- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: ミシマ社
- 発売日: 2014/10/24
- メディア: 単行本
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内容紹介
日本はなぜ、「戦争のできる国」に
なろうとしているのか?
安倍政権の政策、完全予測!
全国民の不安を緩和する、「想像力の使い方」。
シリーズ22世紀を生きる第四弾! !
改憲、特定秘密保護法、集団的自衛権、グローバリズム、就職活動……。
「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていること」を、別の視座から見ると、
まったく別の景色が見えてくる!
現代の窒息感を解放する、全国民必読の快著。
内田樹先生の「街場」シリーズも、だいぶ種類が増えてきました。
書店で見かけると、「これ、前に読んでいなかったよね……」と、思わずAmazonで検索してしまいます。
率直に言うと、書店で何ページかめくってみても、「この文章、読んだことがあるようなないような……」と判断しかねることも多いのです。
内田先生の場合は、ネット上で既読、というケースも少なくないですし。
「もし、ミッドウェー海戦の直後、日本がアメリカと講和していたら、日本と日本人はどうなっていたのか?」という内田先生の思考実験は、とても興味深いものでした。
太平洋戦争での敗北から、日本はアメリカの「言いなり」になり続けている国で、すっかり「アメリカの顔色をうかがう政治家とマスコミばかり」になっているという言葉には、ものすごく痛い所を突かれている感触があるのです。
ただ、この本を読んでいくと、「結局、何が言いたいのかな……」ともどかしくなってもきます。
安倍晋三首相が嫌い、アメリカが嫌い、アメリカの利益イコール日本の国益だと信じ込んでいる、日本の「言論人」たちが嫌い、拝金主義が嫌い……
「じゃあ、内田先生は、どんな日本であることを希望しているんですか?」
そう問いかけたくなってくるんですよね。
僕が「戦後レジーム」と呼ぶのは一言にして言えば、主権のない国家が主権国家であるようにふるまっている事態そのもののことです。どうせそう呼ぶなら、それをこそ「戦後レジーム」と呼んでいただきたい。
この国は久しく重要な政策については自己決定権を持っていません。重要な政策についてはアメリカの許可なしには何もできない。自前の国防戦略も外交戦略も持つことができない。起案しても、アメリカの同意がなければ政策を実現することができない。最終決定権を持てないのであれば、それについてあれこれ議論しても始まらない。それについて考えてもしかたがない。だったら、自前で考えて、それについてアメリカに可否の判断をいちいち仰ぐより、最初から「アメリカが絶対に文句を言いそうもない政策」だけを選択的に採用すれば効率的ではないか、そう考える人が統治システムのあらゆる場所で要路を占めるようになりました。すべての政策が「アメリカが許可するかどうか」を基準にして議論される。自分たちとしてはこれがいいと思って熟議した後に差し戻されて、またやり直すくらいなら、最初から「アメリカが許可してくれそうなこと」を忖度して政策起案したほうが万事効率的である。そういう考え方を人々がするようになった。それが70年二世代にわたって続いている。
僕が生まれてから40年あまり、日本は自国民が「戦死」するような戦争はしていません。
「戦後の平和教育」を受けていた僕にとっては、「アメリカの忠犬だと嘲られようが、自分が戦場に行かずに済んだのは幸運なことだ」という意識があるのです。
でも、そういうふうにしか考えられなくなってしまっていることが、いまの日本の根本的な問題なのだ、と言われると、考え込まずにはいられません。
日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国です。そして、二重の意味で従属的です。一つは今述べたように、重要政策について自主的に決定できないから。もう一つ、もっと重要なのは、従属国であるという事実それ自体を隠蔽しているからです。
イラク戦争についても、ヨーロッパでは多くの国が疑念を呈していたにもかかわらず、日本ではその妥当性が強く問われることはありませんでした。
「同盟国のアメリカがやるって言っているのだから」という理由で、「それじゃあ仕方ないな」と、支持したことが正当化されてしまうのです。
いや、僕だって、「だって、アメリカには逆らえないものな」と思っています。
安倍首相が中国や韓国に対して、強硬な姿勢をみせていても、「ホワイトハウスが不快感」というニュースが流れると、あっさり「軟化」してしまう。
