琥珀色の戯言

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マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか ☆☆☆☆


マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか

マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか

内容紹介
サンデル教授と
大震災とその後の世界を考える

日本人の秩序だった行動を世界はどう見たか? 原発処理には誰があたるべきなのか? 原子力発電を今後どうするべきか? 世界から寄せられた支援の輪はグローバルな公共性へとつながるのか? サンデル教授が試練に直面する日本人を励まし、世界の若者たちと被災地日本と世界の今後を考えるための特別講義。
※NHK番組『マイケル・サンデル 究極の選択』を緊急出版化!

 東日本大震災の約1ヶ月後に、震災や福島第一原発放射能漏れ問題について、東京、ボストン、上海の三元同時中継でディスカッションをした番組を書籍化したものです。
 各国の大学生たちと、日本の著名人ではジャパネット高田の高田明社長、高畑淳子石田衣良高橋ジョージさんが参加されています。

 64ページの薄い本で、30分くらいあれば読めるのですが(講義を書籍化したものなので、会話調で読みやすいですし)、内容にはいろいろと考えさせられます。
 第1章の「大震災特別講義 私たちはどう生きるのか」では、「日本人が見せた混乱の中での秩序と礼節」「原発処理には誰があたるべきか」「原子力とどう関わっていくべきか」「支援の輪は世界を変えるか」の4つのテーマについて議論が行われているのですが、僕は「原発処理は誰があたるべきか」が印象に残りました。

サンデル教授:ここで皆に考えてもらいたいことがある。
 危険な任務に立ち向かう人々は、何を基準に選ばれるべきなのだろうか? コミュニティ全体のために危険な任務を引き受けようとする人なのだから、そうした仕事にはボランティア、すなわち志願をした人だけが割り当てられるべきなのか?
 それともある特定の人々が義務を担っているのだろうか? 例えば原子力発電所に勤める人や、消防あるいは自衛隊で働く人たちに。
 あるいはその人物に家族があるかないかということを考慮すべきなのだろうか? そして年齢というのは、何かの基準になるのだろうか? 奨励金や高い賃金といった経済的な動機づけは必要だろうか? この命がけの作業のために日当40万円を提示された人もいるという記事を目にしたこともある。

この質問に対して、各国から、さまざなま反応がありました。
「やはり志願制であるべきだ」という主張があるのですが、そのなかでも、「高額な報酬は当然」という意見と、「報酬が高くなると、経済的な理由で志願する人が出てくるから、フェアではない」という意見と。

中国のヤンさんは、こんなふうに発言しています。

 まず、任務につく人はやはり志願制であるべきだと思います。そして特定の任務を果たせる技術を持っていること。原発での作業であれば、もちろん原発を理解している人でないといけません。そうした人の中でも、自ら進んで、国全体を助けたいという気持ちを持った人でなければなりません。

(中略)

 金銭的なサポートは必ず必要だと思います。とても危険な作業に挑むわけですから、やはり政府や社会が、その人の家族の将来について、経済的な保障をするべきです。そうすることで、安心して任務に就けると思います。

それに対して、ボストン(アメリカ)のハーリーンさんは、こんな意見を述べています。

 上海の方が言っていた特別な報酬についてですが、私は賢明な選択ではないと思います。なぜなら、危険な任務に就く人々、例えばアメリカ軍の兵士を例に取ると、あくまでも国への忠誠心からその仕事に就くべきであって、報酬を厚くすると、経済的な必要性に迫られて志願する人が出てくるかもしれません。それではフェアと言えないと思うのです。もし自発的に志願する人だけで足りないのならば、国民すべてに義務づけるべきです。特殊な技術が必要な場合は、そうした技術を持つ人すべてを対象にすべきです。報酬という要素を持ち込むのは、不公正を招くと思います。

この「フェアかフェアじゃないか」という考え方は、ものすごくアメリカ的だなあ、と思いました。
「報酬を高くすると、経済的な理由で『志願せざるをえない』人が出てくるはず」だから、それは「フェアじゃない」。
しかし、「その技能を持っている」からといって、安い報酬で、そんな危険な任務に志願する人がそんなにいるのかどうか?

その一方で、日本では、安い報酬で「命がけの作業」に従事しているからこそ、その人は「ヒーロー」「ヒロイン」として称賛される、という面もあるのです。
高額報酬が約束されていれば、多くの国民は、ある意味「安心」というか、「まあ、ちゃんとリスクに見合った報酬は出しているからね」と、作業員に感謝する気持ちは薄れるでしょう。
「お金」とくに「多額のお金」が介在することによって、人々は「後ろめたさ」から解放される。
 でも、それは「フェア」じゃないと言われれば、その通りです。
 実際、多くの日本人が、安い報酬で、「日本のため」に、危険な地域での作業を続けています。
 「誰が行くべきか」を真剣に議論しないまま、危険な作業に駆り出されずにすんでいるというのは、僕にとってはすごく幸運なことなんですよね。


東電の責任なんだから、東電がやるのが当たり前」だという人もいるでしょう。
 しかしながら、個々の作業員には、必ずしも「事故が自分の責任」だという実感はないはずだし、嫌なら会社をやめてでも任務を拒否する、ということだって不可能ではありません。
 危険な作業をしに行くのに「お前らがやるのが当たり前だろ!」と言われて行くのと、「日本のため、みんなのために行ってくれてありがとう!」と感謝されながら出発するのとでは、だいぶモチベーションも違うのではないでしょうか。

