琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】旅はときどき奇妙な匂いがする ☆☆☆

内容紹介
なぜひとは旅に出るのか――サラリーマン人生を棒に振って旅を選んだ男が再びアジアを放浪する。それでも私は旅をしたい。チカラ入りまくりの脱力系旅エッセイ。


 僕は自分自身が出不精にもかかわらず(というか、出不精だから、なのかもしれないけれど)、旅行エッセイ(あるいは旅行記)が好きで、宮田珠己さんの本もよく読んでいます。
 「脱力系」というか、他の人の目が向かない、届かない隅っこ、ミュージカルの舞台で主役ではなく、バックダンサーの動きについつい注目してしまう、そんな立ち位置が、僕はけっこう好きなのです。
 

 格安航空便もけっこう普及し、その気があれば、世界中に行けるようにもなり、ネットでけっこうニッチな海外情報も手に入る世の中では、「旅行エッセイ」を書くことは、難しくなってきているのではなかろうか。
 昔は、テレビの旅番組では、有名タレントが有名な観光地を訪ねる、というのが主流だったけれど、いまのテレビでは、タレントを使わずにディレクターが現地に長期滞在したり、海外から来ている外国人に「ぶっつけ」で取材をする番組が出てきていますしね。
 それこそ、高野秀行さんの『ソマリア』シリーズくらいじゃないと、「そんなところにまで行くのか!」と、驚かないのです。


 そんな世の中で、「旅行エッセイスト」は、何を書くべきなのか?

 今こそ、誰もがなしえなかったことをなさねばならない、という使命感を捨て、それどころか見聞を広めようという野心すら放棄した、純粋ピュアな旅が求められている。
 好奇心があるときは好奇心の赴くまま、好奇心がないときは何もしないまま、たとえまとまりがなく、結果が中途半端であっても、眠いときは眠り、面倒くさいときは動かないなど、自分の気分と都合だけを優先して悔いのない旅。そんな旅を、すみやかに実行に移さなければならない。
 だから今、私は高らかにこう宣言したい。
「旅行に行くので、仕事休みます」
 それは昔サラリーマンだった頃に、何度も口にしたセリフであり、自分を救う無敵の言葉であった。


 この本を読んでいると、「好きなことを仕事にしてしまう」というのは、それはそれで苦しいものなのかもしれないな、と思うんですよ。
 宮田さんがリラックスできる旅と、エッセイにして面白い旅にはズレがあって、それは、宮田さん自身にもわかっている。
 あえて「旅行エッセイのためじゃない旅」をして、それをエッセイにしてみる、という、かなりねじれたコンセプトで書かれた本なのです、これ。
 行き先も、台湾とか熊本とか、そんなに珍しくもない、というか、2泊3日くらいで誰でも行けるようなところが多いですし。

 
 そして、このエッセイのなかで、宮田さんは、謎の身体的不調<ペリー>との葛藤について、延々と書いておられます。
 個人的には、この<ペリー>で宮田さんが受診してきたら、どうしようかな……とか、ちょっと考え込んでしまいました。
 いろんな検査もされているみたいなんですけどねえ……


 また、長年の旅人である宮田さんは、「昨今の旅の様相の変化」について、こんなことも書かれています。

 これはインドに限ったことではないが、インターネットの普及で、海外旅行が不自由になってきたのである。
 これまで、海外の宿は、現地に行って飛び込みで泊まるものであり、直接電話して予約できるほど現地語が堪能か、あるいは旅行会社に手数料を払って依頼しない限り、日本から予約などできなかった。
 それが今では、小さなゲストハウスでも、日本から、自分でネット予約できたりする。
 当然予約を入れておいたほうが、安心かつ効率的であって無駄がない。
 だが、効率的であって無駄がないことは、旅の自由さとは矛盾する。むしろそうなると、予約した通りに行動しなければならなくなって不自由なのである。はじめはこっちに行こうと思っていたけど、やっぱりあっちのほうが面白そうだからあっちに行こうというような臨機応変な対応ができにくくなるのだ。
 予約なしで出かけることは今も可能とはいえ、世界中どこからでも予約できるということは、それだけ宿が早く埋まってしまう可能性があるということでもあり、どこも満室だったら困るから、最低限の宿は予約しておこうと思う自分もいて、そうして予約しようと思ったら英文でメールを送らないといけなくて面倒臭いから、やっぱりいいや現地に着いてからで、ってんで行ってみたら案の定満室、みたいな難儀な事態が容易に想像できる。
 便利になればなるほど不自由になるこの本末転倒。
 旅が、というか、旅本来の持ついい加減な感じが、みるみる我々の手から奪われていく。


 これまで、バックパッカーをやっていた人などにとっては、こういう「便利さと引き換えに旅が不自由になった」という感覚もあるのだなあ、と。
 世界は狭くなったけれど、そのおかげで、旅ならでは、という状況は、確かに失われていっています。
バックパッカーたちに貸し借りされて、シルクロードを何往復もした日本語の本」の話を聞いたことがあるのですが、今では、ネット環境があれば、世界中どこでも日本語の本(あるいは日本語の情報)がすぐに手に入りますしね。
 これまで経済力がなくて海外旅行に行けなかったアジアの国々などでは、いま、「海外旅行ブーム」が起きているという現実も、一方にはあるわけですが。


 このエッセイ集について、宮田さんは、「おわりに」で、こう語っておられます。

 旅の中にいるときの日常とは異なる感覚、興奮と不安とときに倦怠が同居し、意識がいつもと違う位相で覚醒しているような旅の時間。私はどうもあの非日常感に惹かれて旅を続けているように思うのだ。だから、それをそのまま描写してみたかった。
 その場合、旅先がどこであるかはあまり重要な問題ではなくなって、つまりどこでもいいから楽しそうな場所に行こうと、行き先はわりと適当に決めた。アジアにしぼったのは、飛行時間が短くて済むという、ほぼそれだけの理由である。
 なのでこの本は、旅先の国や地域の文化についてほとんど触れられることのない旅行記になっており、かといって自分探しのような切実な内容とも違い、旅の感触にまつわる話がメインになっている。


 宮田さんの「狙い」みたいなものは理解できるのだけれど、僕にとってのこのエッセイは、「なんだか起伏に乏しいし、新しい発見もないし、そんなに長くないのになかなか読み終われない、かったるい旅の話」だったことを告白しておきます。
 面白い試み、だとは思いますが、宮田さんの大ファン以外には、ちょっとつらいかもしれません。
 僕はまだ、「飽きる」ほど旅をしていないから。

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