琥珀色の戯言

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【読書感想】イスラームから世界を見る


イスラームから世界を見る (ちくまプリマー新書)

イスラームから世界を見る (ちくまプリマー新書)

内容(「BOOK」データベースより)
誤解や偏見とともに語られがちなイスラーム。その本当の姿をイスラーム世界の内側から解き明かす。イスラームの「いま」を知り、「これから」を考えるための一冊。誕生・発展の歴史から、各地で相次ぐ民主化運動の背景まで、知っておきたい基礎知識をしっかり解説。


イスラム教世界」について、ほとんど知らない僕にとっては、なかなか興味深い新書でした。
いまの日本に住んでいる僕の感覚として、「イスラム教の教義を重視する政党が政権を握る」なんていうニュースを聞くと、「歴史に逆行している」ような気がしてしまうのですが、この新書を読むと、そういう「宗教への回帰」が起こってくるのにはちゃんとした理由があるのだ、ということがよくわかります。
そして、イスラム教徒=ムスリムたちは、けっして「好戦的なテロリスト予備軍」はないことも。

 ムスリムは世界中に、およそ15億人もいるといわれています。当のムスリムは、ビン・ラディンが、アメリカ人やユダヤ人と戦って彼らを殺害しろとムスリムに呼びかけたことに対して「ありえないほど馬鹿げている」と感じていました。ビン・ラディンというのは、サウジアラビアで財をなした大富豪を親にもっていますから、いわば、道楽息子の馬鹿が大金をつかって反米・反イスラエル宣伝をしつづけていたわけです。世界中のムスリムも、そのことを知っていました。その彼の一味が、9・11というテロを起こしたのですから、多くのムスリムにとって、大迷惑なことでした。実際、無差別に人を殺すテロは、言うまでもなく、イスラームでも厳禁されています。
 にもかかわらず、なぜ欧米諸国は、ビン・ラディンアル・カイダとおなじだ」と考えてしまったのでしょう。
 そこには、事柄がイスラームムスリムに関係していると、突然、「常識的な理解」ができなくなるという欧米固有のイスラーム観がとても深く作用しています。
 アメリカのジョージ・ブッシュ前大統領は、明らかな根拠もなしにイラク戦争を始め、自国の兵士に多くの犠牲者をだした国家元首でした。その意味では、ひどく粗暴な政策をとったと言えます。そして、彼は敬虔なキリスト教徒をしても知られています。
 ここで少し考えていただきたいことがあります。日本人も、欧米の人びとも、「世界中のキリスト教徒はみなブッシュのように暴力的で野蛮な連中だ」とは思いません。ムスリムもそんな馬鹿なことは言いません。
 しかし、相手がムスリムとなると、このような馬鹿げた話が、すっと通ってしまいます。

 そういわれてみると、15億人のムスリムがみんなテロリストなんてことはありえないんですよね。
 ほとんどの人は、戒律に従いながら、平和に暮らしているはずです。
 にもかかわらず、「9・11」以降、西欧では、ムスリムに対する排斥が、酷くなってきているのです。
 こういうのって、「日本人はみんな日本赤軍」とか「みんなオウム真理教の過激派」なんていうのと同じ発想のはずなのに。


 著者は、「神を持たないで生きていこうとすること」=「世俗主義」と定義し、この「世俗主義を根本的に受け入れられないのがムスリムなのだ」と仰っています。
 そして、世俗主義にも、ムスリムにも、それぞれの理があり、それは優劣がつけられるような性質のものではないのです。

 世俗主義の側との争点になることを一つだけ取り上げましょう。よく知られた四人妻の規定といわれるものです。西欧の世俗主義の枠のなかにあるフェミニストからひどく嫌われる典型例が、複数の妻との婚姻をみとめるということです。
 コーランでは、「孤児のことを案ずるならば」、「二人、三人、四人の妻と結婚してもいい」、しかし「妻を平等に処遇できないのならダメだ」としています。フェミニストが攻撃するのは、真ん中の「複数の妻との婚姻」の部分で、これが女性側には認められていない点です。しかし、前段の「孤児のことを案ずるならば」はイスラームを創始したムハンマドの時代に、夫が戦死して残された妻と子どもを困窮させないための指示です。そして、複数の妻に対する平等規定を守れないならば禁止となっています。
 したがって、ここに定められていることは、男性の性欲にまかせて複数の妻をもってよいというのではありません。この点でのフェミニストの批判は的外れだということになります。
 つぎに、男性にだけ重婚を認め、女性には認めないことですが、これは世俗主義から男女の平等を説くかぎり、女性に対する不平等規定になります。しかし、イスラーム側は、女性にもこれを認めると、誰が父親かわからなくなることで反論します。しかし、誰が父親であろうと関係ないと世俗主義フェミニストに反論されると、それ以上は議論が平行線をたどります。

 「ムハンマドの時代の状況」にあわせてつくられた戒律に、現代人もあわせるべきなのか?
 そう考えると、僕にとっては「重婚」がしっくりこないのはたしかです。
 でも、「その戒律を守ることが宗教の根本なのだ」という立場の人たちに、「神をもたないで生きている人たちの理屈」を「正義」として押しつけることが良いとも思えないんですよね。
 

