琥珀色の戯言

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【読書感想】あぶない一神教 ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
9・11テロから「イスラム国」誕生まで。キリスト教世界とイスラム教世界の衝突が激しさを増している。だが、歴史を遡れば、両宗教は同じ「神」を崇めていたはず。どこで袂を分かち、何が異なり、なぜ憎しみ合うのか。社会学者・橋爪大三郎氏と元外務省主任分析官・佐藤優氏が「世界の混迷」を解き明かす。


 「一神教」というのは、その神様のためならなんでも正当化されてしまうし、他の宗教を認めない狂信者を生みやすい、というイメージを僕も持っていました。
 先日のパリでの同時多発テロも、一般市民に対する無差別テロでした。
 イスラム教徒が、みんな『イスラム国』のテロリストなわけじゃない、そんなことはわかっている。
 でも、誰がテロリストかなんて外見ではわからないし(とくに、外国人というのは見分けがつきにくいものですし)、避けられるリスクは避けたい、というのも、気持ちはわかる。
 それはまさに「テロリストたちの思う壷」なんだろうけど。


 この新書、橋爪大三郎さんと佐藤優さんの対談本なのですが、佐藤さんは冒頭でこう仰っています。

 特に注意しなくてはならないのが、「一神教は偏狭であるが、多神教は寛容だ」「キリスト教イスラム教は偏狭で、戦いばかり起こすが、仏教神道は寛容で、平和愛好的だ」という言説だ。
 キリスト教徒でもジュネーブ世界教会協議会(WCC)に加盟し、エキュメニカル運動(宗教間、教派間の対話と協力を進める運動)を推進する教会は寛容だ。プロテスタンティズムメノナイト派やクエーカー教徒は絶対平和主義を掲げ、従軍を拒否する。また、タイの内乱で銃を取って戦っている人々は仏教徒だ。スリランカで爆弾闘争を展開する仏教徒もいる。
 また、日本の国家神道は、戦前、戦中に大本や創価教育学会(創価学会の前身)、ひとのみち教団PL教団の前身)に不敬罪を適用し、激しい弾圧を加えた。また、植民地であった朝鮮に神社崇拝を強要した。
 これに対して、多くの朝鮮人キリスト教徒が抵抗したので朝鮮総督府は弾圧を加えた。これらの事実から明白なように、「一神教は偏狭で暴力的だ」「多神教や神を想定しない仏教は寛容だ」というような単純な図式化はできないのである。宗教について論ずるときに、「どのキリスト教徒か」「どのイスラム教徒か」「どのユダヤ教か」「どの仏教か」「どの神道か」と具体的な議論をすることが重要なのである。


 「一神教は危険」と、一概に決めつけるのは間違っているのです。
 そもそも、イスラム教徒が全員、自爆テロをやるわけでもない。
 ただ、これに関しては「一神教は平和主義、非暴力主義で安全」というよりは、「人間というのは、どんな宗教に属していても、他者を『宗教上の理由』をつけて弾圧する可能性がある」と考えたほうがよさそうです。
 そして、「キリスト教」も「イスラム教」も、さまざまな分派があって、けっして一枚岩ではなく、現在の多数派は、比較的穏健なのです。
 ただ、宗教のなかの分派というのは見た目だけではわからないし(わかるような宗教もあるといえばあるのですが、異教徒にとっては、見分けが困難です)、「なんとなく不安」だというのもわからなくはないんですよね。
 そして、アメリカの州のなかに、シリアからの難民受け入れを拒否する動きが出てきているように「避けられるリスクならば、避けたほうがいい」と考える人も出てきます。
 「差別してはいけない、偏見を持ってはいけない」という理想と、「でも、何かあったらどうするんだ?」という恐怖感との葛藤。
 まあ、それこそ、テロをやる人たちの狙いどおり、ではあるんでしょうけど。

佐藤優日本では「一神教が非寛容で、多神教が寛容だ」なんていい加減なことを話す人がいます。なかでもナンセンスだったのは、「イスラム国」人質事件の報道で語られた普通のイスラム教徒は穏健で、過激派はごく一部だという言説。宗教というのは虹のスペクトルです。穏健な人が、いつ過激になってもおかしくありません。
 もしも仏教などの多神教は寛容だというなら、多神教仏教徒ヒンドゥー教徒が争ったスリランカの内戦はどうなのか。仏教国であるタイの暴動はなんなのか。日本でいえば、オウム真理教仏教新宗教です。
 特定の宗教が寛容だ、不寛容だとレッテルを貼っても実証的に見ればすぐに否定されてしまいます。ただ、あえていうなら一神教は、ある意味で寛容です。他者に対して無関心ですから。


