琥珀色の戯言

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【読書感想】米国人博士、大阪で主婦になる。 ☆☆☆

米国人博士、大阪で主婦になる。 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ II-11)

米国人博士、大阪で主婦になる。 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ II-11)

内容(「BOOK」データベースより)
日本に興味があったわけではない。まして、日本人男性が好みだったわけでもない。生涯、故郷ボストンで暮らしていくつもりだった。しかし―神戸で芽生えた“講師”と“生徒”の思わぬ恋は、いつしか大阪とボストンを往復する掛け替えのない愛へと変わっていった。国際結婚、異国での慣れない生活、不妊治療…葛藤と喜びに満ちた、その奮闘の日々。


 アメリカ人のキャリア女性が、仕事で日本に来た際に出会った一人の日本人男性に出会い、結婚し、そして……という自伝なのですが、正直なところ、読んでいて、「なんか付き合いづらそうな人たちの世界だな……」と、ずっと感じていたのです。
 

 彼にはじめて会ったのは2004年5月、日本の神戸。
 三週間後、彼は愛していると言った。少なくとも私はそう言われた、と思った。
 そのとき深夜はとうに過ぎていたが、彼と私は企業研修センター内の私の部屋に隠れていた。彼は肘で体を支えて私の上でバランスを保ち、私は下から彼を見上げていた。私は東アジアの企業の幹部社員を対象としたMBA経営学修士)課程の新米講師だった。私が教える20人の学生は全員が男性で、彼はその一人。私もすでに彼に恋していた。


(中略)


 授業の初日に、学生たちのほとんどがお茶くみをしない女性と働いた経験がないと知ったとき、私は早くも自身が直面している問題の大きさを知った。ともかく、数週間後のそのころには、すでに私の仕事は情けないほど破綻していた。まともに英語も話せないのにすでに私のハートをぐらぐらさせている一学生との、真夜中の課外学習という逸脱行為はいうまでもなく。


 著者は、ものすごく優秀な女性ではあるのですが、正直、この本の冒頭の部分を読んで、僕は面喰らったというか、「うーむ」と考え込まずにはいられませんでした。

 この人、日本(あるいは東洋人男性)をさんざん貶めているけれど、先生として赴任してきながら、生徒とデキちゃうなんていうのは、あまりにも浮わついているんじゃない? いや、人間の感情って、そういうものなのかもしれないけどさ、そんな仕事ぶりで、「日本人の男性は」「日本の家族制度は」なんて言われても、説得力ないよ……
 こういうのって、アメリカでは「たいした問題じゃない」のだろうか。


 ただ、著者もいろいろと問題を抱えた人ではあったんですよね、読んでいくと。

 私の家族はとても裕福だったけれども、「カインド・オブ・スクルード・アップ(kind of screwed up)だった」と説明した。それは、アメリカ北東部の大学教師たちがパーソナル障害やアッパー・ミドルクラスの苦悩について論じるときによく使う不遜な表現だ。
「要するに、完全にはまともじゃなかったのね。家族関係が」人と人とのつながりを示そうと、指を胸のあたりで前へ後へと振った。


(中略)


 あれは8歳か9歳だったころ、ある朝私たちきょうだいが目覚めると、キッチンのキャビネットに軒並み蹴られたあとがあった。滑らかなチェリーレッドのドアのあるものは裂け、あるものは驚いたときの口のように大穴がぽっかり空いていた。性格の合わない夫婦の残した瓦礫だった。


 ああ……
 なんというか、この本で最も僕の印象に残ったのは、アメリカ人のインテリ女性が日本での結婚生活で感じたギャップや不妊治療ではなくて、この、「傍からみえば裕福で幸せそうにみえる、アメリカのアッパー・ミドルクラスの苦悩」だったのです。
 彼らは金銭的には豊かで、社会的な地位もあり、世界の貧しい人たちや困っている人たちを思いやっている知識人。
 にもかかわらず、彼らの家庭内は、「まともじゃない」。
 もちろんこういうのは、アメリカだけの話ではないのでしょうけど、「個人を尊重する」ことと「家族として協力しあっていくこと」を両立するというのは、本当に難しい。
 プライドが高い人の集合体であれば、なおさら。

 幾晩か、私たちはタクの自宅のマンションで夕食をとった。私たちが初めて出会った夏に、私はタクに料理をするつもりはないときっぱり断言した。それは結婚したあとも同じ。ボストンでも一度も、大袈裟でなくただの一度も、料理をしたことはない。「家にいたければ、テイクアウトすればいいだけでしょ? 違う?」
 これに対するタクの反対はちょっと心配になるほど強硬だった。
「家で食べるのが一番くつろぐよ」彼は私の誤りを正した。「毎晩、出かけるなんていやだ。あまりにしんどい」子どもがいる家庭が一度も家で食事しないのは現実的でないし、たとえ子どもを作らなくても、家で食べることは家庭をもつことの欠かせない一部ではあいかと主張する。料理しないこと、それもけっしてしないことは、「女性の独立」の実行可能な政治的主張だという私の議論にも納得しない。「ただもうノーマルじゃないよ。絶対に家で食べないなんて、一度もなんて」彼はぶつぶつ言い続けた。


 正直、これを読んでいると、「国際結婚って、難しいなあ」と思わずにはいられませんでした。いや、率直に言うと、「国際結婚の問題点」というより、「生活に政治的主張を持ち込まれると、こんなにややこしいことになるのか」と。
 女性の独立は支持したいと思うけれど、それを「家で絶対に料理をしない」という方法で「主張」されると、それはそれ、なんじゃないかな……と言いたくなるのです。
 疲れていたり、めんどくさいときにはテイクアウトでも外食でも全然構わないのだけれど、「絶対に家で食べない」とまで言われると、そんなに頑なにならなくても……と感じます。


 ところが、この著者が、パートナーの「タク」のお父さんの介護を手伝ったり、家事にも協力するようになったりしていくようになるんですよね。
 政治的主張云々はひとまず置いて、体調がすぐれない義父に対して、「そうせずにはいられない」という気持ちに従って。
 著者が、アメリカで、両親と同じように、アッパーミドルの結婚生活をおくっていたら、どうなっていたのだろうか?
 こういう変化は、愛情もあるだろうけれど、異国で生活するためには、助け合っていかなければならない、という「事情」もあったのではないか?


 幸せ、とか、独立って、何なのでしょうね。
 それが選択肢として存在しているのは人生を明るくするけれど、「独立しなければならない」というのが義務になると、それは、「呪縛」になってしまう。
 この本がアメリカで話題になったのは、「これほどのキャリア女性が、現在は日本で『主婦』として生きることを唯々諾々として受け容れていることへの驚き」があったからなのだと思います。
「飯炊き女」として扱われるのも、「料理をけっしてしない」と宣言して生きるのも、どちらも幸せではなさそう。
 「夫婦は他人の始まり」とは言うけれど、他人とお互いに満足しながら暮らすというのは、難しいですよね、本当に。


英国一家、日本を食べる 上 (角川文庫)

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