琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

大人の流儀 ☆☆☆☆


大人の流儀

大人の流儀

内容説明
苦難に立ち向かわなければならないとき。
人に優しくありたいと思ったとき。
どうしようもない力に押し潰されたとき。
自分のふがいなさが嫌になったとき。
大切な人を失ってしまったとき。
とてつもない悲しみに包まれたとき。

こんなとき、大人ならどう考え、
どう振る舞うのだろう。

 先日の『情熱大陸』に伊集院静さんが出演されていたのを観て購入。
 僕にとっては、「絶対に真似できないけど、カッコいいと思う大人」の代表みたいな人です。
 (ギャンブルに)勝ったら2000万円を紙袋に入れて祇園へ直行、なんていうのは、やっぱり「普通じゃない」。そもそも、2000万円勝つためには、どのくらい賭けなければならないかを想像すると、気が遠くなりそうです。
 そうやって憧れる一方で、「ああいうギャンブル生活ができるのも、作家という『自由業』のだからなんだよね、所詮」などという気持ちもあって。

 このエッセイ集を読んでいると、伊集院さんが考えている「大人」のカッコよさと同時に、そうやって「大人として」生きることの厳しさに背筋が伸びるような気がします。

 当人がどれだけ注意していても災難の大半は向こうからやってくる。交通事故と同じだ。
 スイスの登山鉄道、ユタ州の自動車事故と楽しいはずの海外旅行での悲劇が続いた。
 自動車事故の方は原因がまだはっきりしないが、運転手の過労による運転が取り沙汰されている。同業者の弁で、何度か車が右に左にゆれるように走ったと言う。
 このことが事実だとしたら、なぜ誰かがその場ですぐに運転手に注意しなかったのか、それが私には解せない。
 時々、私は遠出のときやゴルフで車を手配されることがある。『その折、運転が危険だったり妙に思えると即座に運転手に訊く、
「君、疲れているのかね」
「い、いいえ」
 それで運転が直らなければ構想道路だろうが、山の中であろうが、
「君、車を止めなさい」
 と言って下車し、タクシーなり別の交通手段を選ぶ。これがもう三、四度あり、口では言わないが、その車を手配した会社とはなるたけ仕事を住まいと決めている。
 一人旅より、団体旅行の方が事故が多いのは、旅に危険はつきものだという根本を忘れがちになるからだろう。
 よく旅慣れているのでという年輩者がいるが、それは団体旅行で慣れているのが大半で、危険が近づいていることにすら気付かないで来た人がほとんどだ。

 この話を読んで、僕は「フラフラ走っているタクシー」や「途中で平然と携帯電話で話しているタクシー」に乗ってしまい、ひたすら自分の不運を呪い、「なんとか無事に目的地についてくれ……」と祈っていたときのことを思い出しました。
 それこそ、「街中でいくらでも他の車に乗り換えられる」にもかかわらず、「目的地はすぐ近くだから」とか「あれこれ言ってトラブルに巻き込まれるのはめんどくさいから」などと考えてしまうんですよね。
 もしそれで事故に遭ったら、ずっと後悔するはずなのに。
 逆に言えば、過去の事例でも「自分の力で避けられたはずの事故」って、けっして少なくないはずなんですよ。
 一時的なトラブルが起こるとしても、ちゃんと「避けられるリスクは避ける」というのは、すごく大切なことではないかな。
 それがなかなか「できそうでできないこと」なのですが、そんな言い訳は、もうやめたい。