橋爪大三郎基本的には、他者と比較しませんからね。自分が神の意思に従って、正しく生きていけばいいわけです。


 寛容、不寛容というよりも、「一神教は、他者に無関心」なのか……
 正直、いまの世界で生きていくには、無関心ばかりではいられないだろうし、実際には「他者を否定することで、信仰を強めようとする宗教」もあるのですが。


 この新書のなかで、「キリスト教の創始者は?という問いが出てきます。
 そんなの、僕にだってわかります。イエス・キリスト
 ところが……

佐藤:パウロの功績は新興宗教だったキリスト教世界宗教に変えた点にあります。
 ユダヤ人共同体でイエスの教えを広めることに限界を感じたパウロは、小アジア、ギリシャ、ローマという当時「世界」と認識されていた地域へ伝道の旅に出ました。
 新約聖書の『使徒言行録』にはイエスが死んだころに信者は数百人程度だったと記録されています。そしてパウロの伝道により3000人が洗礼を受けた。さらに313年には300万人前後にまで増え、現在は約20億人と推測されています。


橋爪:ギリシャ語がよくできたパウロはいまで言えば、英語が堪能な国際派です。だからヘブライ語圏のユダヤ人コミュニティを出て、布教ができた。
 当時の初期キリスト教会では、ヘブライ語で活動する現地派と、ギリシャ語で宣教する国際派との、二つの勢力がありました。その後、政治状況の変化で現地派の活動拠点が奪われたこともあり、キリスト教会は、国際派のパウロの教義によって形成されていったわけです。


佐藤:もしも大学入試で「キリスト教の創始者は」という問題が出たら「イエス・キリスト」と書けば、正解です。しかし、神学部の期末試験でそういう答え方をしたら不正解とされます。確かにイエスは教祖といえますが、実際に開祖としてキリスト教をつくったのはパウロなのですから。


 この本のなかでは、「イエス自身は、自分をユダヤ教徒だと思っていて、新しい宗教をつくっているという認識はなかったのではないか」という推論が述べられています。
 もちろん、実際のところは、いま生きている人間には知りようがないのですけど。
 あと、これを読んだからといって、大学入試で「パウロ」って書かないようにしてくださいね。
 それはあくまでも「神学部限定の答え」みたいなので。


 歴史上「良いことをした」「清新である」ようなイメージの宗教者も、現代に生きる僕からすれば、「とんでもない狂信者」のように見えることもあります。

橋爪:ルターの宗教改革をきっかけに、教会や諸侯の抑圧に苦しんでいた農民がドイツ各地で蜂起しました。おびただしい数の農民が殺されたと言われています。
 そんななか、ひとりの軍人がルターにこんな質問をしました。
「剣を手に、人びとを取り締まり、場合によっては殺害するのが私の仕事だ。しかしこれは、神に背いているのではないだろうか」
 ルターはこんなふうに答えます。
 聖書には、「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい」と書いてある。自分が攻撃されて、反撃するのは、聖書の教えに反するかもしれない。でも個人が攻撃された場合、剣をとって駆けつけ、悪漢を撃退するのは正しい。それこそまさに、隣人がそうしてほしいと願うことだからだ、と。


佐藤:これは、集団的自衛権ですね。


橋爪:そうです。こういう回答をしている。そうすると、警察や軍隊のような権力は、暴力を行使しても、隣人愛の実践だとして、正当化できることになる。


佐藤:またルターは農民戦争で最後の審判を盾に「農民を皆殺しにせよ」と諸侯たちに訴えています。
「農民たちは神の意思に反している。これ以上、農民たちを放置しておくと彼らの魂が汚れ、最後の審判の日に復活できなくなる。いま皆殺しにすれば、最後の審判の日に彼らも永遠の命を与えられるかもしれない」
 一神教が暴走するとこういう論理が生まれる。


橋爪:まさにあぶない一神教ですね。


 これを読んで、オウム真理教の「ポア」を思い出した人も少なくないはず。
 あれはオウムのオリジナルではなくて、一種の「伝統」みたいなものだったんですね。
 イヤな伝統ではありますが。
 ただ、オウムは「一神教」ではないので、こういう発想は、一神教に特異的なものではないのかもしれません。
 それにしても、ルターって、「教会の免罪符に異議をとなえて命がけで宗教改革をすすめた」という「偉人」だと思いきや……
 「歴史」を大きく動かした人であることは、間違いないのでしょうが、今の僕の感覚からすれば、「こりゃひどい」だなあ。


 「宗教」のことを知ろうともしないで、ただ、やみくもに怖がっている。
 それが、現状ではないかと思います。
 知ることによって、「怖さ」が無くなるとは限らないけれど、「心配しなくていいところ」と「注意したほうがいいところ」の境界くらいは、うっすらと見えてくるのではないかな。


イエス・キリストは実在したのか?

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