琥珀色の戯言

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【読書感想】本屋を守れ 読書とは国力 ☆☆☆

本屋を守れ 読書とは国力 (PHP新書)

本屋を守れ 読書とは国力 (PHP新書)


Kindle版もあります。

本屋を守れ 読書とは国力 (PHP新書)

本屋を守れ 読書とは国力 (PHP新書)

内容紹介
日本人の15歳の読解力はOECD(経済協力開発機構)の学習到達度調査で急落。月に1冊も本を読まない中高生や、移動時間に新聞や文庫本を読まず、スマホしか見ない大人たち。町の本屋の数は減る一方。著者いわく、これらは国家全体に及ぶ「読書離れと教養の低下」にほかならない。めざすは「書店の復活」である。

「国語力なくして国力なし」「町の書店がなぜ大切か」「インターネットの情報で教養は身につかない」「デジタル本は記憶に残らない」。愛国の数学者が独自の直観と分析によって達した結論が日本人の「常識」になったとき、わが国は再び輝きを取り戻すだろう。


 ベストセラー『国家の品格』の著者であり、新田次郎藤原てい夫妻の息子というサラブレッドでもある数学者・藤原正彦先生の本です。
 
 正直、この『本屋を守れ』に関しては、オッサンの上から目線のモテ自慢、日本礼賛を読まされて辟易したのですけど。

 書店で『本屋を守れ』なんて本が置いてあると、つい、ポジショントークじゃないか、と言いたくもなりますし。

 以前、池上彰さんが、東南アジア諸国(たしか、ベトナムミャンマーだったと思います)に取材に行った際に、若者が書店に大勢いて、本を読んでいる姿が目立った、という話をされていたのは印象に残っています。
 池上さんは、「かつての日本もそうだったし、若者が本を読む、積極的に学ぼうという姿勢がある国は、発展していくはずだ」と書いておられました。

 藤原先生は、「グローバリズム」について、こう仰っています。

──論理的思考の問題から出発して、『祖国とは国語』(新潮文庫)で、アイデンティティとしての国語にも言及されるようになりました。


藤原:十数年前から「グローバリズム」という言葉が登場するようになりました。それに呼応するように、教育の世界では「地球人」とか「地球市民」とか、聞いたことのない言葉がいわれだしました。私はアメリカに三年、イギリスに一年いましたし、いまでも毎年海外に出かけますが、「地球人」なんていう奇天烈なことをいう人は一人として見たことがない。世界のどこに行っても、そこに暮らすのは、そこの国民であり民族。そして、世界のどこへ行っても自らの国を愛し、その文化や伝統をきちんと身に付けた人以外、信用されない。当たり前のことです。


──なのに、「英語ができなければこれからの世界で生きていけない、国際人になれない」といった風潮が、90年代、にわかに高まりました。


藤原:それをいうなら、アメリカ人、イギリス人の大半は国際人になってしまう。でも、彼らにしても、国際人と呼べる人はほんの一部しかいない。世界に通用する人物という意味で「国際人」がありうるとしたら、「四つの愛」が必須条件になると思います。家族愛、郷土愛、祖国愛、そして人類愛。これを、この順に子供たちに教えることができれば、国際人の育成も不可能ではない。英語は関係ない。むしろ、美的感性、もののあわれ、卑怯を憎む心、懐かしさ、惻隠、名誉や恥といった社会的・文化的な価値に関わる感性・情緒を育てることのほうがはるかに大切なのです。こういったものを培うのも、やはり主に国語です。具体的には、本を読むことです。
「四つの愛」を教えるといっても、先生や親が教えることは難しい。下手をしたら思想教育になる。それに、こういった根本となる価値は、教室で学ぶというよりも、子供たちが物語や詩を読んで感動し、涙とともに胸にしまい込むべきものです。「家族を愛せ、郷土を愛せ、祖国を愛せ、人類を愛せ」と説教したり洗脳したりするものではない。したがって、国語教育を通じて本を読む力を育んであげることが、非常に重要になってきます。


 僕は、自分が本ばかり読んできたこともあって、成功した人たちが、「本を読みなさい」と言うのを見たり聞いたりするたびに、「読書をあまりにも美化しすぎなんじゃないか」と思うんですよ。
 本をたくさん読んでも、藤原先生みたいになれる人ばかりじゃなくて、僕みたいに、単に「本をたくさん読んだ人」にしかなれないこともある。というか、そういう人のほうが、たぶん多いはずです。
 それに、本を読む人って、それが自分にとって楽しいから読んでいるわけであって、向き、不向きはありますよね。

藤原:2000年当時、日本の高校生はすでに本を読まなくなっていました。けれども、中学生はまだ読んでいた。ところが現在では、読書をしない中学生の割合は15%です。「残り85%は読んでいる」と思われるかもしれませんが、問題は「読書」の定義。「読む」と答えた人の冊数が圧倒的に少ない。読むか読まないか、0か1かの二択の問題ではなく、絶対的に読書時間が減っています。


