琥珀色の戯言

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ホーホケキョ となりの山田くん ☆☆☆☆

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日本を代表するアニメーションスタジオ、スタジオジブリが贈る、高畑勲監督の1999年劇場公開作品。原作は朝日新聞に連載のいしいひさいちの4コマ漫画。どこにでもあるような平凡な家族の日常を、どこまでも明るく、あっけらかんと描いている。どこかなつかしく、心がちょっとあたたかくなるホームドラマだ。

 僕にとっては、ジブリの映画作品のなかで唯一未見だった作品だったのですが、先日御紹介した鈴木プロデューサーの本『仕事道楽』のなかのこんな記述を読んで、一度観てみようかな、と思ったのです。

 思い出すのは、『となりの山田くん』のときの会話。みなさん気がつかないかもしれないが、『となりの山田くん』はアニメーションとしてはとても難しいことをこなしています。連載漫画を見ればわかりますけど、顔がやたら大きく、二頭身なんですよ。これを動かすというのは大変なんです。足が短いからどうしても不自然になる。ジブリにいて『となりの山田くん』を担当していた、これも力量ある絵描き、仮にBとしますか、Bが「ちゃぶ台があって、そこに酔っ払って歩いてきたお父さんが座る」というシーンを描いていた。その短い足でどう座らせるか、下手なヤツが描くと不自然さがめだってしまいます。これを自然に描けるのはジブリのなかでもほんとに数人しかいない。Bはそれができる数少ない絵描きの一人なんですが、Aの力量も抜群だから、BはAに手伝ってほしい。Aは「いやいや」と逃げるけれど、やはり興味があるからBに聞く。「どうやって歩かせてる?」と。そうするとBは二本指を足に見立てて、動かせてみせて、「これでやってますよ」。するとAは「やっぱりそうですよねえ」。なんか武芸者同士の会話みたいで、とてもおもしろかった。腕のいい職人同士ならではということでしょうね。

 こういうことの「すごさ」って、言われてみないとなかなかわからないものですよね。

 観終えて、ああ、これは本当によくできた「ホームドラマ」だなあ、と感じました。矢野顕子さんの主題歌がすごくいいです。
 そして、高畑勲監督は、よくこの原作を100分の映画にまとめ上げたものだし、この独特の絵柄に「説得力」があるというのもまさに「偉業」なのでしょう。あらためてそう言われると、この絵をアニメーションとして安っぽく見せずに動かすって、素晴らしい技術なんですよね。
 ただ、この作品の最大の難点は、この「一昔前のホームドラマ」に対して、現代に生きる多くの家族は、「こんな長閑な時代じゃないよ……」と感じてしまうことではないかと思うのです。
 いまあらためて観ると、「家族」なんて、昔からずっとこんなもんだし、これでいいんだよな、と感じた場面も多かったし、すごく「癒された」のですけど、これは「時代錯誤」であり、もはや「歴史的遺物」なのではないか、としらけてしまう人もたくさんいるのではないかなあ。
 たぶん、この映画が公開された1999年当時もそうだったのでしょうし、僕も当時は「この御時世にジブリが『ホームドラマ』なんて」と感じた記憶があるのです。たぶん、制作側としては、「こんな御時世だからこそ」、この作品をつくったのだということが今になってみるとものすごくよくわかるのですが。
 劇場公開されて10年経ってみると、この映画には、家族という関係のある種の「普遍性」が描かれているように思われます。「家族なんて、そんなにみんなしっかりしてなくてもいいじゃないか、完璧じゃなくても、いや、完璧じゃないからこそいいんじゃないか」。
 テーマはさておき、こんな絵柄のアニメがある、というだけでも一見の価値はある作品です。今回あらためて見直してみて、ジブリの「黒歴史」みたいになっているのは、ちょっとこの作品にとってはかわいそうだな、と思っています。

「要は、勇気だけがないんでしょ?」という幻想


要は、勇気がないんでしょ?に対する根本的な誤解。(orangestarの日記(2008/9/8))

↑を読んで、目からウロコが落ちました(なんてベタな慣用句!)
ああ、素晴らしく身も蓋も無い正論だ……

鴻上尚史さんが、著書『孤独と不安のレッスン』で、こんなことを書かれていました(引用ではなく、僕が記憶しているものなので、まちがっているかもしれません。興味のある方は、原著にあたってください)。

あなたが有名なミュージシャンと知り合いになりたいとき、いちばん確実な方法は何だと思いますか?

