琥珀色の戯言

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【読書感想】第159回芥川賞選評(抄録)


Kindle版もあります。


今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった、高橋弘希さんの『送り火』の全文と芥川賞の選評が掲載されています。


fujipon.hatenadiary.com


恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

小川洋子
送り火』が他の候補作を圧倒する存在感を放っていた。ここに現れる暴力はどこにも着地しない。象徴にも手段にもならず、ただ理不尽さだけをまとったありのままの姿で置き去りにされ、底なしの渦を巻いている。転校生が地元少年のねじれた残酷さに出会い、成長してゆく物語だろうなどと油断していると、すさまじい力で渦に引きずり込まれる。混沌の中でおののきながら、同時に、暴力が持つ根源的な神秘に魅入られることになる。進化の途中で初めて出会った、まだ暴力と名付けられる以前の衝動の前で立ち尽くすかのように、読者は言葉をなくしてしまう。


(中略)


 『美しい顔』は、現実を打ち破り、言葉など無意味になる場所へたどり着いたのか。この作品に問われているのは、それだけの覚悟があったかどうかだと思う。

山田詠美
『美しい顔』。東北の震災をテーマにしたノンフィクション作品や被災者の手記の盗用、剽窃にあたるのではないかと物議を醸したこの候補作。本当にそうなのかと、初出の編集部が未掲載であったとする参考文献を読んでみた。で、出版社が言うように、確かに盗用にはあたらないのだろうなあ、とは思った。……が、じゃあ法律的に問題がなければそれで良いのか、というとそうではないだろう。だいたい資料に寄り掛かり過ぎなんだよ! もっと、図々しく取り込んで、大胆に咀嚼して、自分の唾液を塗りたくった言葉をぺっと吐き出す、くらいの厚かましさがなければ。何とも素直というか、うかつというか……。

島田雅彦
松尾スズキの『もう「はい」としか言えない」も浮気がばれ、セックスから逃避したい中年男のやさぐれた俺様愚行小説で、これも一種の青春小説と読める。段落ごとに笑いを取らなければならないという強迫観念ゆえか、差別ネタや紋切り型も辞さない。個人的にはこの手の悪趣味は大好きだが、『こち亀』や『男はつらいよ』にも海外旅行編があり、主人公のパリでの顛末に既視感を覚えてしまったのも事実。


(中略)


 高橋弘希の『送り火』の読みにくさには敬意を払わなければならない。それは予定調和の通用しない世界を描こうとしているからであり、段落ごとに油断ならない状況を冷静に見極める必要があるからだ。ここに描かれているのは津軽という地名はあるものの、何処か別世界、異空間、あるいはタイムスリップして紛れ込んだ時代なのだ。理不尽な暴力が突発する場にあって、高橋が紡ぐコトバは詩的躍動感にあふれ、陰惨な光景を墓の下から見ているようですらある。

川上弘美
「美しい顔」は、物語の語り手の語りの中にあるエネルギーに着目しました。このエネルギーの熱量が大きいからこそ、読者を立ち止まらせない推進力が生まれているのだと思います。ただ、語り手以外の登場人物が、物語を構成するための装置になってしまっていることが、残念だったのです。東日本大震災に関しての、先行する五作品からの引用があると知り、本作品を読んだのちに五作品を読みました。「美しい顔」という作品の美点は、引用部分にあるのではないとわたしは思います。だからこそ、なおさら引用の不用意さを悲しみます。それとはまったく別に、引用された元のノンフィクションや震災被害者の方々の文章を、震災から七年たつ今、じっくり読めたことは、さいわいでした。おりにふれて、これらの文章を、本を、読み返したい。そう、思いました。

宮本輝
 北条裕子さんの「美しい顔」は、表現の幾つかに盗用を疑われる個所があるということだったが、それを抜きにして一遍の小説として評価しても足りないものが多い。
 戦争にしても天災による大災害にしても、それ自体がすでに巨大なドラマ性を持っている。それゆえに、大震災の渦中におけるドラマを描いた小説に対する評価のハードルは高くしなければならない。
 北条さんは作家としての腕力はあるが、避難所で生じる人間ドラマをいささか舐めている。もっとすさまじい修羅場がテレビには映らないところで起こっているのだ。その視点の低さで「美しい顔」は点が低かった。