 このエッセイ集の内容の多くは、伊集院さんがいままでの人生で出会った人たちの話です。

 恩師・M野先生は、私にとってまさに家族のごとき人であった。
 今から四十五年前の春、私が通っていた高校にM野先生は担任の教師として赴任してこられた。
 倫理社会の担当だった。
 先生は京都の大学時代の専攻は哲学だが、当時の日本は安保闘争でキャンパスも荒れていた。M野青年は学生運動の急先鋒の闘士だった。警察にもやっかいになった。
 運動に破れた青年は、日本を立て直すには若者の教育だと決心し、教職の道を歩みはじめた。
 田舎の進学校に赴任して、すぐに生徒たちは先生の武勇を知ることになる。その高校には体罰を平気で与えるベテラン教師もいた。その教師とやり合った噂はたちまち生徒にひろがった。
 最初の授業は、広島に原子爆弾が投下された朝の新聞記事だった。
「いいですか、国家は政治家が何かをするのではなく、国民一人一人が正しいことは何かを知ることです。マスコミが正しいと信じてはいけません。マスコミも多くの誤ちをしてきたのです。

いまこの先生の話を読むと、本当にそうだな、と感じずにはいられません。
「政治家が悪い」「マスコミが悪い」と思考停止してきた人々に、田舎の一学校の教師として、警鐘を鳴らしてきたこんな人が、この国にもたくさんいたのだと思います。
僕は「全共闘世代」を、「政治闘争ごっこに明け暮れて、卒業したらアッサリ『転向』してしまった、情けない人々」だと思っていたのだけれど、少なくとも、彼らは、「他人の責任にせず、自分で考え、自分で行動しようとしていた」のは事実です。
そして、そうするべきだということを、世の中に訴えようとしていた。
あるいは、M野先生のように、訴え続けていた。
ほんとうに「情けない」のは、僕のほうなのかもしれません。

ギャンブルについての、こんな含蓄のある話もあります。

 私は若い時、何を思ったのか、当代一の打ち手を目指して、その当時、一、二と呼ばれた車券師とともに過ごした。数カ月くっついた挙句言われた。
「何の得もありませんぜ、一から百まで博打打ちは手前が勝てば、それでいいんです。日本一のギャンブラーってのは日本で三流、五流の一番の馬鹿ってことです。考えてみて下さい。八百屋だって豆腐屋だって懸命にいいものを仕入れたり、こしらえれば喜ぶ人がいるでしょう。あんたのところの白菜、豆腐は美味かった。お陰でいい夜でした。ギャンブラーはいっさい他人の為には生きません。初めっから死ぬまで自分さえよければいいんですよ。どう考えても最低でしょう。無駄です」

僕も競馬場で熱くなったときには、この「無駄です」と思い出そう。

このエッセイ集には、いままで語られることのなかった、亡妻・夏目雅子さんのことを書いた文章が巻末に収められています。
ふたりの出会い、闘病生活、そして、伊集院さんが「お金にこだわらない生き方をしようと思った理由」。
25年経ち、淡々と語られているのが、かえって心に染みます。


最後に、この本のなかで、僕がいちばん印象的だった文章をご紹介して終わります。

三歳と一歳の子供を部屋に鍵をかけたまま放っておいた若い母親の事件を、マスコミはこぞって書き立てる。風俗で働いていることを罪のように書くが、それは間違っている。
 以前、歌舞伎町のビル火災の時の被害者に何人かの従業員と風俗嬢がいた。そこで働いたことがイケナイという論調があった。
 風俗で働くことが悪いわけがない。彼女たちも人の子であり、夢があり、何か目的、事情があって働いている。私は健げだと思う。性の捌け口、孤独の依る所は社会にとって必要だからこうして存在しているのだ。
 自分のことを棚に上げて、正義を振りかざす輩を嘘つきと呼ぶ。

こういう「ネットではすぐに炎上してしまうような他者への思いやり」を世に問うのは、まさに、「作家の仕事」であり、「大人の勇気」だと思います。

正直、もうすぐ40歳の僕には「そんなことできないよ」あるいは「それは納得いかない」と思うような「年上からのお説教」みたいな話も少なからず含まれているのです。
でも、「耳ざわりの良い話」だけを読むより、ずっと刺激的な体験ではあるはず。
自分が「大人」になれているのか自信の持てない、たくさんの人たち(とくに男性)におススメします。

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