琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「本の尊厳をこんなに傷つけられる世の中になるなんて」

参考リンク(1):弘兼さんら7人が自炊代行業者を提訴 「著作権法違反」電子化禁止を求める(MSN産経ニュース)


参考リンク(2):イチから分かる「自炊問題」 譲渡はアウト(産經新聞)


参考リンク(3):紙は捨てて「電子データ」に 書籍の「自炊」テクニック


法律的には、いたってシンプルな問題ではあるんですよねこれ。
参考リンク(2)にあるように、

著作権法で「著作者は、その著作物を複製する権利を専有する」とする複製権が規定されており、例外として個人や家庭で楽しむ場合に限って「その使用する者が複製することができる」と認められている。

 自炊代行サービスは、利用者が紙の本を郵送すると、数日〜数週間で業者が電子データ化してくれるサービスで、1冊当たりの値段は安い店では100円程度。しかし、先の条文に照らせば、業者に委託して電子データ化(複製)することは「その使用する者が複製すること」に該当しているとはいえない。

要するに、「本を買った本人が、自分が利用する範囲内で『自炊』をするのは構わないが、それを他者に売るのはもちろん、他人に頼んで複製してもらうのもダメ」ということのようです。


僕はいままで、「自炊」をやったことはありませんが、「自分で使うんだったら、業者に頼んで複製してもらうのは構わないんじゃないか」と思っていたのです。
自分でやるのはけっこう手間がかかりますし、電子書籍版がなかったり、あっても紙の本と同じくらいの価格のものをもう一度買い直さなければならないと思うと、業者に頼んだほうが手っ取り早そうだし。


本好きとしては、「紙の本という物質への愛着」は、ものすごくあります。
電子書籍は、やっぱり味気ない。
しかしながら、現実問題として、「本の置き場がない」。
「本を置くための部屋を借りる」とか、「自宅に書庫をつくる」なんてことができるほどの経済力があれば良いのですが、ほとんどの本好きは「家が狭い」「この本をなんとかしてくれ」という家族からのクレームにさらされているはずです。
そういう本を「電子化」できれば、問題はかなり改善されるはず。
それを全部自力でやるのは、あまりにも時間がかかるので、少々お金を使っても、業者に頼めれば……とも考えてみるのです。
「自炊」をやっている人には、自分の好きな本をスマートフォンに入れて持ち歩きたいとか、データ化して紙の本を処分したい、という人が多いんじゃないかなあ、と思うんですよ。
他人に売り捌こう、というよりは。


オリコンの記事には、各作家のもう少し詳しいコメントが掲載されていました。

 会見場の隅には実際に裁断された状態の本が積まれ、「作品は血を分けた子供と同然。自分が作りだした本が見ず知らず人の手によっていいようにされ、あずかり知らぬところで利益にされる。裁断された本は正視にたえない」と、静かな口調で憤りを語るのは浅田氏。また林氏も「このような本の無残な姿を見るとは…。本というものの尊厳をこんなに傷つけられる世の中になるなんて」と、苦い思いを明かした。


 会見の後半に取材陣から「そもそも、電子書籍がもっと普及していればこのような事態は起こらなかったのでは?」という声が出ると、電子書籍に積極的な姿勢を持つ大沢氏が回答。電子と紙媒体の健全な発展を目指し「電子書籍事業が出版業界全体にとってプラスに働くために絶対に海賊版の普及を食い止めなければならない。その最も大きなきっかけとなりかねないのがスキャン事業であり、だからこそ重要だ」と明言する。


 この記者の意見に激しい怒りを露わにしたのは、それまで一番口数の少なかった東野氏だ。「このスキャンの問題に関して、個人的には電子書籍と全然関係がないと考えています」とキッパリ。「『電子書籍を出さないから、このような行為が起こるんだ』という言い分があるなら、私はこう言います」と、数秒の沈黙を経て「“売ってないから盗むんだ”こんな言い分は通らない!」と断言し、「電子書籍については、全く別のところで議論すべきだと思っています。また、電子書籍が普及しても、この違法スキャン業者は無くならないと思います」と、猛烈に批判した。

うーむ、「会見場の隅には実際に裁断された状態の本が積まれ」なんていう演出は、正直言って、バカバカしいというか、そんな方法で情に訴えられても……と、あざとさを感じてしまいます。
 つい、「じゃあ、本をバラバラにしないでスキャンできるのならいいの?」とか、揚げ足をとりたくなってしまうのです。
(ちなみに、まだそれほど一般には普及していませんが、技術的には可能です)


大沢さんと東野さんの怒りには、僕も共感できるんですよ。
「作家の権利と生活を守るためには、電子ファイル化された『海賊版』は許せない」ということならば。
東野さんは、以前、こんな文章を書かれていました。


『たぶん最後の御挨拶』(東野圭吾著・文藝春秋)より。

(2002年の「年譜」の一部です)