 ところが、志願して危険な場所に行ってくれている人たちに、前者のような「お前たちがやるのが当然」という態度をとっている人が多いのには驚かされます。
 いや、僕だったら、もし自分が東電の末端の社員だったら、巨大な「同調圧力」におされたとしても、危険な現場に行くことに素直に納得できたかどうかは疑わしい。

日本人のミオさんは、こんなふうに答えています。

 本当にそれが志願制であるのか、それが本当の自由な意思に基づいていると言えるのかどうか、疑問に思います。経済的な状況など、様々な個人的な立場もありますし、そのような状況の仕事を受け入れざるをえないような立場にいる人もいると思うので、必ずしもそれが完全に自由な選択だとは言い切れないと思います。
 本来ならば、私たち全員が行かなければいけないと思います。なぜならば、私たちは東京電力の電力を使うこと、東京電力にお金を払っていることによって、東京電力そして原発を支持していたからです。私たちが支持していたものが問題を生じさせたのだから、私たち全員が原発の対処にあたらなければならないと思います。

ああ、大学生らしい立派な意見だなあ、じゃあ、ミオさん先に行ってください!
……とか考えてしまうのは、僕が薄汚れたオトナになってしまったから、なのでしょうか。

サンデル教授は、こんなふうに問い掛けています。

 この問題には、様々な角度から考えなければならない要素があると思います。例えば、家族の有無を考えるべきなのか。金銭的な報酬があるべきなのか。年齢が選択に関係あるのか。

実際には、東電の社員たちは、信じられないほど安い報酬でこの危険な作業にあたっており、東電のOBのなかには、志願してこの任務に加わっている人もいるのです。
「自分はもう高齢で、十分生きてきたから、若い人たちを危険にさらすより、自分が犠牲になるべきだ」と。

そういう人たちの「善意」があって、とりあえず、「徴兵制」は避けられているのです。
それは「美しいこと」だけれど、「正しいこと」かどうかは、僕にも結論が出せません。


 ちなみに、この後の項でも、僕は驚かされました。

 これから、東京、上海、ボストンにいる皆に、将来についての二つのシナリオを考えてもらいたい。
 第一のシナリオは次のようなものだ。原子力の安全性を高めるために、私たちはあらゆる努力を払う。ただしリスクをゼロにすることはできない。そのような完全な技術は存在しないからだ。それでも安全性を高め続けながら、原子力への依存を高め、原子力発電所を作り続けていくというシナリオだ。
 二つめのシナリオは、今回の危機を受けて、原子力への依存を減らす、あるいは完全になくす、というものだ。その結果、私たちは生活の水準を下げなくてはいけないだろう。それでも原発は支持しない。そういうシナリオだ。

 僕は「これはどうみても二つめのシナリオだろ」と思ったのです。
 ところが……

 みんなはどちらを選ぶだろうか。全員、手を挙げて。一つめのシナリオに賛成の人は? 安全面を極力強化し、それでもリスクが残ることは承知のうえで原子力への依存を続けるという人。東京は5人、上海も5人手が挙がっているね。
 では、二つめのシナリオを選ぶ人は? たとえ生活水準を落としたとしても原子力への依存は減らす、あるいはなくすべきだと考える人、手を挙げて。二つめのシナリオを選んだ人は、上海は3人、東京は5人、6人。おっと、ボストンはゼロ、ひとりもいないんだね。

 あの事故から、わずか1ヶ月後の問いかけにもかかわらず、「日本の優秀な大学生」は、「原発維持派」と「原発縮小派」が半々くらいなのです。
 これには、正直驚きました。
 ああいう「予想を超える自然災害」は今後も起こる可能性が十分あるのに、あんな大きなダメージを受けた直後なのに、それでも、こんなに「原子力への依存を続ける」という人がいるのか……
 

 最後に、この本のなかで、もっとも印象的だったサンデル教授の言葉を引用しておきます。

 そもそも哲学的な議論とは、論理と理性だけで語られるべきであり、感情や感覚からは切り離すものだと考える人たちがいます。彼らによれば、哲学の究極の目的は、私たちの感情や感覚、信念を置き去りにして、それらを矯正するためのある種の理性に辿りつくことです。しかし私は、哲学をそのようなものだとは思いません。
 私が関わっている哲学、つまり政治哲学、道徳哲学では、人間の関係性や義務、責任に就いて扱います。少なくとも、この分野の哲学では、論理と理性を一方に、そして共感や理解を他方に、というように分けることは不可能だと思います。最良の政治哲学は、西洋ではソクラテスに遡り、それは対話と議論、理解と反論を伴うものでした。人が理解し、反論するということの中には、理性だけでなく情熱や信念といったものが当然含まれるのです。
 ですから、私が提案しているグローバルな対話の場においては、人々の信念や文化、伝統や情熱や感情から切り離された、貧弱な論理や理性を目指してはいません。むしろ、いかにしてそうした信念や伝統、情熱や感情が反映された熟慮を重ねることができるのか。それが目的です。
 そして究極的には、私はそれこそが共同社会というものだと思います。ですから、理性と感情という領域を分けるべきではないという点はあなたと同じ考えですが、最良の哲学、最良の哲学的関わり、最良の対話の場においては、さらに進めて人間の経験に基づくこの二つの領域を結びつけていくべきだと私は考えます。

 ネットで、他者の「感情」をバカにして自分の「賢さ」をアピールすることしかできない、「エセ理性至上主義」の人たちに、このサンデル教授の言葉を、ぜひ読んでいただきたいと思うのです。
 この言葉だけで、☆1つ増やしてしまいましたよ僕は。

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