高樹のぶ子
 暴力とは殴る蹴るの類いの直接的身体的なものもあれば震災などの自然が加害者である場合もある。社会のシステムが若者という弱者に加虐的であるのも理解できる。
 こうした外的な力に対してどう身構えるか、反撃するか、屈服するか、屈服して何を得るか、その姿が青春小説だと言っても良いし、青春小説の魅力もそこにある。
 けれど受賞作「送り火」の15歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭が、作者にとって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。
 しかし高橋弘希さんの的確な文章力は、鋭利な彫刻刀として見事に機能している。その彫刻刀が彫りだしたものに、私はいかなる感動も感興も覚えず、むしろ優れた彫刻の力を認めるゆえ、こんな人間の醜悪な姿をなぜ、と不愉快だった。
 文学が読者を不快にしても構わない。その必要が在るか無いかだ。読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。

吉田修一
「美しい顔」北条裕子氏
 (この作品の「盗用騒動についての言及」のあと)

 さて、この騒動を離れたとしても、今作にあまり好感は持てなかった。お涙頂戴のマスコミ報道を終始揶揄しながらも、今作自体がそのお涙頂戴の流れに乗っているようで(弟が首に母の名前を提げるところなど)、とすれば、自家撞着を起こしているようにも思える。それにしても、こういう作品を読むと、「原爆には感傷はいらない」と被爆後三十年を経て言い切った林京子の言葉が強く蘇る。

堀江敏幸
 文を崩すのではなく、落ち着かせないことで推進力を得ているのが、北条裕子さんの「美しい顔」だ。参考文献の扱いや執筆動機の是非について、議論すべき点はある。しかしそれと同時に、もしくはそれ以前に、右の推進力が前半のみで終わっている点、避難所や遺体安置所の並列的な描写に比して、斎藤さんという女性が語る、子を亡くした体験談の精度が高すぎる点が気になった。むしろ小さな証言のほうに想像力の破れ目があるかもしれない。

奥泉光
(『美しい顔』について)
 物語には人を癒す力がある。しかし被災からの癒しにはもっと物語の熟成が必要だろう。本作は「盗用」が問題になった。これには客観的な基準はなく、常識で判断するほかないわけだが、テクストを比較してみて「盗用」にはあたる範囲内のものだとは自分は思わなかった。ただ参考文献の事後的な提示と謝罪があってなお、参考にされた側の著者の方々に釈然としない気分が残っているとすれば、やはり物語に未成熟なところがあったことが原因だろう。どちらにしても物語の「毒」をどう扱うかは、作家が最も慎重になるべきところである。

 村上龍さんが選考委員を退任された、第159回芥川賞
 村上龍さんの『美しい顔』への選評を読んでみたかった。


 今回は、「引用、盗用問題」で『美しい顔』がどうなるのか話題になっていたのですが、選評を読むと、「盗用かどうかについては『問題点はあるが、明らかな盗用とは言い切れない』が、作品のクオリティは、授賞するレベルではない」という結論のようです。
 
 あまりにも『美しい顔』が話題になっていたので、選考委員のひとり、島田雅彦さんによる「特別寄稿・フィクションと盗用、選考委員はこう考える」という記事も今号に掲載されていました。

 僕は芥川賞の選考委員になるような実績のある作家たちが、この盗用問題についてどう評価するかに注目していましたし、おそらく、意見が割れるのではないか、かなり厳しく北条さんを戒める選考委員がいるのではないか、と思っていました。
 ふたを開けてみると、先輩作家たちは、北条さんに比較的温かく接しているようです。

 北条裕子さんの「美しい顔」が惹起した、いわゆる「盗用問題」については、各選考委員の皆さんがそれぞれ独自に状況を把握し、真摯に選考会に臨まれたと思います。
 その結果、本作は「盗用」ではない、という点については、どなたからも異議が出ませんでした。
 私なりにその根拠を述べますと、「美しい顔」の版元の講談社と、引用元とされる各版元との間で様々な原則の確認がなされた模様であること。また私自身、問題個所を対照して見ましたが、表現の類似が見られるところも、文章を丸ごとコピーアンドペーストしたものではない。ぎりぎりセーフであり、仮に引用・参照先の明記があるならばクリアーできた問題だと、これは選考委員の共通した認識だったと思います。
 ただ、「盗用」ではないとして、では文学作品として読んだ印象は、と聞かれると、難しい感想を述べざるをえません。


