」そのものは、むしろ安定期に入ったのかな、とも思えます。そして、日本人にとって、あまりに記憶が鮮烈すぎて客観的に語ることができなかった「昭和天皇」についても、ようやくひとつの「歴史」として語られるようになりつつあるのでしょう。

 ただ、この映画に関しては、「史実をリアルに再現」とは考え難いんですよね。終戦時の昭和天皇の年齢を考えれば、ここまで「老成していた」とは思えません。イッセーさんも侍従役の佐野史郎さんも素晴らしい演技なのだけれども、イッセーさんは「芸達者」すぎて、イッセーさんの舞台を実際に観たことがある僕にとっては、ずっと「昭和天皇を演じるイッセー尾形」というネタを見せられているような違和感を払拭できなかったのです。どんなに特徴をとらえているからといって、ドラマでコロッケが美川憲一役で出演していたら、かえって「しっくりこない」ような気がしますよね。それに、この映画で描かれている昭和天皇というのは「孤独と苦悩の人」というよりは、「もともと人畜無害で覇気が無い人」のようにも見えるんですよね。いくらなんでも、そんなことないだろう、と。廃墟となった街で「ほっとけ」って見捨てられつつ喧嘩している市井の人々に比べて、「現人神」が不幸だとも思えないし……
 もちろん「人として神であること」は辛いことだろうけれど、それは、幸福とか不幸とかの次元の話ではなくて、単に、その人の「役割」みたいなものではないか、と僕は感じています。
 たぶん、昭和天皇のことを「強欲な侵略者」というふうに観ていた欧米の観客にとっては「驚くべき新鮮さ」がある映画だと思うのですが、日本人として歴史を学んできた僕にとっては、そんなにインパクトがある映画ではありませんでした。「昭和天皇の話」として観るよりは「権力の座にまつりあげられて、降りるための梯子を外されてしまった人間の普遍的な悲劇」として観るべき映画なのかもしれませんね。
 そうそう、ロシアで作られた映画なのにキャストが日本語で喋っていて、そういう「言語へのこだわり」は素晴らしいと思います。


<付記>参考リンク:昭和天皇は、「ロックンローラー」だった!
↑のエピソードを読んでみると、昭和天皇というのは、そんなに「枯れた」人ではなかったような気がするんですけどね。それとも、戦争が終わって「解放」されたことにより、昭和天皇の「生き方」も変わってしまったのでしょうか?

星新一さんが「書かなかったこと」

〔著者インタビュー〕星新一への鎮魂歌〜『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相葉月)
↑の記事を「はてなブックマーク」から見つけて、「絶対にこの本は読まなくては!」と息巻いてしまいました。
さて次の企画は - ショートショートの神様、星新一の知られざる生涯
pêle-mêle : ■「なんでぼくに直木賞くれなかったんだろうなあ」
この2つのエントリも含めて、この本をきっかけに「星新一」という作家への再評価が始まりつつあるような気がします。
僕も先日、星さんが書かれた「ちょっとした豆知識集(あるいはネタの断片)」である

きまぐれ遊歩道 (新潮文庫)

きまぐれ遊歩道 (新潮文庫)

↑を見つけて読んでみたのですが、「星新一は中高生の読み物」だと思い込んでいた自分の偏見をあらためて思い知りました。

文壇では子供向けの作家とみなされ、正当に評価されない。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」になぞらえ、「ホメラレモセズ クニモサレズ」とひとり密かに自嘲してみたり、「私の本は文学じゃない。七五三の千歳飴」と冗談めかしてこぼしていたようです。私自身、中学時代に全部読み終えると、卒業した気分で忘れ去っていたのですから、星新一を苦しめた「子供の読者」のひとりだったのです。

最相葉月さんは語っておられまずが、まさに僕もその「子供の読者」のひとりだったんですよね。一篇一篇が短い「ショートショート」であるために読みやすく、しかも面白い星さんの本は「子供でも読めてしまう」ので、かえって「子供向け」だと思われてしまって、「大人の読者」から敬遠されてしまっていたような気がします。「SF」というジャンルにしても、Wikipediaの星さんの項目に

星の作品、特にショートショートにおいては、通俗性を出来る限り排し、具体的な地名・人名といった固有名詞はあまり登場させない。また、例えば「100万円」とは書かずに「大金」あるいは「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。また存命中は、機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直し(「電子頭脳」を「コンピュータ」に直すなど)したという。激しい暴力や、性行為の描写は不得意だといい、非常に少ない。

という記述があって、確かにいま読み返しても、同世代の多くの作家たちに比べたら、時間の経過による「劣化」はごく軽微です。
いまでも文庫本が「夏の100冊」などのフェアのたびに平積みにされているのですから、「星新一の評価が下がった」なんていうのは僕(や他の「卒業」してしまった読者たち)の勝手なイメージであって、星さんと同時代の作家の亡くなられたなかでは、現代でも圧倒的に「読まれている人」だと言うべきなのかもしれませんね。
星新一はもうすぐ再評価されるはず!」なんて言う前に、「そもそも、評価が下がってなどいない」と言うべきなのか。
これだけの作家なのに、ジャンルのハンディキャップもあり、ほとんど文学賞などには無縁だというのも、星さんの特徴です。
というか、星新一という人は、ひとりで「ショートショート」というジャンルをメジャーにし、そして、あまりに存在が大きすぎたため、「ショートショート」の可能性を根こそぎ奪って去っていってしまったんだよなあ。ある作家が、「どんなショートショートを書いても、星新一さんが既に似たような作品を書いている」って愚痴っていたのを読んだことがありますし。

 「活字中毒R。」で、星さんが書かれたものを2度引用させていただいたことがあるのですが(出典はいずれも「きまぐれ遊歩道」)、

あなたには、本当の「貧乏」は理解できない。(「活字中毒R。('06/1/12)」)

1914年、オーストリア皇太子夫妻の暗殺を契機に、第一次世界大戦はじまる(「活字中毒R。('06/4/25)」)

 これらの星さんの文章と星さんの人生を重ね合わせてみると、星さんというのはサラサラと軽妙に書かれているように見えて、その「ショートショート」の行間には「書かなかったこと」「書けなかったこと」がたくさんあったのではないかなあ、という気がしてなりません。

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一 一〇〇一話をつくった人

僕も、この本は絶対に読みます。

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