 わからないといえば出版界の先行きだ。本当にもう本の売れない時代になった。不況の影響はもちろんあるだろう。書籍代というのは、真っ先に倹約するのが可能なものだからだ。図書館に行けば、ベストセラーだって無料で貸してくれる。レンタル業なんかも登場しつつある。どういう形にせよ、読書という文化が続いてくれればいいとは思う。しかし問題なのは、本を作り続けられるかどうか、ということだ。本を作るには費用がかかる。その費用を負担しているのは誰か。国は一銭も出してくれない。ではその金はどこから生み出されるか。じつはその費用を出しているのは、読者にほかならない。本を買うために読者が金を払う。その金を元に、出版社は新たな本を作るのだ。「読書のためにお金を出して本を買う」人がいなくなれば、新たな本はもう作られない。作家だって生活してはいけない。図書館利用者が何万人増えようが、レンタルで何千冊借りられようが、出版社にも作家にも全く利益はないのだ。だから私は「本を買ってくれる人」に対して、これからもその代価に見合った楽しみを提供するために作品を書く。もちろん、生活にゆとりがないから図書館で借りて読む、という人も多いだろう。その方々を非難する気は全くない。どうか公共の施設を利用して読書を楽しんでください。ただし、「お金を出して本を読む人たち」に対する感謝の気持ちを忘れないでください。なぜならその人たちがいなければ、本は作られないからです。


(『容疑者Xの献身』で、第134回直木賞を受賞された、東野圭吾さんの自伝エッセイ「楽しいゲームでした。みなさんに感謝!」の一部です)

 そして7月2日の午後7時半頃、運命の電話が鳴った。
「おめでとうございます」
 この台詞を耳にした時には、頭がくらっとした。新しい世界への扉が開かれる音がはっきりと聞こえた。
 事実、それからほんの少しの間はバラ色だった。単行本の『放課後』は十万部も売れた。週刊文春のベストテンで1位にも選ばれた(当時が乱歩賞作品が1位になるのがふつうだったが、そんな事情は知らなかった)。
 しかしそんなものが長く続かないことは私にもわかっていた。ここが勝負所だと思った。それで会社を辞めて上京することを決心した。
 ところが上京後に会った編集者は明らかに困惑していた。
「あんなにいい会社、よく辞める決心がつきましたね。一言相談していただければ、アドバイスできることもあったのですが」
 新人賞を獲り、浮かれて会社を辞めて上京――おそらくそういう新人作家が多いのだろう。それを思いとどまらせるのも彼等の仕事なのかもしれない。
「大丈夫です」私はいった。「十分に計算した上でのことです」
「いや、そうはいっても筆一本で食べていくのはなかなか大変ですよ」
 依然として不安そうな彼に私は次のような話をした。
『放課後』は10万部売れた。しかしそれは乱歩賞受賞作だからであり、今後そんなに売れることはありえないだろう。妥当な数字はその十分の一だと考える。つまり1万部だ。
 一方会社を辞めることで執筆に専念できるから、年に三作は書くつもりである。
 千円の本なら印税が百円入る。要するに年間の印税収入は300万円ということになる。これは会社員時代の年収とほぼ同じである。
 以上の話を聞いた編集者は、そこまで考えておられるのなら大丈夫でしょうといって、ようやく笑ってくれた。どうやら彼は私の会社員時代の給料を過大評価していたようだ。
 自分で言うのも変だが、この時のシミュレーションは、デビューしたての新米作家が立てたものにしては、じつに正確だった。実際、上京してからの数年間の収入は、この想定額を少し上回る程度にすぎなかったのだ。そしてそのことに不満はなかった。この業界で生きていくことは、当初覚悟していた以上に厳しかった。乱歩賞という看板の有効期間は驚くほど短かった。何しろ翌年の乱歩賞受賞パーティでは、担当編集者以外、殆ど誰も私の名前を覚えていなかったのだ。乱歩賞でさえそんな具合なのだから、他の新人賞ともなればもっと厳しい。毎年、多くの新人作家がデビューしてはいつの間にか消えていくという状況を目にするうち、作家として生活ができるだけでもありがたいと思うようになった。

 いまや、東野圭吾さんといえば、日本一のベストセラー作家なのですが、東野さんは、ごくごくひとにぎりの「成功例」です。
 現在の日本で、作家としての仕事だけで生活できている人は、非常に少ないと思われます。
 だって、単純計算で、毎年、1000円の本を10万部売って、年収1000万円ですよ。
 この「本が売れない時代」に、そんな作家が何人いることか。
 そういう作家は「希少」なのに、そのくらいでは「大金持ち」とは言いがたい。
 それが「作家生活の現実」。
 もちろん、お金だけの話じゃないけれど。


 iPodの普及は、CDの売上に大きなダメージを与えましたが、いまとなっては、「iPhoneに入れられないCD」は、売れないはずです。
 本を読む側としては、これからも面白い本が出版され続けるように、作家たちを支援したい。
 彼らが、書くことに集中できるくらいの収入は得られるようにしてあげたい。
 でも、それはそれとして、「本がかわいそう」なんていう情緒的な反応ではなく、「紙の書籍を購入したら、電子書籍版をダウンロードできるようにする」とか、「電子書籍版を格安で購入できるようにする」というような、歩み寄りをみせてほしいな、とも感じるのです。
「バラバラにされる本の悲しみ」を想像するのであれば、「本を捨てたくない本好き」の気持ちも、少しは慮ってくれても良いのでは。

 
 「電子化」って、ある意味、出版社にとってもチャンスだと思うんですよね。本を読める場は、確実に広がるわけだから。
 スマートフォンで直接、本を買って読めるようになると、いままで出版界を支えてきた、取次とか書店とかが困る、という事情もあるのでしょうけど……


 結局のところ、いま、「本が売れない」原因のひとつは、「尊厳」とかを持ち出してしまう、本をつくって売る側と、「世の中にたくさんある娯楽コンテンツのうちのひとつ」だとみなしている、本を読む側の「温度差」なのかもしれないな、と僕は思うのです。

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