それは、ものすごく現実的な選択なのかもしれないけれど、「それで良いのか?」と問う姿勢すら、今の日本では「国益を損ねる」と批判されがちです。
アメリカの許可を得ずに日本が展開した外交の最後の企ては、1972年に田中角栄と周恩来の間で取り交わされた「日中共同声明」だったと僕は思います。田中角栄が電撃的に「日中共同声明」を発表したとき、キッシンジャーは「田中を決して許さない」と激怒したと伝えられています。そして、その直後、アメリカの上院で開示された情報で田中が没落するというロッキード事件が起こります。
僕たちが知るかぎり、戦後アメリカに逆らって独自外交を展開しようとした総理大臣が長期政権を保った事例はありません。民主党政権の鳩山由紀夫がそうでした。オリバー・ストーンは先の講演の中で「日本には大義や理想を語る政治家がひとりもいない」と言ったあとに前言撤回して、「いやひとりいた。それは最近オバマ大統領の沖縄政策に反対してオバマにやめさせられた人だ」と付言しました。鳩山にしても小沢一郎にしても、民主党政権のときに明確に対米自立を口にした政治家たちはたちまちのうちに引きずりおろされました。
ただし、オリバー・ストーンが「オバマにやめされられた」というのは間違いだと思います。だって、アメリカ大統領にはそんな内政干渉じみた直接行動をとる必要がないからです。「この政策はアメリカの国益に反するのではないか」と忖度して、「鳩山をおろせ」と活発に世論形成してくれる政治家や官僚やジャーナリストが日本国内には掃いて捨てるほどいるのですから。
鳩山首相は「外国の軍隊が占領している土地を日本に返してほしい」という当然の希望を述べただけです。でも、「そういうことを言って日米同盟関係の信頼を傷つけたことによって日本の国益を損なった」というロジックが連日メディアを賑わしました。アメリカの国益を損なう人間は日本の国益を損なう売国奴だという奇妙なロジックに対して誰も「変だ」と言わないことが「変だ」と僕は思います。
うーむ。鳩山さんは、やっぱり「政治家としては、理想ばかり追って、現実が見えていない人だったのではないか」と僕は思うんですよ。
でも、ここで内田先生が仰っていることもまた、真実なんですよね。
鳩山さんが主張していたことは、けっして間違ってはいない。
「僕には、それを現実にするのが、あまりにも難しくみえた」だけのことで。
また、内田先生は、こんな話もされています。
国民国家の株式会社化」の先行例、成功例はシンガポールです。これについてはもう何度も書きました。僕は個人的にはシンガポールに何の恨みもないのですが、この国をモデルにして日本の社会システムを書き換えようとしている人たちに対しては、やはりきっぱりと「それは止めてくれ」と言いたいのです。
シンガポールは民主国家ではありません。かの国の政情をご存じの方はあまり多くないと思いますが、シンガポールでは人民行動党という政党の事実上の一党独裁が建国以来半世紀続いています。国内治安法という法律があって、反政府的な活動をするものは令状なしに拘禁することができます。反政府メディアは存在しません。労働組合は政府公認のものしかありません。大学生は入学に際して反政府的な意見を持っていないことを証明する書類の提出を求められます。そして、シンガポールの国家目標は「経済発展」です。それが国家目標であり、すべての社会制度は経済成長に適合するかどうかを基準にその適否を判断される。そういう国です。警察が市民生活のすみずみまで見張っていますから、もちろん治安はいい。法人税も所得税も安い。ビジネスをする環境としても、富裕層が活発な消費活動をするための環境としても世界屈指です。世界中から起業家や「もう『すごろく』を上がった」のであとは租税回避と消費活動にしか興味がない超富裕層たちが続々と集ってくる。
内田先生は、「経済発展のためには、効率的であることが必要である」という見地から、「民主主義の諸手続きは、決断が遅くなるため経済発展には不向きである」と仰っています。
そして、「経済発展第一」という視点にたてば、民主主義は、切り捨てられていくのではないか、と危惧されているのです。
たしかに、シンガポールをみていると、「有能なリーダーによる独裁(的な)政治は、経済発展をもたらしやすい」のでしょうね。
でも、日本くらいの規模の国で、シンガポールと同じような「国そのものがひとつの会社」のような運営は難しいのではないか、とも。
このまま、次の世代にも「とにかくアメリカについていけ」「経済発展こそが、最も重要なのだ」と伝えていくべきなのか?
それとも、停滞を受けいれて、独自路線を模索するべきなのか?
この本、かなり興味深い思考実験だと僕は思います。
「アメリカに従属するのが当然」と思考停止してしまっていた自分に、気づかされましたし。