琥珀色の戯言

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【読書感想】学校の中の発達障害 「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「学校・学級選び」「友達関係」「勉強」「登校しぶり」…子どもたちの困りごとをすべて網羅

著者は、臨床経験30年以上の発達障害の専門家。未就学の幼児から成人まで多数の発達障害の人たちの診療に当たってきました。
発達障害の人たちの社会参加を難しくするのは、発達障害の特性よりも、身体症状、うつなどの二次障害によることが大きいと、著者は感じているそうです。

そして、小学校以降の発達障害の子の場合、学校生活の中で経験するストレスなどが要因となって、不登校などの問題が生じることも少なくありません。発達障害の支援で、最も重要なことは二次障害を予防すること、そして、二次障害が生じたときにその悪化を防ぐことです。そのためには、学校が子どもたちにとって楽しく学べる場である必要があります。

発達障害のお子さんは、「多数派」「標準」「友達」に合わせなくてもいい――とはいうものの、学校とは「多数派」「標準」「友達」に合わせるべき最たるところ。いったいどうやって、発達障害の子は学校と折り合いをつけていけばいいのか、じっくり考えていきたいと思います。


 学校という場所については、自分が通っているか、自分の子どもが通っているとき以外は、いま、どんな感じなのか、実態を知らないまま、自分が通っていたときの経験だけで語ってしまいがちですよね。

 僕も、「いまの日本の教育は……」みたいな本を読んだり、メディアで伝えられたりしているニュースを見たりして、「わかっているつもり」でした。
 でも、自分の子どもたちが小学校に通うようになって、授業を見たり、先生たちの話を聞いたりしてみると「学校も時代に合わせていろんなことが変わってきているんだなあ」と、「自分がわかっていたつもりになっていたことがようやくわかった」ような気がします。
 僕が小学校に通っていたのは、40年くらい前ですからね……学校のシステムや先生たちの意識は変わってきていて、子どもたちは40年前とあまり変わっていない。
 何にしてもそうなのですが、人類全体の知識やシステムの進化に比べて、人間そのものは、そう簡単には変わらない(変われない)ものかもしれません。

 この本には、学校での「発達障害」の子どもたちへの向き合いかたの変化と、「発達障害」という概念が広まり、ある意味拡大解釈されていくなかで、今後、どうしていけば良いのかについての著者の提言が書かれています。

 この本のテーマは「学校」と「発達障害」です。学校の中で発達障害の子どもたちがどんな生活をしているのかを解説していきます。
 発達障害の子どもには個性的な子が多く、それに対して学校はどちらかといえば平均的な子に合わせてつくられています。そのため、発達障害の子は学校生活をする中で、どうしても困りごとが多くなりがちです。
 私も学校関連の困りごとをよく相談されます。相談内容として多いのは「授業中に立ち歩く」「友達関係のトラブルが何度も起こる」「勉強や宿題についていけない」「配布物をなくしてしまう」といったことです。「子どもに発達障害の特性があり、どの学級を選ぶかで悩んでいる」という相談もよくあります。
 この本では、そのような例をとりあげながら、発達障害の子がどうすれば学校でのびのびと過ごせるのかと解説していきます。右に挙げたような悩みが思い当たるという親御さんや学校の先生方は、ぜひご一読ください。困りごとを解決するためのヒントが見つかると思います。


 正直、僕自身も「友達関係のトラブル」が多く、「配布物をなくす」子どもだったと思いますし、逆に、こういう問題とまったく無縁な子どもっているのだろうか?という気もします。

 実際のところ、「発達障害」という概念は広く知られてきている一方で、発達障害的な要素を持っていながらも、それなりに周囲に「適応」して生きている人もけっこういて、グレーゾーンが広すぎるとも感じるのです。
 僕自身もかなり「発達障害的なところが多い」のだけれど、「他人とうまくやれない」というのは、子どもにとっては珍しくない「通過儀礼的な悩み」なのかもしれません。


 著者は「教室を飛び出してしまう子ども」を、本人の事情とともに、「先生ができること」「親ができること」という観点から分析しています。

 教室を飛び出す理由としてよくあるのは、人間関係がちょっとこじれて、子どもに強いストレスがかかっているというパターンです。子どもがストレスでパニックのような状態になり、がまんできずに教室を飛び出していってしまうのです。
 例えば、「友達にからかわれてイライラした」「先生の発言と聞いて、ちょっと嫌になってしまった」といった理由で、子どもが強いストレスを感じることがあります。その場合、両者で話をして問題を解決できれば、飛び出すことは減っていくでしょう。
 そのように「明らかな理由」があれば、対応法も考えやすくなります。しかし、飛び出したときの様子を確認してみても、特に思い当たることがないという場合もあるでしょう。そのときには、別の理由を考えていく必要があります。