 まあ、当事者どうしは「手打ち」しているんだから、とも読めるコメントではありますよね。
 丸ごとコピーアンドペーストしたものではないけれど、あまりにも似すぎていて、かえってたちが悪いようにも感じるんですよ。
 小説でノンフィクションをきっちり引用して、引用元を文中に明記するというのも、興ざめだし、それなら最初から、ノンフィクションのほうを読めばいい、ということになりますよね。
 フィクションの物語を書くことを生業とする小説家が、自分の作品に出てくる業界を詳しく取材することは珍しくありません。
 ただ、それは義務ではないし、参考文献や映画やテレビ番組、自分の想像力で描いてはいけないわけではない。
 むしろ、ノンフィクション作家たちが縛られている「事実や実際に起こったことしか書けない」という制約から自由であることが、小説家の武器でもあるのです。
 選考委員たちも、すべて自分で取材をしてきたわけではなく、他の人が取材した資料や本をもとに作品を書いたことはあるはずで、それを思うと、北条裕子さんを責めづらいはず。
 「資料から『引用』するのは小説にとって悪ではないけれど、素材そのままじゃなくて、もうちょっと自分でちゃんと料理してお客さんに出せよ……」と言うのが、選考委員たちの気持ちではなかろうか。
 あまりにも無防備に「ものすごくコピペっぽい表現」を使ってしまった北条さんに対して、「狡猾さ」を感じていないのだろうな、とも思うのです。
 個人的には、北条さんは当事者や取材者の言葉以上に説得力があるフィクションを生み出すことができなかったのだろうな、と。
 というか、東日本大震災を語ることに関して、現時点では、フィクションはノンフィクションに圧倒されている、ということなのでしょう。

 島田雅彦さんは、この文章のなかで、こんな話をされています。

 最も優れた前例として、大岡昇平さんの『レイテ戦記』が想起されます。実際のところ『レイテ戦記』とは、フィリピンでの戦争体験をもとに『野火』を書いた大岡さんが、ある意味『野火』の責任をとり、『野火』の落とし前として、生存者に膨大なインタビューを敢行して書き上げた作品です。事実に即したフィクションとは、本来そこまで厳しいものです。誰にでもできるものではない。
 やはり選考会後の記者会見で、私は開高健さんの『輝ける闇』に言及しました。開高さんはベトナム戦争の取材経験を活かし、取材の様子も盛り込みつつ『輝ける闇』を書いた。それに対して三島由紀夫が「行かなくても書けた」と言った。取材記としてベトナム戦争の闇を赤裸々に描こうとするなら、当事者でもない日本人が少々取材したってわかるわけがないーこうした限界を三島は暗に指摘したのだと思います。
 ただ、開高さんにとっては、作家がベトナム戦争に材をとった小説を書く上で、自分も現地に足を運んだという事実が大いに自信になったことでしょう。そして『輝ける闇』を読んだ読者も、よくあんな危ない戦場に取材に出かけたな、というリスペクトを開高さんに抱いたのです。
 一方、小説としてすばらしいものを書くなら、取材は必須ではない。作家の想像力によっていくらでもいいものは書ける。それが三島の立場だったと言えるでしょう。


 受賞作の『送り火』に関して、僕は技術的には申し分のない作品だし、読んでいてどんどん不安になってくる感じはすごいな、と思ったのです。
 その一方で、これが受賞作でなかったら、感想を書こうと思っていなかったら、最後まで読まなかっただろうな、とも。
 つまらない、というより、読んでいると気が滅入ってくるし、ひたすら「悪い予感」がする作品なんですよ。
 それを作者も狙っているのはわかるのだけれど、この作品に対しては、高樹のぶ子さんの選評に大いに共感したのです。
 心地よい小説だけが必要なわけではないのは理解しているつもりだけれど、『送り火』は、あまりにも不毛ではなかろうか。


送り火 (文春e-book)

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輝ける闇

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