本を読んだら、自分を読め 年間1,000,000ページを血肉にする?読自?の技術
- 作者: 小飼弾
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/02/20
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
「読んだら終わり」はもうおしまい!膨大な知識を“本当のチカラ”にする方法。年に5000冊を読破するDanが教える、20代の教養の身につけ方。Danが全国の目利きの書店員さんに聞いてみた「人生をあと押ししてくれたこの一冊」も特別収録。
この本のサブタイトルは「年間1,000,000ページを血肉にする読自の技術」です。
100万ページ、かあ……軽く僕の10倍は超えてます。
この本を読んでみて感心するのは、著者の「本を読むということへの信頼」なんですよね。
もうひとつ突き詰めると、「これまで自分が本を読んで歩んできた人生への信頼」でもあります。
正直、この本を読んでいると「やっぱり本を読むのは大事なことだよなあ」と嬉しくなるのです。
その一方で、「多少本を読んでも、小飼弾になれなかった自分」のことが、ちょっと悲しくもなってきます。
イチローが「野球はいいぞ、楽しいぞ。みんな野球をやろう!」と言うのは、彼がプロの、それも超一流の野球選手となり、それでメシを食っているから。
でも、プロ野球選手を目指してずっと野球をやってきたけれど、夢かなわずにプロ野球チームには入れず、さりとて、他の資格もない、という人間が「それでも野球はいいぞ!みんなやるべきだ!」と言えるだろうか?
いや、この本には、「みんな100万ページ読まなきゃダメだ」って言っているわけじゃないし、けっこう具体的に「どんな本を、どういう方針で読めばいいか」がけっこう丁寧に書かれているんですよ。
本を読む人間が「保守的」になって、同じ著者の作品ばかりを読みやすいことについて、著者はこんなふうにその問題点を指摘しています。
本に関しては、できるだけ多く浮気をしてみてください。ビジネスの本ばかり読んでいる人であれば、歴史の本を読んでみるとか、文学ばかり読んでいる人は、数学の本を読んでみるとか。
たとえば好きな著者がいたとして、その人の本を集中的に読むのは別に悪いことではないのですが、同じ著者だけ読んでいると、本を読んでいるつもりがいつの間にか「本に読まれている」状態になります。著者の主観に染まってしまうのです。
実はこれは非常に危険なことです。「自分で自分を救うしくみ」とは、自分の頭で考えることのできる思考力を養うことでもあるのですが、これではいくら本を読んでも、何も考えることができません。
でも自分では意外とそのことに気がつきません。さまざまな本を乱読した結果として1人の著者に強く惹かれ、その欠点も十分承知した上で深く付き合うというのならまだいい。でも、まだ読書の経験が浅い人が、最初に読んだ本の著者に感化され、他は一切読む気がしなくなるというのは非常にまずいことです。同じ著者の本が本棚の三割を占めていたら危険だと思っていいでしょう。
こういうところで例に挙げて申し訳ないのですが、有名ブロガーのイケダハヤトさんが、中島義道さんの著書で「理論武装」しているのを見るたびに、「また中島さんか……」と感じるようになってきたことを思い出しました。
もちろん、ある人の考えに染まってしまう時期ってあるでしょうし、それはプロセスとしては一概に悪いことではないのだろうけど、中島さんはあくまでも「ひとりの思想家」でしかないんですよね。
異端だから間違っている、ということもないのだけれども。
(まあ、あれだけ「売れている」人が「異端」ってこともないだろうし)
正直、あれだけ「他者を批判するための印籠」として頻繁に使われてしまうというのは、中島さんにとっても不幸でしょうし、ああいうのは、読者と著者の不幸な結びつきだと思うのです。
僕は医学関係の新書のタイトルを書店で眺めていて、暗澹たる気分になることがあるのです。
『抗がん剤は効かない!』とか『コレステロールは下げるな!』とか『糖尿病は肉を食え!』とかいう刺激的なタイトルの本が並んでいて、それを有名大学卒の「医学博士」が書いている。