 この「理由がわからない」場合に対して、著者は以下の3つの理由が当てはまるかどうか、聞くようにしているそうです。

 1つ目は「授業の内容がわからない」。その子には内容が難しすぎて、授業に参加できていない。発言や質問もできなくて、やることがなくなってしまっている。


 2つ目は「授業の内容に興味が持てない」。好きな授業には集中できるけれど、それ以外の時間は上の空になりやすい。授業と関係のない作業をしてしまうことがある。


 3つ目は「衝動に負けてしまう」。先生の話を聞こうとしても、ふとした瞬間に何かに気をとられて、衝動的に立ち歩いてしまうことがある。


 このような理由があるときにも、子どもは立ち歩いたり、フラッと廊下に出ていったりします。このような例が思い当たる場合には、人間関係のトラブルとはまた別の対応が必要になります。

 いま挙げた3つの例は、いずれも「授業や学習環境」と「子どもの特性」が合っていないというパターンです。子どもが教室を飛び出すことには、じつはそのような「相性の悪さ」が影響していることもあります。子どもが教室を飛び出すことが悪いわけではなく、先生や親のやり方が悪いわけでもなく、相性が悪いのです。


 「教室を突然飛び出すなんてけしからん!」「情緒不安定な子どもだ」と怒ってしまう先生や親も、少なくないとは思うのです。自分の子どもや教え子でもなければ、なおさら。
 しかしながら、この本を読むと、先生たちというのは、少なくとも優秀な先生は、このような子どもたちの状況を想定して日々の授業を行っているのです。

 私はこれまでに横浜市山梨県、長野県で、さまざまな学校とやりとりをしてきました。また、研修会などで各地の学校関係者と交流してきました。私が見聞きしてきた中で、対応の上手な先生たちは、子どもが教室を飛び出す前に授業を調整していました。
 そういう先生は「こういう内容の授業をしよう」と考えたときに、「この授業をこのやり方で進めた場合には、誰と誰はちょっとソワソワするだろうな」という予測を立てます。そして、その子たちには少し違う課題を用意しておくのです。
 例えば「復習として15分間ドリルをやってもらう」という計画を立てたときに、15分間じっと座っていられないタイプの子がいることがわかっていたら、その子には別の課題を出すか、または、全員に対して「ドリルに取り組む間、途中で休憩してもいい」というルールを設定します。そのような微調整によって、集中するのが苦手な子もそれなりに取り組める環境を用意するわけです。


 ああ、先生たちの学級運営や授業のノウハウも、かなり進歩してきているのだなあ、と力強く感じるところも、この本を読んでいるとたくさんありました。
 そして、子どもが抱えている問題を把握するためには、学校と家庭の連携が大事である、ということも。
 学校を責めるよりも、お互いに持っている情報を共有して、子どもがやりやすい環境をつくってあげたほうがいい。
 もちろん、すべての学校が進化している、というわけではありませんし、先生たちの仕事があまりにも量的にも質的にもハードになってしまい、現場は疲弊しているのも事実なのですが。


 著者は、特別支援学級について、こう述べています。

 私は、特別支援教育では「居場所」という発想を持つことが大切だと考えています。
 親御さんや学校の先生の中には、「子どもは通級などでいろいろなことを学んで、集団に入れるようになったら通常学級に戻るんだ」と考える人もいます。特別な場を「仮住まいの居場所」のようにとらえているのです。特に知的障害がないタイプの発達障害の子の場合、大人がそのような発想を持つケースが見られます。
 しかし、大人がそう考えていると、子どもも当然、同じような考え方になります。子どもとしては通常学級よりも通級や支援級のほうが学びやすいと感じていても、そこを早く出て通常学級に戻らなければならないと考えてしまうことがあるのです。そうやって通常学級こそが自分の居場所だと考えていると、通級や支援級で、地に足をつけてじっくり学ぶことが難しくなります。一方で、あせって通常学級に戻っても自分に合わないことが多く、しんどさを感じたりもします。
 そうではなくて、特別な場での教育を必要としている子どもには、通級や支援級、特別支援学校が「居場所」になることが大切です。自分の居場所で支援を受けて、勉強や生活習慣などをじっくり学びながら、通常学級でもできそうなことがあれば、そちらにも参加するという学び方のほうがよいのです。


 「ふつう」であることにこだわるあまり、子どもに無理をさせ、どこにも居場所がなくなってしまう。
 僕はこれを読みながら、「そうだそうだ」と思いつつ、もし自分の子どもだったら、やはり「通常学級」にいてほしいと望まないだろうか?と自問せずにはいられませんでした。
 
 社会で「個性」とか「多様性」の重視が叫ばれてけっこう経つけれど、僕のような50男には「ふつうであることの呪縛」から逃れるのは、かなり難しいのです。

 子どもにとって、何がいちばん良い選択なのか?
 子ども自身が選べれば良いのだろうけれど、小さい子どもの場合には、親が決めざるをえないこともあるはずです。

 「多様性」の重視には、イデオロギーや「正しさ」の押しつけではなく、「それぞれの人の状況についての理解と、うまく折り合っていくための技術」が必要なのだということを考えさせられる本でした。


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