琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ロング・グッドバイ ☆☆☆☆


出版社 / 著者からの内容紹介
テリー・レノックスとの最初の出会いは、〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた……。

私立探偵フィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には哀しくも奥深い真相が隠されていた……大都会の孤独と死、愛と友情を謳いあげた永遠の名作が、村上春樹の翻訳により鮮やかに甦る。

歴史的名作を読んでみるシリーズ。
最近出た「軽装版」で読みました。
しかしこの本、「軽装版」といっても「訳者あとがき」も含めて711ページのかなり分厚い本です。これで税込1470円というのは非常に良心的な価格ではあるのですが、持ち歩くのはけっこう大変。

本好き、ミステリ好きなら、一度は耳にしたことがあるはずのレイモンド・チャンドラーの名作『長いお別れ』を村上春樹さんが「新訳されたのがこの本。
読みごたえは十分、なのですが……

この『ロング・グッドバイ』、まさに「ハードボイルド小説の金字塔」だと思いますし、読んでいて「すごいな」と感じたところもたくさんありました。
なかでも、今回の「被害者」であり、フィリップ・マーロウの「友人」でもある、「酒びたりのどうしようもない男なのに、なぜか同じ男として放っておけない魅力がある」テリー・レノックス、アルコール依存の「天才売文家」ロジャー・ウェイドなどの人物造型は素晴らしいものです。
「善悪」ではない、「ロクでもない奴なのに、惹かれずにはいられない人間たち」を描くのが、レイモンド・チャンドラーは本当に巧い。
ちなみに訳者あとがきで、チャンドラー自身も「アルコールに関するさまざまな問題」を抱えていたことが紹介されています。

ただ、『ロング・グッドバイ』に関しては、正直、「これをいまの時代に読むのは、『歴史的名作! ハードボイルドの金字塔!』って自分に言い聞かせないとちょっと大変だな」とも感じたんですよね。純粋に「ミステリ」としての構造で判断すると、ストーリーとしては、いまの、二転三転当たり前、というトリックに慣れ切ったミステリ読者にとって、「ふーん、これで終わり?なんかアッサリしたものだったな」というレベルなのではないかと。
もちろんこれは「叙述トリックで読者を驚かせるための小説」ではないのですが、「古い名作映画を観ているときのような心境」で読まざるをえないところはあったのです。
「これは面白い!」というよりは、「こういうのが面白い(素晴らしい)歴史的な作品なのだな」という「お勉強的な気分」にどうしてもなってしまう。
 先日御紹介した小谷野先生の新書的に言えば、「アメリカの上流階級の退廃っぷりになんて、僕はあんまり興味ないし、共感もできない」のも事実だし、フィリップ・マーロウはタフな男だけれど、「もうちょっと要領よくやらないと、体がもたないんじゃないの?」みたいなことも、現代人としてはつい考えてしまうんですよね。
 マーロウKY!なんて言うべき話じゃないとはわかっているのだけれど。

それにしても、この『ロング・グッドバイ』言い回しのカッコよさには特筆すべきものがあります。そして、本筋とは関係ないような、ディテールがすごく印象的。

 世間には金髪女は掃いて捨てるほどいる。昨今では金髪女という言葉が冗談のたねになるくらいだ。どの金髪にもそれそれ長所がある。ただしメタリックな金髪はべつだ。そんな漂白したズールー続みたいな色あいのものを金髪と呼べるかどうか怪しいものだし、性格だって舗装道路なみにごちごちしている。小鳥のように賑やかにさえずる小柄でキュートな金髪女がいる。心をそそる目つきをこちらに送り、素敵な匂いを漂わせ、いかにも気を持たせ、腕に寄りかかるのだが、うちまで送っていくと決まって「とてもとても疲れちゃって」と言い出す金髪女がいる。彼女は大仰に顔をしかめ、ごめんなさいね、なんだか頭が割れそうなのよと言う。こんな女は一発ひっぱたいてやるべきなのだろうが、多くの金と時間と望みを無駄につぎ込む前に、この「頭痛」体質が判明したことをよしとしなくてはならないだろう。こういう女はいつだって都合のいいときに頭痛が起こるのだ。しかしわかってはいても、この手が効果を失うことはない。それは刺客の短剣のごとく、ルクレチアの毒薬瓶のごとく、常にしっかりととどめを刺す。

(以下略。この後もさらにまだまだ「さまざまな金髪女」についての言及が続きます)

村上春樹さんは、「訳者あとがき」で、こんなふうに書かれています。

 具体的な例をあげれば、この小説の中に出てくる(153ページ・上に一部引用)金髪女の描写が僕は昔から好きだ。マーロウが頭の中で、世間の様々な金髪女の特徴を列挙していくところ。それほど優れた描写でもないし、全体から見れば浮き上がった部分、なくてもいい部分である。というかむしろない方が、小説全体からすればすっくりするくらいかもしれない。気の利いた編集者なら「チャンドラーさん、ここは不要だし、ちょっとしつこいから思い切って削りましょう」と忠告するところだろう。しかし何度も重ねて読んでいると、最初は「余計なところだな」と思っていたこの部分が、不思議に愛おしくなってくるのだ。もちろんなくてもいい部分なんだけど、そこにはまるでチャンドラーの肉声を聴いているような趣があり、その「なくてもよさ」(変な言い方なんだけど)が奇妙にしっくりと心に残ってしまう。わけもなく頭にこびりついてしまう。そういう部分は、この本の中にもほかにいくつかある。

「小説家になるための文章修行」の本であれば、まず最初に「こういうマスターベーション的な描写は削れ!」って言われそうな箇所ですよね。井上ひさしさんも、「書いたもののなかで、自分がいちばん気に入っている部分を削れ」と書かれていました(そういうシーンは、概してひとりよがりで読者を置いてけぼりにするものだから、だそうです)。
しかしながら、実際の作品では、そういう場面こそが「色艶」みたいなものになる場合もあるのです。
その匙加減というのは、「センスと経験」でしかわからないのでしょうけど。

しかしながら、この『ロング・グッドバイ』に関しては、まちがいなく、そういう「レイモンド・チャンドラーの怨念が暴走してしまっているような叙述」が魅力になっているし、それがなければ、今の時代に読むと、トリックに何の意外性もない「古典的なミステリ」でしかないのかもしれません。

現代の読者にとっての『ロング・グッドバイ』は、「事件」そのものよりも、「ハードボイルドな世界観」を味わうための小説なのでしょうね。
この作品、リアルタイムで読んだ人たちにとっては、どんな印象だったのかなあ。

そうそう、「訳者あとがき」ではじめて知ったのですが、あの有名な

”To say goodbye is to die a little.” 『さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ』

というのは、フィリップ・マーロウがオリジナルではなくて、フランスの詩から、この小説に引用された言葉だったそうです。

今回、この”The Long Goodbye”というタイトルを村上さんはそのまま『ロング・グッドバイ』と訳されていますが、あらためて考えてみると、このタイトルを1958年に『長いお別れ』という日本語にした清水俊二さんのセンスは素晴らしいですね。
もしかしたら、原題よりも魅力的なタイトルになっているかも。

50年前にこの作品を訳した清水さんの功績は忘れてはならないと思うし、僕もいつか清水さんが訳したものを読み返してみたくなりました。

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