うーん、マメにコンサートに通ったり、手紙を出すこと? つてを一生懸命たどって、そのミュージシャンの友達にたどり着くこと?

この問いに関する、鴻上さんの「答え」はこうでした。

あなた自身が有名なミュージシャンになること、です。
あなたが「一緒にステージに立ちたい」と思われるようなミュージシャンになれば、相手のほうから近づいてきますよ。

なんだそれは、と、お怒りの向きもあるでしょう。僕も最初にこれを読んだときは、正直ムカつきました。
そんなことができるなら、苦労しねえよ、と。

しかし、冷静になって考えてみると、それ以上に確実な方法ってないんですよね。
まあ、別の方法でものすごい金持ちになって、金の力でお近づきになる、という手はありそうですが、基本的に、芸能人とファン、という関係であるかぎり、「友達」になるのが難しいのは間違いありません。


この「要は、勇気がないんでしょ?」に関して言えば、「勇気」だけで解決できる問題というのは、実はすごく限られています。
極論すれば、「それを裏打ちするだけの自信や実力や実績がなければ『勇気』なんて出ない」し、「『勇気』というのは同じステージの上に立っていなければ生かせない資質」なのではないかと。

勇気って言うのは、頭の良さや、体力とかと違って可視化しずらいのでつい、努力とかと同じように個人がその気になればいくらでも搾り出せる魔法のエネルギーだと思われている節があるけれども、勇気は容姿や学力や知恵や体力と同じように生まれながらの先天的な要因や、生き方なんかの後天的な要素で決まるところが大きい。

確かに、「勇気」というのは有限であるにもかかわらず、なかなか可視化できない分だけ、「こんな自分でも、勇気さえ出せばなんとかなる」という「残酷な希望」として人々に尊ばれる傾向があるようです。

「才能の墓場から」(琥珀色の戯言)
↑における「才能」と、ここで語られている「勇気」というのは、まさに同じような役割を僕たちの人生で果たしているのです。
「あとは勇気さえ出せば……」って言いながら、ずっとずっと、その「勇気」を出せない。
本当に勇気を出して玉砕すると逃げ場がなくなるから、「あとは勇気さえ出せばいいんだ」という「わかりやすい希望が見える場所」に安住してしまう。

「勇気」なんて、そう簡単に出せるわけないんだよね。
「覚悟して行動に移す」ためには、一時の気持ちの盛り上がりよりも、日頃のトレーニングのほうが重要。
幕末の志士たちが、カッコよく切腹するために、どれだけ「自分の死のシミュレーション」を積んできたと思う?
まあ、そういう「覚悟」をしなくてすむ時代は幸福だし、僕も切腹したくないけどさ。

いや、「勇気を出して女の子に告白する」のは大事なことだよ。僕は勇気を全否定するわけじゃないし、ギリギリのところで勝負を決めるのは「勇気」なんだよ、たぶん。
でも、本当に難しいのは、「勇気で勝負が決まるところまでたどり着くこと」なんだよね。
鴻上さんの例でいえば、「一ファンがいくら勇気を持って告白しても、相手にもされない」けど、「同じ舞台にいる人」ならば、「勇気」の有無が決め手になるかもしれない。
会社の女の子と友達になりたいくらいなら、身奇麗にして、あとは「勇気」を出せ!
でも、ただ「勇気が出せない」ことを悩むだけなら、その時間に勉強するなり、一生懸命仕事をするなりしたほうがいい。
僕は思う。
僕が必要とされないのは、「勇気」が無いからじゃなくて、「力」が無いからなのだ。
「数値化できないもの」での一発逆転の幻想に浸るよりは、「やれば確実に積み上げられるもの」を信じるべきです。
もし君に、「時間」さえあるならば。


孤独と不安のレッスン

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