琥珀色の戯言

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「要は、勇気だけがないんでしょ?」という幻想


要は、勇気がないんでしょ?に対する根本的な誤解。(orangestarの日記(2008/9/8))

↑を読んで、目からウロコが落ちました(なんてベタな慣用句!)
ああ、素晴らしく身も蓋も無い正論だ……

鴻上尚史さんが、著書『孤独と不安のレッスン』で、こんなことを書かれていました(引用ではなく、僕が記憶しているものなので、まちがっているかもしれません。興味のある方は、原著にあたってください)。

あなたが有名なミュージシャンと知り合いになりたいとき、いちばん確実な方法は何だと思いますか?

うーん、マメにコンサートに通ったり、手紙を出すこと? つてを一生懸命たどって、そのミュージシャンの友達にたどり着くこと?

この問いに関する、鴻上さんの「答え」はこうでした。

あなた自身が有名なミュージシャンになること、です。
あなたが「一緒にステージに立ちたい」と思われるようなミュージシャンになれば、相手のほうから近づいてきますよ。

なんだそれは、と、お怒りの向きもあるでしょう。僕も最初にこれを読んだときは、正直ムカつきました。
そんなことができるなら、苦労しねえよ、と。

しかし、冷静になって考えてみると、それ以上に確実な方法ってないんですよね。
まあ、別の方法でものすごい金持ちになって、金の力でお近づきになる、という手はありそうですが、基本的に、芸能人とファン、という関係であるかぎり、「友達」になるのが難しいのは間違いありません。


この「要は、勇気がないんでしょ?」に関して言えば、「勇気」だけで解決できる問題というのは、実はすごく限られています。
極論すれば、「それを裏打ちするだけの自信や実力や実績がなければ『勇気』なんて出ない」し、「『勇気』というのは同じステージの上に立っていなければ生かせない資質」なのではないかと。

勇気って言うのは、頭の良さや、体力とかと違って可視化しずらいのでつい、努力とかと同じように個人がその気になればいくらでも搾り出せる魔法のエネルギーだと思われている節があるけれども、勇気は容姿や学力や知恵や体力と同じように生まれながらの先天的な要因や、生き方なんかの後天的な要素で決まるところが大きい。

確かに、「勇気」というのは有限であるにもかかわらず、なかなか可視化できない分だけ、「こんな自分でも、勇気さえ出せばなんとかなる」という「残酷な希望」として人々に尊ばれる傾向があるようです。

「才能の墓場から」(琥珀色の戯言)
↑における「才能」と、ここで語られている「勇気」というのは、まさに同じような役割を僕たちの人生で果たしているのです。
「あとは勇気さえ出せば……」って言いながら、ずっとずっと、その「勇気」を出せない。
本当に勇気を出して玉砕すると逃げ場がなくなるから、「あとは勇気さえ出せばいいんだ」という「わかりやすい希望が見える場所」に安住してしまう。

「勇気」なんて、そう簡単に出せるわけないんだよね。
「覚悟して行動に移す」ためには、一時の気持ちの盛り上がりよりも、日頃のトレーニングのほうが重要。
幕末の志士たちが、カッコよく切腹するために、どれだけ「自分の死のシミュレーション」を積んできたと思う?
まあ、そういう「覚悟」をしなくてすむ時代は幸福だし、僕も切腹したくないけどさ。

いや、「勇気を出して女の子に告白する」のは大事なことだよ。僕は勇気を全否定するわけじゃないし、ギリギリのところで勝負を決めるのは「勇気」なんだよ、たぶん。
でも、本当に難しいのは、「勇気で勝負が決まるところまでたどり着くこと」なんだよね。
鴻上さんの例でいえば、「一ファンがいくら勇気を持って告白しても、相手にもされない」けど、「同じ舞台にいる人」ならば、「勇気」の有無が決め手になるかもしれない。
会社の女の子と友達になりたいくらいなら、身奇麗にして、あとは「勇気」を出せ!
でも、ただ「勇気が出せない」ことを悩むだけなら、その時間に勉強するなり、一生懸命仕事をするなりしたほうがいい。
僕は思う。
僕が必要とされないのは、「勇気」が無いからじゃなくて、「力」が無いからなのだ。
「数値化できないもの」での一発逆転の幻想に浸るよりは、「やれば確実に積み上げられるもの」を信じるべきです。
もし君に、「時間」さえあるならば。


孤独と不安のレッスン

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