 ちなみに著者は、「付け加えておけば、一夫多妻など、ふつうは実現するはずがない」と断じています。
 もしこれが一般的に行われたら、結婚できない男がたくさんできてしまうわけで、本当に「男尊女卑」の宗教なら、そんな「多くの男が困るような規定」をつくるはずがないだろう、と。
 「この規定は、あくまでも「コーランに示されているとおり」、戦災孤児とその母親に対する例外規定と解釈するべき」というのが著者のスタンスです。
 イスラム教では、「婚姻外のセックス」は「姦通」として死刑にあたる重罪ですから、「重婚」を認めざるをえなかったのかもしれません。


 この本を読んでいて驚いたのは、「ムスリムには、中東の人たちが多いわけではない」ということでした。
 「ムスリム人口の地域分布」という表が示されているのですが、一番多いのはアジア(南・東南・中央アジア)で62%、二番目が中東(西アジア北アフリカ)で20%、ついで、サハラ以南のアフリカで、15%。ここまでで、97%を占めています。
 国でいうと、インドネシアには全ムスリムの13%を占める2億人のムスリムがいて、パキスタンが11%で1億7400万人、インドが10%で1億6000万人、バングラデシュが9.3%で1億4500万人、その次に中東のエジプト、5%で7850万人、ナイジェリアが同程度、以下イラン、トルコと続きます。
 インドなどは、人口そのものが多いので、それでもムスリムは「少数派」になってしまうのですが、イスラム教は「中東だけのもの」ではないのです。
 

 「アラブの春」の実態や、シリアの「超現実的な政権」についての「イスラム教世界側からのみかた」も、かなり興味深いものでした。
 諸悪の根源のように語られている「タリバン」は、アフガニスタンに侵攻してきたソ連に対抗するために、アメリカが育成した「神の戦士」たちがルーツなのです。
 ところが、これらの戦士たちのうち、もともと各地の軍閥に属していた者たちは、ソ連の撤退後、それぞれの軍閥に従って、無法行為をやりはじめます。
 それに対して、立ち上がったのがパキスタンイスラム神学校で学んだ若い神学生(タリバン)たちでした。
 タリバンが受け入れられたのは、その前の軍閥たちの「やりたい放題」があまりに酷かったからだったのですが、もともとが若い神学生たちということもあり、彼らの「厳格なイスラム法による統治」は暴走していきました。

 アフガニスタンの一年間の税収は16億ドルぐらいです。アフガニスタンでの対テロ戦争の経費は年間で1000億ドルに達します。まさに天文学的な資金を投じていますが、そのうちのかなりを欧米からアフガニスタンに赴く人たちの警備に使っているのですから、どう見ても異常な支出と言わざるをえません。それもアメリカ国民の税金なのですから、21世紀のこの時代に、それほど理性の通用しないお金の使い方があることには、驚きを通り越してしまいます。

 なんというか、アメリカは、結局のところ、自分で火をつけて、自分で消火活動を行っているのだけれども、火はなかなか消えずに、莫大な犠牲を出し続けている、という感じなんですよね。
 でも、税収16億ドルの国に、1000億ドルを使うのだったら、もっと賢い使い方があるんじゃないかな……
 たぶん、アメリカにとってこれは「経済活動」になってしまっていて、やめるにやめられないのでしょうけど……
 アフガニスタンにとっては、迷惑な話ですよね。


 また、著者は、パシュトゥン人(アフガニスタンの最大民族)の気質について、こう紹介しています。

 ここでもう一つ、タリバンの執拗さの源泉となっているパシュトゥン・ワリという概念について触れておきましょう。これはパシュトゥン人の「仁義」というべきものです。「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」は、タリバンが、なぜオサマ・ビン・ラディンアルカイダを匿い続けたのかを、よく言い当てています。アフガン人に聞きますと、ほとんどの人はビン・ラディンを好きだったから匿ったのではないと断言します。同様に、アル・カイダを支持していたから匿ったのでもありません。彼らは、かつてタリバン北部同盟と戦ったときに、タリバンを支援した戦士たちでした。その恩義に報いたのです。
 パシュトゥン・ワリという、パシュトゥン人の原点、いわば彼らの民族アイデンティティの根幹をなす「仁義」は、ろくでもないテロリストであっても、かつての恩人であり、ひとたび庇護を求めてきたからにはこれを最後まで守り通すという、パシュトゥン人魂そのものであると言えます。
 これは、イスラーム的感覚とは違います。パシュトゥンという民族独自のものです。したがって、この強固な「仁義」とイスラーム法とが結びついているのがタリバンの本質ということになります。タリバン嫌いのアフガン人でも、パシュトゥン人である限りは、パシュトゥン・ワリを自らのアイデンティティの根幹だと意識しています。

 こういう感覚は、日本人には理解しやすいのではないでしょうか。
 こう言われてしまうと、「テロリストを匿うのも同罪」と責められても、「好きでもない」ビン・ラディンを見捨てなかったアフガニスタンの人々に、同情してしまう面もあるのです。
 「主義主張に賛同しているわけじゃないけど、昔の恩があるから見捨てられない」
 もちろん、同時多発テロは、許されることではないのだけれども。

 
 この本を読んでいると、知らず知らずのうちに「アメリカ的な世界観」を「世界の常識」として受け入れてしまっていた自分に気付かされます。
 これからの日本の方向性を考えるうえで、もう少しイスラム教のことを知っておくべきではないか、と思うんですよ。
 いくら「アメリカ頼り」であっても、根もとの部分では、日本は「キリスト教的な価値観」をアメリカと共有することは、難しいことだとも感じるので。

 

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