琥珀色の戯言

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第141回芥川賞選評


文藝春秋 2009年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2009年 09月号 [雑誌]

今号の「文藝春秋」には、受賞作である磯崎憲一郎さんの『終の住処』の全文とともに、芥川賞の選評も掲載されています。以下、恒例の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

山田詠美
 『あの子の考えることは変』。加速度のついた会話のやり取りが面白かった。しかし、それは目で読むおもしろさではなく、耳で聞くおもしろさのような気がする。読んだ側から言葉が消えて行ってしまい、印象に残らない。日田の気持の悪さは秀逸だが、境界例の不思議ちゃんの話には、もう辟易。

小川洋子
 (『終の住処』『白い紙』『いけにえ』を除く)あとの三作品は、私にとっては少々にぎやかすぎた。自分はこんなにも普通でない人々を描けるのだ、と声高に叫ばれると、それだけで白けてしまう。過剰なサービスに疲れてしまった、とも言える。
 書き手は、小説を使って決して自慢をしてはならないのだ、と思う。

石原慎太郎
 彼等(昔、芥川賞候補になった作家たち)にとって小説を書くという作業はそれぞれの人生にとって、ある不可欠な動機に裏打ちされていた証左といえるだろう。その意味でかつての頃の作家なるものは、文学の世界もいかにも狭く、それ故にも厳しく選ばれた、というよりも自らを物書きとして選んだ人間たちだったに違いない。ということで、この今を眺めなおすと、文学賞もやたらに増えはしたが、新人作家なるものがどれほど、狂おしいほどの衝動で小説という自己表現に赴いているかはかなり怪しい気がする。
 それは、作家の登竜門ともいわれている芥川賞候補作品なるものが、年ごとに駄作の羅列に終わっているのを見てもいえそうだ。彼等は彼等なりに、こちらは命がけで書いているのだというかも知れないが、作品が自らの人生に裏打ちされて絞りだされた言葉たちという気は一向にしない。

(中略)

 受賞作となった磯崎憲一郎氏の『終の住処』は結婚という人間の人生のある意味での虚構の空しさとアンニュイを描いているのだろうが、的が定まらぬ印象を否めない。これもまた題名がいかにも安易だ。
 選者に未知の戦慄を与えてくれるような作品が現れないものか。

黒井千次
 磯崎憲一郎氏の『終の住処』は、固くごつごつとした物体を積み上げることによって出現した、構築物のような小説である。そこには、流れる時間ではなく、堰止められた時間が層をなして重なっている。

高樹のぶ子
 小説が書かれる目的は、「人間に触れる」ことだと思う。リアリズム非リアリズムを問わず、形式も問わないが、ただその一点だけは求める。勿論ナメクジと薔薇だけを描いていてもそれは可能だ。読み終えて人間に触れた実感が無いか希薄なときは、作品そのものが記憶に残らない。記憶に残る作品が優れているかどうかは一概には言えないが、記憶に残らないものは駄目。読者に記憶されるには「説明を越える、あるいは、説明を必要としないシーン」が必要になる。

川上弘美
 『あの子の考えることは変』は、よく書いている。活力ある書き手だと思います。ただ、主人公二人の「変」さがあまりに堅固なような気がするのです。その堅固さを維持するために、どこかに無理がいっているという印象を持ってしまいました。

宮本輝
 私は、磯崎氏の今回の候補作での受賞には賛成できなかったが、受賞によって無用な鎧兜が脱げたときの化け方が楽しみな書き手だと思う。さてどう化けてくれるであろうか。

村上龍
 イラン人女性が書いた『白い紙』については、外国人が日本語で小説を書くことについての議論もあった。外国人の日本語習得の努力にはリスペクトを持つが、作品の質には関係がない。イラン人が日本語で小説を書こうが、ペルシャ語で書こうが、日本人が日本語で書こうが、つまらないものはつまらない。今は外国人が日本語で小説を書くことが珍しいからメディアは話題にするが、今後は当たり前のことになっていって、話題にもならなくなる。だから、外国人が日本語で小説を書くことの意味や意義を加味して選考するべきではない。

池澤夏樹
 小説には文法がある。敢えてそれを変えてみると、うまくいけばおもしろい結果が得られる。
 磯崎憲一郎さんの『終の住処』はその好例である。通常の小説と何が違うかといえば、第一に主人公が徹底して受動的であること。第二に、停滞と跳躍をくりかえす時間処理が独特であること。第三には時として非現実的な現象が平然と語られること。

(中略)

 シリン・ネザマフィさんの『白い紙』は技術的に未熟だが、これが日本語で書かれたことには文学とは異なる文化論の観点から意味がある。

 石原慎太郎節は相変わらず健在だな、と苦笑したり、村上龍さんは楊逸さんのときに、「文学から社会へのアプローチとして、芥川賞を授賞してみては」なんて言っていたことを思い出したりしながら読んだのですが、今回の「選評」は、総じて無難というか、読んでいて感動するような「読んでよかったと思えるフレーズ」はありませんでした。
 あえていえば、高樹のぶ子さんの選評くらいかな、面白かったのは。
 「選評フォロワー」の僕としては、川上弘美さんの選評が、なんだかちょっとまともになってしまったことも含めてさびしいかぎりです。
 あとは、山田詠美さん、小川洋子さん、川上弘美さんという、現在の女性作家の代表ともいえるお三方が、そろって、「もう『変な人』の話を読むのは飽きた」と書いておられたのが印象的でした。最近の芥川賞は、たしかに「いかに『変な人』のことをうまく書くか」という技比べになっていたような気がするのですが、前回受賞作の『ポトスライムの舟』あたりから、「普通の人」を丁寧に描くことを評価する方向にシフトしてきたのかもしれません。『終の住処』を読んでみて、僕は「ああ、ものすごく『純文学らしい純文学』だな」と感じました。
 まあ、受賞作も選評も「落ち着いていた芥川賞」だったと言えるかもしれませんね。
 こういう回があるのは当然なんですが、なんとなく物足りない気もしなくはないです。

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