──原因は何でしょうか。


藤原:いうまでもなくスマホです。たとえば2011年の統計(内閣府「平成二十九年度青少年のインターネット利用環境実態調査」の参考資料1)を見ると、中学生のスマホ保有率は約3%、高校生は約7%でした。ところがわずが三年後、2014年になると中学生が42%、高校生は91%に跳ね上がります。さらに2019年になると、中学生が90%、高校生が96%。今回、問題にしている中学生に関していえば3%から42%、90%へとまさに激増です。
 おまけにスマホの使用時間を調べると、中学生で平均1日2時間。平均ですから当然、3時間、4時間、5時間を費やしている生徒もいる。その間、奪われているのが「本を読む時間」です。
 スマホの最大の罪はまさにこの一点、「読書の時間を奪っていること」に尽きます。あるいは「孤独になる時間」を奪っている、といってもよい。
 人間の深い情緒は、孤独な時間から生まれます。暇や寂しさを紛らわせるため、スマホゲームに没頭し、LINEやメールのやりとりでせっかくの孤独な時間を台無しにされてしまう。人間にとって最も大事な読書の時間を、スマホという名の麻薬が強奪しているのは大罪です。


 たぶん、世の中のスマートフォン文化に馴染めない、ついていけない高齢者たちは、こういうのを読んで拍手喝采しているのでしょうね。
 僕も、携帯電話、スマートフォンが普及してから、「ヒマだな……」と思うことが全くなくなってしまった気はしているのです。でも、本を読む人にとっては、Kindleによって、いつでも新しい本が買え(あるいは読み放題で読め)るようになり、読書環境は良くなっていると思います。
 もちろん、僕も子どもの頃は紙の本に親しんできましたし、物質としての「本」に愛着もあります。
 ただ、Kindleを長年使ってきて言えるのは、紙だろうがディスプレイだろうが、良い本は良い、ということなんですよ。
 いろんな本が目に飛び込んでくるリアル書店には残ってほしいけれど、時代の流れも考えると、電子書籍を白眼視するよりは、紙の本と棲み分けていくのが妥当ではないでしょうか。

藤原:英語やITのリテラシー(活用能力)より前に人間としての思考能力や情緒力や教養を培わないといけないのに、順序が逆です。また、IT教育の推進派は「活字本なんかなくていい、デジタル本だけで用が足りる」といいますが、デジタル本と活字本には本質的な違いがあります。それは「自然に目に入ってくるかどうか」。デジタル本はパソコンや電子端末の内部にあるから、機器を立ち上げてクリックしないかぎり、タイトルや内容を見ることができません。一方、本棚にある本な何もせずとも自然に表紙のタイトルが目に入ってくる。
 問題は、この「視界に入るか否か」が人間の記憶や情緒と深く関わっている、という点です。
 写真を例に取って説明しましょう。昔はカメラで撮ったフィルムを写真屋へ現像に出し、プリントされた写真を「新婚時代」「子供の成長」などテーマ別のアルバムに収め、本棚に入れていました。ときどき手に取って開き「ああ、いまでは『あなたの顔をじっと見ていると具合が悪くなる』、などと戸主を戸主とも思わない女房も、このころは素直で従順で可愛かった」「ドラ息子たちも夢のように愛らしかった」などと思い出に耽るわけです。


──翻って現在は、ケータイでかつての10倍以上も写真を撮りますね。現像代もかからず、アルバムの置き場にも困らない。


藤原:ところが往々にして、パソコンや携帯電話に保存した写真は撮りっ放しで溜まる一方、見返すことがほとんどない。そのうちに、撮った写真が何だったかすら思い出せなくなってしまう。
 じつは読書もまったく同じことです。紙の本の場合、たとえば部屋に入ってふと本棚に目が留まる。あるいは畳に寝転んで本棚を見上げると「あ、失恋時代に読んだ詩集だ」と気付いて本を手に取る。すると、自分がどんな思いでその詩集を読んだかが、当時の記憶とともにありありと蘇ってくる。私のように逐一、本に線を引いてコメントを記す読者は、気になった箇所に「すごい」とか「ふざけるな」など批評が記してあり、たいへん参考になります(笑)。


 「デジタルだったら劣化しないし紛失することもない」というのが幻想であることは、僕もこの20年くらいで思い知りました。そういう思い込みがあるからこそ、ちゃんと整理しないままSDカードごと紛失してしまったり、再生するためのデバイスが失われてしまったり、パソコンそのものが壊れてしまったり……いつでも見られると思っているものは、結局、見ないのだよなあ。
 そして、ツイッターInstagramで、他人に見せるための写真だけが残っていく。
 本に関しては、Kindleの「ライブラリー」でも、「あのとき読んでいた本だな」と僕は思い出せるようになりました。
 人間とデジタルデータとの付き合いはまだ始まったばかりで、おそらく、ちょっと未来の人たちは、もっとうまくデジタルデータを運用していけるようになると思います。

 内容が刺激的というよりは、「いまの高齢者は、こういうのを読んで溜飲を下げているのか」というリサーチをしているような気分になる本です。
 これでは、なんでもデジタル化!と言っている人たちと相容れないのはしょうがないな、と納得してしまいました。
 

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