もちろん、彼らは彼らなりの根拠を持って、そういう主張をしているのでしょうけど、ほとんどが個人的な経験に基づく主観だったり、あまたの論文のなかで、自分の主張に都合がいいごく一部のものだけを「根拠」として紹介していたり、自分の医学の世界でのルサンチマンをばらまいているだけだったりする本も少なくない。
でも、それが有名出版社の「新書」として並んでいると、何か「お墨付き」のようなイメージを読者に与え「大部分の専門家は疑問符をつけるような個性溢れるラクな手法」が正しいと思い込まされるのです。
基本的に、人間って、「自分が信じたいものを信じる」ものだからさ。
もちろん、彼らの主張が将来的に認められる可能性だってゼロではありませんが、盲信するにはあまりにリスクが高いものが多いのは確かです。
命は、ひとつしかないから、「ダメモトで、ちょっと試してみる」わけにもいかない。
医学の世界の本で、そういうものをたくさん見てきたので、他のジャンルの新書でも、たぶん同じような感じなのではないか、と考えているのです。
多くの人が「わかりやすい!」「これが正しそう!」と思うような新書も、そのジャンルの専門家からすれば、「あんなの変わり者の学説で、学会では相手にされてないのに……」という場合もあるのではないかなあ。
それとも、そういうのって、医学関連の「特性」なのだろうか?
かなり脱線してしまいました。
この本で著者が語っているのは「自分の人生を救ってくれたのは読書だった」ということなんですよね。
「ろくに中学校にも通っていないし、家族にも問題があった」にもかかわらず、功成り名を遂げられたのは、本を読んでいたからだ、と。
僕の頭がいいから勉強しなくてもいい点がとれた、というわけではありません。
僕は学校の授業を受けなくなった代わりに、図書館で百科事典などを貪り読んでいたからです。こちらのほうが勉強にムダがあrませんでした。
それに引きかえ、学校の教え方は、効率が悪い。たくさんの生徒に一度に教えるのですから、どうしたって最大公約数的な教え方しかできません。できない子のレベルに合わせて、その子が理解するまで他の人が待たされたりする。家庭教師のように1対1で教わっているのではありませんから、それは仕方がありません。
それに比べ、僕のほうは、読書を通して自分で学ぶという、僕にいちばん合ったやり方を制限されずに使うことができたのです。
こういうと「そんなのは小飼さんだからできることで、凡人には無理です」といわれます。
しかし本当は凡人こそ、世間一般のやり方でなく、自分にいちばん合ったやり方で物事を進めるべきなのです。世の中で定まったやり方や考え方は、どうしても自分にいちばん合ったやり方とはズレが出てきます。勉強ができない子ほど、自分専用の勉強法で勉強したほうがいいですし、仕事がうまくいかないなら、自分専用のうまくいくやり方を1日も早く発見することです。
会社にいてはそんな勝手なやり方は許されないというのなら、会社に属さずに食べていけるだけの何かを身につければいい。そのために、本を読む習慣を身につけるのは、人生を圧倒的に有利なものにさせるのです。
ああ、これは確かにそうだろうな、と思います。
なんのかんの言っても、先人の知恵を学ぶのに「本を読む」ほど効率的なことはないし、本であれば、自分のペースで読める。
この考え方が役に立つ、人生を変える人も、必ずいるはずです。
でもまあ、これは僕がやっているような「娯楽としての読書」とは線引きをすべきなのでしょう。
これは「読書」というより「勉強」なんだろうなあ、たぶん。
たしかに「弾さんのマネができる人は、そんなにいない」と思う。
ただ、「こういうやり方がある」のは事実だし、「どうしていいかわからない」と「マネできない」の間には、大きな溝があります。
「本気で、本を読みたい人」は、一度目を通してみて損はしないはずです。
「やっぱり、こういう人を相手に読書で勝負するのは無理だから、他のこととのバランスを考えながら生きていくしかないな」って、諦めがつく場合もありますしね。